心のデボーション032

デボーション1
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† 心のデボーション 00311

「凡てのことを感謝せよ、これキリスト・イエスに由りて神の汝らに求め給ふ所なり」 Ⅰテサロニケ5:18 大正文語訳聖書

「全てのことについて、感謝しなさい」 新改訳聖書

 「儀式」

行動を起こす前に一定の儀式があって、それをしないと次にかかれないというようなことは誰にもある。自分でもばかばかしいと思うところがあって、ときには苦痛である。加えて、自分にそういう儀式のあることを人に知られまいとして余分な神経を使ったりもする。

このような儀式は自分が自分であることの証しのようなものなので、無理に否定する必要はない。少々面倒だが、それさえすめば次に進めるのだから、感謝し、受け取るべきものかもしれない。

(†心のデボーション00311)

† 心のデボーション 00312

「なんぢの友と汝の父の友とを棄るなかれ なんぢ患難にあふ日に兄弟の家にいることなかれ 親しき隣は疏き兄弟に愈れり」 箴言27:10 明治元訳聖書

「お前の友人や、父の友人を捨てるな。お前の災難の日に兄弟の家に行くな。近くの他人は遠くの兄弟に勝る」 フランシスコ会訳聖書

 「近くの船に乗る人」

医学博士で外科医の高柳和江教授は「同じ船に乗っている人を探せ」とアドバイスする。「同じ船」とは「思ったことが全部言えて、それに対して反応があって、同じレベルで話し合える相手」のことである。

「同じ船に乗る人」が見つかる人は幸せだが、そうでないなら「近くの船」から探すという方法もある。しかし「近くの船」は良さそうに見えてもすぐに乗り移るわけにはいかない。「近くの船の人」とは、こちらの船から隣に向かって大きな声で会話することになろう。

(†心のデボーション00312)

† 心のデボーション 00313

「誰も人に對し惡をもて惡に報いぬやう愼め。ただ相互に、また凡ての人に對して常に善を追ひ求めよ」 Ⅰテサロニケ5:15 大正文語訳聖書

「だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい」 新共同訳聖書

 「悪意」

自分に向けられた悪は無視すればよい。しかし、それがかえって「悪をもって悪に報いる」ことになるときもある。悪意を投げかけられたら、それを一旦受け取ってみるのも一つの在り方であろう。

悪意は美しい心で受け取ると、その分毒は薄まる。悪意から毒を抜いてしまうというのも、「善をもって悪に報いる」の一つにならないだろうか。

(†心のデボーション00313)

† 心のデボーション 00314

「かりうどの手より鹿ののがるるごとく 鳥とる者の手より鳥ののがるる如くして みづからを救へ」 箴言6:5 明治元訳聖書

「狩人の罠を逃れるかもしかのように、鳥のように、自分を救い出せ」 新共同訳聖書

 「鳥が逃れるように」

他人の保証をしてトラブルに巻き込まれたら「鳥が鳥を取る者の手からのがれるように自分を救い出せ」と言われている。要するに、わなにかかった鳥のようにバタバタと騒いで抵抗しなさいというのである。あきらめ悪く、ジタバタ走り回り、そこからの逃げ道を見いだすのも信仰である。

それにしても、わなにかかることはあっても、この種のわなをしかける人間にはなりたくない。

(†心のデボーション00314)

† 心のデボーション 00315

「人の心にある謀計は深き井の水のごとし 然れど哲人はこれを汲出す」 箴言20:5 明治元訳聖書

「人の心にあるはかりごとは深い水、英知のある人はこれを汲み出す」 新改訳聖書

 「深い水」

人の心には英知という「深い水」が流れている。「英知のある人」はヘブライ語「タブオーン」で「洞察力、見分ける力」の意味である。

「深い水」は汲み上げるのに苦労するが、冷たくて甘い。それは自身の深くを流れるいのちの水である。

(†心のデボーション00315)

