心のデボーション033

デボーション1
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† 心のデボーション 00321

「願くはわれらにおのが日をかぞふることををしへて智慧のこころを得しめたまへ」 詩篇90:12 明治元訳聖書

「それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください」 新改訳聖書

 「おのが日をかぞふる」

「だから、私共は時間の徒(いたず)らに過去(すぎさ)らぬやう、常に警戒して祈祷すべきである」 (トマス・アケンピス「基督のまねび」)

むなしく過ぎ去った日々を思う。その心が見ているのは過ぎ去った「時」ではなく、「喜び」の薄い「今」だ。「今」がむなしく過ぎ去ろうとしているのだ。

「今」のために祈れ。喜びが帰り来るまで。

(†心のデボーション00321)

† 心のデボーション 00322

「むなしき祭物をふたたび携ふることなかれ 燻物はわがにくむところ 新月および安息日また會衆をよびあつむることも我がにくむところなり なんぢらは聖會に惡を兼ぬ われ容すにたへず」 イザヤ1:13 明治元訳聖書

「むなしい献げ物を再び持って来るな。香の煙はわたしの忌み嫌うもの。新月祭、安息日、祝祭など、災いを伴う集いにわたしは耐えない」 新共同訳聖書

 「むなしき献げ物」

神が悲しまれるのは無意味な「燻物、新月および安息日の祝い」である。「それはむなしく、負うのに疲れた」と言われる。(イザヤ1:14)

人々が神に携えたのは「むなしい献げ物」ではなく、「むなしさ」を献げ物として神に運んだのだ。

二度と私の「むなしさ」を神への献げ物にはするまい。

(†心のデボーション00322)

† 心のデボーション 00323

「愚なる者はただちに怒をあらはし 智きものは恥をつつむ」 箴言12:16 明治元訳聖書

「愚かな者は自分の怒りをすぐ現わす。利口な者は自分のはずかしめを受けても黙っている」 新改訳聖書

 「偽りの神」

ユダヤ人の教えに「怒りは自分の内なる偽の神」というのがある。

この偽りの神は一切を取り仕切り、それに従わない者には怒りという牙をむく。しかも、この偽の神は常に自分が正しいと主張してゆずらない。

同じ教えの中に「家庭内の怒りは穀物の中の虫のようなもの」というのもある。ほっておくとすべてを食べてしまう。

怒りのすべてが「偽の神」の仕業とはいえない。そこがまた難しい。

(†心のデボーション00323)

† 心のデボーション 00324

「求めよ、さらば與へられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん」 マタイ7:7 大正文語訳聖書

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」 新共同訳聖書

 「熱望」

人生に求めるもののある人は、それだけで幸せであろう。現代は親が子どもの気持ちを先取りして、求める前に「欲しいもの」を与えてしまうところがある。そのため、子どもは幸せを、何かを断念してまで手に入れるべきものと考えなくなっているようだ。

「欲しいもの」がお金だけというのはさみし過ぎる。「求めて」も得られなければ「捜しに」行き、それでもだめなら「たたく」。幸せとは人生に熱望する行為そのものかもしれない。

(†心のデボーション00324)

† 心のデボーション 00325

「ヱホバわが磐わが贖主よ わがくちの言わがこころの思念なんぢのまへに悦ばるることを得しめたまへ」 詩篇19:14 明治元訳聖書

「私の口のことばと、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ」 新改訳聖書

 「小さな牧師」

イタリヤ語でparrocchetto は「小さな牧師」という意味だそうである。英語でparakeetは「インコ」で「わけもわからずに他人の言葉を繰り返す人」の意味もある。「おおむ返し」のことだ。

インコのように言葉を真似するだけの牧師を「parrocchetto 小さな牧師」というのだろうか。耳の痛い話である。

(†心のデボーション00325)

