† 心のデボーション 00331
「あしき者はものかりて償はず 義きものは惠ありて施しあたふ」 詩篇37:21 明治元訳聖書
「主に逆らう者は、借りたものも返さない。主に従う人は憐れんで施す」 新共同訳聖書
「カレンダー」
「カレンダー calendar」はラテン語 calendae(calends 「ついたち」) からきている。ローマ暦の月の初めの日を意味した。その後、「ついたち」が金銭の精算日であったことから「金貸しの出納簿」の意味になったという。
借りたものの精算をすませてから新しい月が始まる。そのようにしてカレンダーをめくる者は幸いである。しかし、与えられたものによって生き、借りることのない暮らしは、さらに幸いである。
(†心のデボーション00331)
† 心のデボーション 00332
「われ掌になんぢを彫刻めり なんぢの石垣はつねにわが前にあり」 イザヤ49:16 明治元訳聖書
「見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常にわたしの前にある」 新共同訳聖書
「神の掌珠」
神の「掌」に私の名が刻まれている。神は私を忘れ給わない。(イザヤ49:15)
人は「神の掌珠」である。
(†心のデボーション00332)
† 心のデボーション 00333
「又なにゆゑ衣のことを思ひ煩ふや。野の百合は如何にして育つかを思へ、勞せず、紡がざるなり」 マタイ6:28 大正文語訳聖書
「着る物のことをなぜ思い煩うのか。野のゆりがどのように育つかをよく見なさい。ほねおることも、紡ぐこともしない」 フランシスコ会訳聖書
「今を生きる」
「この幸せが、いつ壊れるか心配です」と考える人は、あまり幸せではないかもしれない。「今」が幸せならその幸せに生き、不幸ならその「不幸」の「今」を生きるのが幸せだからである。
野の花はやがて自分がしぼむのを知っている。しかし、枯れることを厭いはしない。それは、自らのいのちを種として宿していくことだから。美しさはいつも「今」の営みにある。
(†心のデボーション00333)
† 心のデボーション 00334
「汝準備をなせ汝と汝にあつまれるところの軍隊みな備をせよ而して汝かれらの保護となれ」 エゼキエル38:7 明治元訳聖書
「備えをせよ。お前も、お前のもとに招集されるすべての集団も備えをせよ。お前は彼らの監督となれ」 新共同訳聖書
「備えあれば憂いなし」
『書経』説命中に、「これ事を事とする(するべきことをしておく)乃ち其れ備え有り、備えあれば患い無し」とある。「憂い」は「患(い)」とも書く。
英語には Lay up for (or against) a rainy day. 「雨に備えよ」と言われる。
だが、まだ雨も降らぬのに、傘をもちカッパを着、長靴を履くものではない。人は備え過ぎると、かえって不安が生まれる。
だが、「汝準備をなせ」という声を無視するのは、もっと怖い。
(†心のデボーション00334)
† 心のデボーション 00335
「我は善き牧者にして、我がものを知り、我がものは我を知る」 ヨハネ10:14 大正文語訳聖書
「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」 新共同訳聖書
「いじめ」
今の子どもは友達に無視されるのを恐れる。毎日「パイキン、汚い、ゴミ」と言われても、仲間外れにされるよりはいいと考えて我慢してしまう。どんな悲惨ないじめがあっても、誰にも打ち明けることをせず、明るい顔をして家に帰ってくる。そのため、いじめはますます陰険に、長く続く。
親は家で見せる子どもの表情がすべてではないと知る必要がある。何より悲惨なのは、子どもが経験していることを親が「知らない」ことだ。
(†心のデボーション00335)
† 心のデボーション 00336
「其人の智愚は誰かこれを知らん」 伝道2:19 明治元訳聖書
「後継者が知恵ある者か愚か者か、だれにわかろう」 新改訳聖書
「アラビア人の遺言」
あるアラビア人が十七頭の馬を残して死んだ。三人の息子に長男には二分の一、次男には長男の残りの三分の二を、三男には次男の残りの三分の一を相続させると遺言した。
しかし、どうしても遺言どおりに分けられない。困っているとある旅人が「私の馬を一頭差し上げます」と言った。それでは旅人が困るのではと言うと、旅人は「心配いらない」と答える。旅人の馬を加えて計算すると、長男は九頭、次男は六頭、三男は二頭となった。三人の合計は十七頭で、余った一頭を受け取って旅人は去っていった。
では父親の遺言は正しく守られたのだろうか?
