心のデボーション031

デボーション1
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† 心のデボーション 00301

「アダム其妻エバを知る彼孕みてカインを生みて言けるは我ヱホバによりて一個の人を得たりと」 創世記4:1 明治元訳聖書

「人はその妻エバを知った」 新改訳聖書

 「妻エバを知る」

赤ちゃんは母親の胸に抱かれて温かい乳を飲む時、心から幸せな思いに満たされるようだ。この時、赤ちゃんと同じ思いが母親にも起きる。互いが相手に没頭する。

アダムがその妻エバを「知った」というのは、この至福の関係の中で相手と出会うという意味である。

この関係は必ずしも出会いのはじめに達成されるものではない。対立を繰り返しながら深まっていくものかもしれない。

アダムとエバにカインが生まれ、彼らは「ヱホバによりて一個の人を得たり」と言った。

一人の人を「知る」ことは、二人の間に「一個の人」を得ること、神によって新しいいのちを生み出すことである。

(†心のデボーション00301)

† 心のデボーション 00302

「后のこの事あまねく一切の婦女に聞えて彼らつひにその夫を藐め觀て言ん アハシユエロス王后ワシテに己のまへに來れと命じたりしに來らざりしと」 エステル1:17 明治元訳聖書

「女達は自分の夫を軽く見るようになるでしょう」 新改訳聖書

 「王妃ワシテの罪」

王妃ワシテが犯したのは「自分の夫を軽く見る」罪だった。

仕事もでき、仲間からは信頼もされている人でも、妻からはつまらない男としか見られないことがある。その妻は、夫が自分は立派だと主張すればするほど、夫の欠点をあばき立てるようになる。妻は妻で、社会的には認められている夫を批判することで自分を高めようとしているようでもある。

さて、このゲームにはまってしまった夫は、自分も妻を軽く見ていないか、更に、それは自分を軽く見るところからはじまっていないか反省してみる必要がありそうだ。

(†心のデボーション00302)

† 心のデボーション 00303

「これヱホバの設けたまへる日なり われらはこの日によろこびたのしまん」 詩篇118:24 明治元訳聖書

「これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう」 新改訳聖書

 「ささやかな楽しみ」

ささやかでも、人生には楽しみが欲しい。昔の楽しかった思い出よりも、目先の小さな楽しみの方が、よほど自分を励ましてくれる。

朝、一日のはじめに、今日のこの日を「主が私に設けられた日」と知る。小さな楽しみはそこからはじまろう。少しだけゆっくり歩いてみれば、見慣れた光景も別の風景に映る。ささやかなできごとに主の備えを発見する楽しみは、決して小さな喜びとは言えない。

(†心のデボーション00303)

† 心のデボーション 00304

「人の目もまた飽ことなし」 箴言27:20 明治元訳聖書

「人間の目も飽くことがない」 新改訳聖書

 「牛の流し目」

放された10頭ほどの牛がかたまって寝そべっている。脇を通ると、10頭が10頭、みな目だけこちらに向けている。こちらの動きに目だけがついてくる。これを「牛の流し目」というのだろうか。

黙って目だけを、こうもはっきりと向けられると気味が悪い。

(†心のデボーション00304)

† 心のデボーション 00305

「時にイスラエルの人々その詛はれし物につきて罪を犯せり即ちユダの支派の中なるゼラの子ザブデの子なるカルミの子アカン詛はれし物を取り是をもてヱホバ、イスラエルの人々にむかひて震怒を發ちたまへり」 ヨシュア7:1

「アカンは、滅ぼし尽くしてささげるべきものの一部を盗み取った」 新共同訳聖書

 「内なるアカン」

カルミの子アカンが戦利品の中から「いくらか」を盗んだのは、それが「欲しい」という軽い気持ちからだったかもしれない。人には、人生から転落するかもしれない罪を「軽く」犯してしまうところがある。問題はその心が動きはじめた時、それを抑えるもう一人の自分が不在になることだ。

内なるアカンに気づかない、その心が怖い。自分がアカンの道を歩みはじめたことも知らないのだ。

(†心のデボーション00305)

† 心のデボーション 00306

「賢き婦はその夫の冠弁なり 辱をきたらする婦は夫をしてその骨に腐あるが如くならしむ」 箴言12:4 明治元訳聖書

「恥をもたらす妻は、夫の骨の中の腐れのようだ」 新改訳聖書

 「夫婦泥棒論」

かつて、曽野綾子さんが「亭主がドロボーに行くといったら、私はほっかむりしてついて行く」と書いて、「夫婦泥棒論」と呼ばれた。

ほっかむりをして夫について行く妻は、「夫に恥をもたらす妻」、「夫の骨の中の腐れ」ではないか?