† 心のデボーション 00326

「乃ち起ちて其の父のもとに往く。なほ遠く隔りたるに、父これを見て憫み、走りゆき、其の頸を抱きて接吻せり」 ルカ15:20 大正文語訳聖書

「ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした」 新改訳聖書

 「見つけ、走り寄る」

放蕩息子の父親は、息子がまだ遠くにいるのに「彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って、彼を抱き、口づけ」する。

和解とは、こちらから相手を「見つけ、走り寄る」こと。

年老いた父親が、転がるようにして走り、放蕩息子のために、着物を、くつを、指輪も、と騒ぐのは愚かに見える。しかし、この愚かさを見るまでは、私は神と出会うことも、許しを理解することもできなかった。

(†心のデボーション00326)

† 心のデボーション 00327 

「ああ神よわがために清心をつくり わが衷になほき霊をあらたにおこしたまへ」 詩篇51:10 明治元訳聖書

「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」 詩篇51:12 新共同訳聖書

 「まだこの上のものが」

年老いた人形の彫師が「私はいつまでも、まだこの上のものができると思うております」と語った。『この上のものができる』と思える限り、人は幸せに生きることができる。

彫師は自分の内にある情動に表情を与えかたちに彫る。この人は人形に喜びや怒りや悲しみの表情を与えながら、まだ「この上のものがある」と思っている。自分の知らない情動がまだ自身の内にあるのだ。

(†心のデボーション00327)

† 心のデボーション 00328

「汝虚妄の風説を言ふらすべからず惡き人と手をあはせて人を誣る證人となるべからず」 出エジプト23:1 明治元訳聖書

「根も葉もないうわさを口にしてはならない。悪人に手を貸して暴虐を助長する証人となってはならない」 フランシスコ会訳聖書

 「ブロードキャスト」

「放送」を意味するbroadcast は「broad 広く + cast 投げる」で「(種を)ばらまく」の意味である。「うわさをふれまわる」の意味に使われることもある。中国語では「広播」と直訳される。

撒かれるのは良い種も、悪い種もある。

(†心のデボーション00328)

† 心のデボーション 00329

「おのおの己が事のみを顧みず、人の事をも顧みよ」 ピリピ2:4 大正文語訳聖書

「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい」 新改訳聖書

 「真夜中の騒音」

夜中に、自動車のアイドリング音が聞こえてくると、妙にイライラする。ひどい騒音ではないが、人の迷惑を考えずにエンジンを回し続ける無神経に腹が立つ。もちろん、暴走族の確信的な騒音にも、自分と関係のない他人の意志を聞かせられることに怒りを感じる。

騒音を立てる人も、それにイラ立つ側も、自分本位という点では同じかもしれない。「他の人のことが顧みられない」孤独のさみしさが騒音を発生させ、この孤独につき合わされることにイラ立つのだ。

(†心のデボーション00329)

† 心のデボーション 00330 

「即ち肉の子らは神の子らにあらず、ただ約束の子等のみ其の裔と認めらるるなり」 ロマ9:8 大正文語訳聖書

「すなわち、肉の子どもがそのまま神の子どもではなく、約束の子どもが子孫とみなされるのです」 新改訳聖書

 「約束の子」

「イエスの系図」の最初にくるのは「アブラハム」である。その子イサクは「約束の子」であった。

神はアブラハムを祝福し「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように」(創世記12:1~3)。しかし、アブラハムの妻サラは子を生むことの出来ない体質であった。子のないアブラハムに神は「あなたから生まれる者が跡を継ぐ」(創世記15:41,15:4)と言われ、「アブラハムは主を信じた」(創世記15:6)そこで神はアブラハムに「あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする」(創世記17:19)と約束された。

こうして、アブラハムが百歳、妻サラ九十歳のとき、「約束の子」イサクが誕生した。

マタイの「イエスの系図」は神の「約束」の成就であった。一人の神に従った人間と神の間に交わされた「祝福の契約」は千年の時を経て実現していくのである。一人の「私」への神の祝福は千年を経てどのような歴史を創るのだろうか。

(†心のデボーション00330)

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