そうではない。実は父親は、三男が受け取った後の三分の二を「誰にも相続されない分」として残すように遺言したのだが、旅人は十七頭全部を息子たちの相続分として分けたばかりか、ちゃっかり自分の一頭を取り戻して見せたのである。
見事に難問を解いた旅人よりも、財産を「十七頭の馬」という割り切れない数で相続させ、「誰にも相続されない分」を残そうとした父親の知恵に拍手したい。財産は子どもだけに相続させるものではない。
(†心のデボーション00336)
† 心のデボーション 00337
「またヘルモンの露くだりてシオンの山にながるるがごとし そはヱホバかしこに福祉をくだし窮なき生命をさへあたへたまへり」 詩篇133:3 明治元訳聖書
「ヘルモンにおく露のように、シオンの山々に滴り落ちる」 新共同訳聖書
「ヘルモンの露」
日本の神話には「水分神(みくまりのかみ)」がおり、祈年祭に「みくまりに坐(ま)す皇神(すめがみ)たち」とうたわれる。分水嶺におわす神々である。
古来、日本人は「山」は神がいまし、人々に稲を育てる「水」を配ってくれると信じ、「水くまり山(水配り山)」と呼んで大切に扱った。
詩人は「兄弟が共に座っている」のを見て、「なんという恵み、なんという喜び」と歌い、ヘルモンの山に降りた露が「清き水」となって流れきたと賛美するのである。(詩篇133:1)
(†心のデボーション00337)
† 心のデボーション 00338
「ヱホバかくいひたまふ汝ら途に立て見古き徑に就て何か善道なるを尋ねて其途に行めさらば汝らの靈魂安を得ん」 エレミヤ6:16 明治元訳聖書
「主はこう言われる。『さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ。どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み。魂に安らぎを得よ』」 新共同訳聖書
「魂に安らぎを与える道」
安息日を守り、香もたいた。だが、心は晴れず、むなしさにつつまれる時がある。
エレミヤと共に「さまざまな道に立ちて眺め」、「昔からの道に問いかけよ」。
魂に安らぎを与える道は古い装いそのままに新しい。
(†心のデボーション00338)
† 心のデボーション 00339
「我らは皆しばしば躓(つまづ)く者なり、人もし言に蹉跌(つまづき)なくば、これ全き人にして全身に(くつわ)を著(つ)け得るなり」 ヤコブ3:23:2 大正文語訳聖書
「もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です」 新改訳聖書
「轡(くつわ)」
ヤコブはことばで失敗をしない人を「完全な人」と呼ぶ。しかし、ことばで人を傷つけたことのない人はいない。相手を傷つけまいとして語ったことが、知らないところで相手を打ちすえることもある。それを知って、私にできるのは、戸惑い、苦しみ、悲しみ、そして、泣くことだけである。
だが、その経験は私を少しだけ神に近づける。神は私に「轡(くつわ)」をつけ、暴れまわる思いを鎮められ給う。
(†心のデボーション00339)
† 心のデボーション 00340
「神に問ひ我等が往ところの途に利逹あるや否を我等にしらしめよ」 士師18:5 明治元訳聖書
「どうぞ、神に伺って、われわれが行く道にしあわせがあるかどうかを知らせてください」 口語訳聖書
「幸せの道」
道というものには常に同行者がいる。姿はないときでも一緒に歩いている人々がいる。共に歩む人々と「われわれが行く道にしあわせがあるかどうか」を神に尋ねたい。「いのちの道」は「幸せの道」である。
(†心のデボーション00340)
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