心のデボーション030

デボーション1
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† 心のデボーション 00291

「また自己を證し給はざりし事なし。即ち善き事をなし、天より雨を賜ひ、豐穰の時をあたへ、食物と勸喜とをもて汝らの心を滿ち足らはせ給ひしなり」 使徒14:17 大正文語訳聖書

「神は恵みをくださり、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物を施して、あなた方の心を喜びで満たしておられるのです」 フランシスコ会訳聖書

 「稲の夫(つま)」

雷を「稲光」という。古代、雷の光が稲を実らせると信じられ、雷の多い年は米がよくできるとされた。配偶者を「夫(つま)」と呼ぶことから「稲の夫(つま)」すなわち「稲妻」と書くようになった。「かみなり」は「神が鳴らす」の意である。

すべての「実り」は「光」を「夫(つま)」としてもたらされる。大きな音とともに天から地に下りてくる。その動きは素早く、的確である。

(†心のデボーション00291)

† 心のデボーション 00292

「汝此を執は善しまた彼にも手を放すなかれ 神を畏む者はこの一切の者の中より逃れ出るなり」 伝道7:18 明治元訳聖書

「あなたは一つをつかみ、もう一つも手放さないが善い。神を畏れる者は、この両者を全うする」 フランシスコ会訳聖書

 「反対をもたない真理」

伝道者のいう「一つ」は「知恵」(伝道7:16)で、「もう一つ」は「愚か」(伝道7:17)である。

「知恵や正しさ」または「愚かさや悪」をつかみ、「知恵や正しさ」のみ、「愚かさや悪」のみを求めてはならない。真に知恵をつかむ者は愚かを手放さない。神を畏れる者はその両者を全うする。

一つをつかんだら、その反対を捨ててはいけない。反対をもたない真理は半分である。

(†心のデボーション00292)

† 心のデボーション 00293

「汝の糧食を水の上に投げよ 多くの日の後に汝ふたたび之を得ん」 伝道11:1 明治元訳聖書

「あなたのパンを水の上に投げよ。長い年月の後に、あなたはそれを見出すであろう」 フランシスコ会訳聖書

 「パンを水の上に投げよ」

水の上に投げる「パン」というものがある。パンは水に沈み、溶けてしまうが、それが後の日の「パン」となる。今日、食卓で食べる「パン」は、かつて水の上に投げた「パン」だ。

(†心のデボーション00293)

† 心のデボーション 00294

「汝虚妄の風説を言ふらすべからず惡き人と手をあはせて人を誣る證人となるべからず」 出エジプト23:1 明治元訳聖書

「あなたは根拠のないうわさを流してはならない。悪人に加担して、不法を引き起こす証人となってはならない」 新共同訳聖書

 「噂という妖怪」

「至人は容易にすべての噂に耳を傾けない」(トマス・アケンピス「基督のまねび」)

トマス・アケンピスは「人は極めて口舌に軽い」とも言う。

「噂」は一種の妖怪で、広がりながら姿を自在に変化させて止まない。不用意に耳を傾けないのがよい。野火

も風をはらめば山を焼く。

「根拠のないうわさを流す者」と同席したくはないものだ。

(†心のデボーション00294)

† 心のデボーション 00295

「智慧ある者の財寳はその冠弁となる 愚なる者のおろかはただ痴なり」 箴言14:24 明治元訳聖書

「知恵のある者の冠はその知恵。愚かな者のかぶり物はその愚かさ」 新改訳聖書

 「呆れの虫」

とんでもないことがおこると「呆れの虫」が出て来る。それで済まないと「呆れが礼をしに」来る。呆れがあまりのことに、「これほどの呆れを見たことがない」と礼を言いにくるのだという。

それでも収まらないと「呆れを礼にやる」ことになる。使いに出された呆れは「呆れの宙返り」をしてみせる。

何をそんなに呆れたのかって? それを言ったら呆れられる。

(†心のデボーション00295)