† 心のデボーション 00316

「汝審判をなすに方りて不義を行なふべからず貧窮者を偏り護べからず權ある者を曲て庇くべからず但公義をもて汝の鄰を審判べし」 レビ記19:15

「不正な裁判をしてはならない。弱い者におもねり、また強い者にへつらってはならない。あなたの隣人を正しくさばかなければならない」 新改訳聖書

 「屋根から落ちた泥棒」

米国で、ある男が盗みの目的で学校の屋根に登り天窓から転落して大怪我をした。男は学校の安全管理に手落ちがあったとして訴え、裁判所はこれを認め、学校側に賠償を命じたという。

盗人の罪も学校の手落ちも同時に裁くのが米国人の良心であろう。日本人はそれを理解しにくい。

(†心のデボーション00316)

† 心のデボーション 00317

「イエス之を見、いきどほりて言ひたまふ『幼兒らの我に來るを許せ、止むな、神の國は斯くのごとき者の國なり」 マルコ10:14 大正文語訳聖書

「イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである』」 新共同訳聖書

 「内なる子ども」

子どもの心を失うことが、おとなになることではない。おとなの心には「内なる子ども」が生きている。「内なる子ども」が生き生きしていないと人生から輝きが失われる。現代の子どもから感動が失われているのは、おとなの「内なる子ども」が自由を失い、沈黙させられているからかもしれない。キリストは子どもを招かれながら、同時に、弟子たちの「内なる子ども」に語りかけておられるのではないか。

行き詰まったら、子どものように生きてみることだ。

(†心のデボーション00317)

† 心のデボーション 00318

「されば誰にても此の幼兒のごとく己を卑うする者は、これ天國にて大なる者なり」 マタイ18:4 大正文語訳聖書

「だから、幼子のように自らへりくだる者が天の国でいちばん偉いのである」 フランシスコ会訳聖書

 「オーッ、オーッ」

二歳のまさきと三歳になったチエが水たまりで遊んでいる。まさきは水たまりに座り込み、泥をこねている。ただ、ひたすらに、飽くことなく、泥をこねる。そして両手をあげ、泥の中に振りおろし、「オーッ、オーッ」と叫ぶ。その時、まさきの脇で泥団子を作っていたチエが「おまたせしました」と、母親のようなしなを作って言った。

私もまさきと一緒に泥をこね、「オーッ、オーッ」と叫んでみたくなった。

(†心のデボーション00318)

† 心のデボーション 00319

「ヱホバ曰たまふゼルバベルよ自ら強くせよ ヨザダクの子祭司の長ヨシユアよ自ら強くせよ ヱホバ言たまふ この地の民よ自らつよくしてはたらけ 我なんぢらとともに在り 萬軍のヱホバこれを言ふ」 ハガイ書2:5 明治元訳聖書

「あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊があなたがたの間で働いている。恐るな」 新改訳聖書

 「神が働かれている」

手帖がいつも予定で埋まっているのは楽しいものだ。しかし、スケジュールを過密にしておかないと不安というのは少々問題かもしれない。そこに予定外の隙間ができるとどうしていいかわからず、そんな自分がむなしく感じられるならかなり問題だ。心が健康な人は何もしないことにも耐えられる。目には見えなくても、神が背後にあって働かれている。自分が頑張りすぎる人は神の働きに場所を開けることができていないのかもしれない。

(†心のデボーション00319)

† 心のデボーション 00320

「おのれの家をくるしむるものは風をえて所有とせん 愚なる者は心の智きものの僕とならん」 箴言11:29 明治元訳聖書

「自分の家族を苦しめる者は風を所有する」 口語訳聖書

 「つむじ風」

広場で突然「つむじ風」が発生し、土や砂を巻き上げた。「つむじ風」は英語でDust devil「埃の悪魔」という。

「おのれの家をくるしむるもの」が所有するという「風」がある。その「風」は「つむじ風」かもしれない。気持ちのよい晴れた日にいきなり渦巻きをつくり、落ち葉や砂をかき集めて撒き散らす。

心に発生するのも珍しいことではない。

(†心のデボーション00320)

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