しかし、もし妻がほっかむりして後からついてきたら、夫はドロボーする気持ちを失ってしまうだろう。夫にドロボーを思い止まらせるという点で、やはり彼女は「しっかりした妻」なのだろうか。

「やれ嬉し」と手に手をとってドロボーに行くような夫には、この妻を持つ資格が無い。

(†心のデボーション00306)

† 心のデボーション 00307

「その父あるひは母を罵る者は殺さるべし」 出エジプト21:17 明治元訳聖書

「自分の父または母をのろう者は、必ず殺されなければならない」 新改訳聖書

 「大人不在」

「うるせぇ、ばばぁ、殺されてぇのか」と娘に叫ばれた母親もいる。ことばの暴力は腕力よりも破壊的だ。親が子どもから「のろいのことば」を聞かされるほど悲しいことはない。しかし、激しいことばを口にする子どもは、どこかで、それと同じことばをかけられているものだ。

子どもは周囲に、まともなことばで対話をしてくれる大人がいなくてはならない。そういう大人が不在であることが、ことばの暴力の背景ではないか。

(†心のデボーション00307)

† 心のデボーション 00308

「この故に我らは憐憫を受けんが爲、また機に合ふ助となる惠を得んがために、憚らずして惠の御座に來るべし」 ヘブル4:16 大正文語訳聖書

「おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」 新改訳聖書

 「おりにかなう助け」

イルカがジャンプする度に褒美の魚を与えると、だんだんいいかげんなジャンプしかしなくなるという。ジャンプを覚えたイルカにはランダムに褒美を与えると、「次」を期待して、いつもいいジャンプをするという。

そこで、我が家のスズメ達にも、毎日エサを置かないことにした。「次」を期待して、エサを置く私への感謝を深めるかもしれない。しかし、それはただの意地悪なのか、それとも「おりにかなった助け」なのか。はたまた、くず米くらいで子スズメに「感謝」を強要するさもしさか。

(†心のデボーション00308)

† 心のデボーション 00309

「前に告たる朝夕の異象は眞實なり汝その異象の事を秘しおけ是は衆多の日の後に有べき事なり」 ダニエル8:26 明治元訳聖書

「しかし、あなたはこの幻を秘めておけ。これはまだ、多くの日の後のことだから」 新改訳聖書

 「錠前屋」

宇宙物理学の池内了教授は、「科学者は鍵をなくした箱の錠を開けようとする錠前屋に似ている」といいます。箱に入っているのは宝物か化け物かわからない。しかし、鍵を開けるという使命にもえる錠前屋は、ひたすら鍵を開けようとする。ようやく、箱は開き、宝物もあったが化け物も出て来ると、錠前屋は「自分はただ鍵を開けたにすぎない」という。

今はまだ秘めておく箱もある。多くの日の後の事柄なのだ。

開けることに情熱を燃やすのは科学者だけではない。

(†心のデボーション00309)

† 心のデボーション 00310

「我を敎へよ 然らば我默せん 請ふ我の過てる所を知せよ」 ヨブ記6:24 明治元訳聖書

「間違っていたら分からせてくれ。教えてくれれば口を閉ざそう」 新共同訳聖書

 「聖林」

米国の映画産業の町Hollywoodを漢字表記で「聖林」と書くことがある。これはHolly- 「ひいらぎ」とHoly- 「聖」を誤って訳してしまったことから来ている。(Hollywoodは、元々はいちじく果樹園だった土地に不動産業者がHollywoodという別荘の名が気に入りつけられたという)

ヨブは「間違っていたら分からせてくれ」というが、その言葉には「自分は間違っていない」という強い確信がうかがえる。

人間は間違えながら生きていく。「間違える」から「生きる」ことができる。「私は間違える」という認識から、人は絶えず「間違いを正す」よう導かれるのではないか。

(†心のデボーション00310)

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