心のデボーション035

デボーション1
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† 心のデボーション 00341

「ヱホバいひたまふ人我に見られざる樣に密かなる處に身を匿し得るかヱホバいひたまふ我は天地に充るにあらずや」 エレミヤ23:24 明治元訳聖書

「人が隠れた所に身を隠したら、わたしは彼を見ることができないのか。――主の見告げ。―― 天にも地にも、わたしは満ちているではないか。

 「ぬるぬるしたウナギ」

ドイツ語で「捕えどころがない」をaalglatt という。all は「うなぎ」、glatt は「ぬるぬるした、滑らかな」という意味である。どんなことも巧みにすりぬけ、如才なくこなすのが「ぬるぬるしたウナギ aalglatt」である。のらりくらりとしてとらえどころがない。

だが、その手は神には使えない。

(†心のデボーション00341)

† 心のデボーション 00342

「汝朝に種を播け 夕にも手を歇るなかれ 其はその實る者は此なるか彼なるか又は二者ともになるや汝これを知ざればなり」 伝道11:6 明治元訳聖書

「朝のうちに種を蒔き、夕方になっても手を休めるな。実るのはこれか、あれか、あるいは双方か、あなたには分からないのだから」 フランシスコ会訳聖書

 「夕方の種まき」

一日の種まきは早朝に始まる。仕事がはじまる前に、その一日が決まる。

だが、箴言は「夕方になってもその手を休めるな」という。昼には「昼にまく種」があり、夕には「夕でなければ蒔けない種」がある。

(†心のデボーション00342)

† 心のデボーション 00343

「我いかにしてその賜へるもろもろの恩惠をヱホバにむくいんや」 詩篇116:12 明治元訳聖書

「主のすべての恵みに、わたしは何をお返ししよう」 フランシスコ会訳聖書

 「お返し」

借りたものを返さないのは悪だと、聖書は語る。(詩篇37:21) では、「主が、ことごとく私に良くしてくださった」ことに対して、何を「お返し」したらよいのだろうか。

エリフはヨブに「私の造り主に義を返そう」と促す。(ヨブ36:3) しかし、私は主に喜んでいただけるような「義」を持ち合わせていない。ただ、「あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタイ10:8)というイエスの言葉に思いをめぐらすだけである。

(†心のデボーション00343)

† 心のデボーション 00344

「我もし國語の意義を知らずば、語る者に對して夷人となり、語る者も我に對して夷人とならん」 Ⅰコリント14:11 大正文語訳聖書

「だから、もしその言葉の意味が分からないとなれば、話し手にとってわたしは外国人であり、わたしにとってその話し手も外国人であることになります」 新共同訳聖書

 「バルバロスの会話」

英語でIt’s a Greek for me. は直訳で「まるでギリシャ語のような・・」となるが、「言っていることがわからない、ちんぷんかんぷん」の意味である。ドイツ語で、くだらないことをしゃべることを babbein という。これはⅠコリント14:11の「外国人」と訳されたギリシャ語「バルバロス 野蛮人」に由来する。

言葉はわかっても、意味が通じなければ「バルバロス」の会話である。わかってもらおうと力を入れると、ますます理解不能のことばになってしまう。

知的な人の会話が「バルバロスの会話」に聞こえる時がある。

(†心のデボーション00344)

† 心のデボーション 00345

「されど我らの國籍は天に在り、我らは主イエス・キリストの救主として其の處より來りたまふを待つ」 ピリピ3:20 大正文語訳聖書

「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」 新共同訳聖書

 「我らの國籍は天に在り」

いつの頃からか、日本のクリスチャンの墓碑に「我らの國籍は天に在り」と刻むようになった。「国籍」と訳されたギリシャ語「ポリトイマ」は市民権を意味する「ポリス」から来たものである。クリスチャンとは神の国の市民としてふさわしい生活をこの世でおくる者のことである。墓碑にあえて書かずともよい。

(†心のデボーション00345)

† 心のデボーション 00346

「汝ら常に主にありて喜べ、我また言ふ、なんぢら喜べ」 ピリピ4:4 大正文語訳聖書

「主に結ばれた者として、いつも喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」 フランシスコ会訳聖書

 「主に結ばれた者」

嫌なことはさらりと忘れられればよいが、そうはいかない。なぜ自分だけがと考えてしまう。いつも自分を被害者に感じるのは意識し過ぎかもしれない。どこかに自分が認められないという不満があって、少しでも人に非難されると過剰に反応してしまうのかもしれない。「小さい、小さい」とつぶやいてみるが、思いはすぐに帰って来る。

他による評価に敏感になるよりも、「自分の喜び」を深くすることだ。他に結びつくよりも、「主に結ばれた」ことを喜びたい。

(†心のデボーション00346)

† 心のデボーション 00347

「おいたる者の美しきは白髮なり」 箴言20:29 明治元訳聖聖書

「老人の美はその白髪」 フランシスコ会訳聖書

 「老人の美」

養老孟司さんの本に「ウバタマムシ 姥玉虫」の話が出て来る。「ウバタマムシ 学名:Chalcophora japonica japonica Gory」は派手な衣装の「ヤマトタマムシ」にくらべると見かけがかなり地味なことから、「ヤマトタマムシ」の雌と思われたりするが実は夫婦というわけではなく、また老いたヤマトタマムシでもなく、まったくの別ものである。松の木にみられ、松に擬態したと思われている。美満田晴穂さんによると「よく見ると灰褐色の中に金銅色など複雑な色が混じり、地味ながらも品のある美しさがある」という。

老いて頭は白くなった。だが、それが「老いの美」と感じるには、なお老いる必要がある。老いて後、幾度も老い直すのだ。

(†心のデボーション00347)

† 心のデボーション 00348

「我は卑賤にをる道を知り、富にをる道を知る。また飽くことにも、飢うることにも、富むことにも、乏しき事にも、一切の秘訣を得たり」 ピリピ4:12 大正文語訳聖書

「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています」 新改訳聖書

 「富にをる道・卑賤にをる道」

真の富める人は貧しさを知っている。そして、真の貧しい人は豊かさを知っている。しかも、両者は同じではない。どちらが容易いとも、尊いともいえない。人は今の自分からパウロの言葉を受け取ればよい。

(†心のデボーション00348)

† 心のデボーション 00349

「我は汝らの衷に善き業を始め給ひし者の、キリスト・イエスの日まで之を全うし給ふべきことを確信す」 ピリピ1:6 大正文語訳聖書

「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです」 新改訳聖書

 「良き働き」

神は私のうちに「良い働き」を始められる。神は私によって仕事をされる。成し遂げるのは神である。私は「良き働き」の中にだけ「私」を感じる。それもまた神の仕事であるのか。

(†心のデボーション00349)

† 心のデボーション 00350

「愛なき者は、神を知らず、神は愛なればなり」 Ⅰヨハネ4:8 大正文語訳聖書

「愛さない人は神を知りません。神は愛だからです」 フランシスコ会訳聖書

 「愛に渇く」

「愛が信じられない」という人は、愛の不信に傷つきながらも、愛に渇いているのかもしれない。強い失望は、強い渇望と結びつく。

人は愛されることよりも、愛を失うことから、より多く愛を学ぶ。

愛は決して失われないところ、つまり、神からはじまる。

人は断たれ、苦悩し、渇望し、愛に至り、そして自己を知る。

(†心のデボーション00350)

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