† 心のデボーション 00296

「風は南に行き又轉りて北にむかひ 旋轉に旋りて行き 風復その旋轉る處にかへる」 伝道1:6 明治元訳聖書

「風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る」 新改訳聖書

 「美しい風」

アルゼンチンの首都ブエノスアイレス(Buenos Aires)は、スペイン語で「buenos(良い)+aires(空気、風)」で「美しい空気(風)」の意味である。人々は「こんにちは ブエナス タールデス Buenas tardes」と挨拶の言葉を交わす。

船乗りが港で海に「美しい風」、すなわち「順風」の来るのを待ち、それがそのまま町の名前になった。

伝道者は「風は巡り巡って」、「巡る道に帰る」という。「順風」はやがて「逆風」に、「逆風」は「順風」に変わる。風を巡らせ、巡る道に帰らせるのは誰か?

(†心のデボーション00296)

† 心のデボーション 00297

「われ山の根基にまで下れり 地の關木いつも我うしろにありき しかるに我神ヱホバよ汝はわが命を深き穴より救ひあげたまへり」 ヨナ2:6 明治元訳聖書

「私は山々の根元までも下り、地のかんぬきが、いつまでも私の上にありました」 新改訳聖書

 「今が底だ」

「われわれはアルコールに対して無力であり、生きていくのがどうにもならなくなったことを認めた」

これはアルコール依存症から回復する人が通る最初の告白とされる。生きていくのがどうにもならなくなった時、やっと「底」につく、そこから回復がはじまるという。

意志の力をあきらめるところに「上からの力」が働く。しかし「今が底だ」、「これが底をつくことだ」という思いが来なければ「底」には永遠に届くことがない。「自分はいつでも止められる」と考えている間は、「回復」はしない。

(†心のデボーション00297)

† 心のデボーション 00298

「マリヤこの言によりて心いたく騷ぎ、斯かる挨拶は如何なる事ぞと思ひ廻らしたるに」 ルカ1:29 大正文語訳聖書

「マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ」 新改訳聖書

 「あなたのおことばどおりに」

マリヤはイエスを身ごもるという告知に、ひどく戸惑い、それが何を意味するのか思いを巡らせる。

突然の告知に、戸惑うことがある。それにどんな意味があるのか、しばし考え込む。

ただ、わかることは「あなたのおことばどおりにこの身になりますうように」(ルカ1:38)と、受け入れる時、イエスが私の身に宿り給うという、その不思議である。

(†心のデボーション00298)

† 心のデボーション 00299

「なんぢの大道は海のなかにあり なんぢの徑はおほみづの中にあり なんぢの蹤跡はたづねがたかりき」 詩篇77:19 明治元訳聖書

「あなたの道は海の中にあり、あなたの小道は大水の中にありました」 新改訳聖書

 「細い小道」

どこにでも連れていってくれるカーナビがあったとして、行く先を「神の国」と入力したら、どんな道を選択してくれるだろうか。

高速はできれば敬遠し、景色の良い観光ルートもあるといいな、などと考えたりする。

しかし、「神の国」のルートは「探索不能」と出るに違いない。道ここに終わるという地点から、その道ははじまるのだし、気がつけばそれは見慣れた風景の中の細い小道だったりする。

(†心のデボーション00299)

† 心のデボーション 00300

「惡きものの謀略にあゆまず つみびとの途にたたず 嘲るものの座にすわらぬ者はさいはひなり」 詩篇1:1 明治元訳聖書

「幸いなことよ。あざける者の座に着かなかった、その人」 新改訳聖書

 「批判的な会話」

批判的な会話には注意する必要がある。悪口はことの他、人を楽しませるものだからである。人を批判することは、相手ばかりか、自分をも卑しめる。無意識のうちに人を見下げ、自分を高くするのだ。

相手が人を批判しはじめたら、その会話をさえぎるのではなく、批判の奥にあるその人の本音に聞くとよい。

(†心のデボーション00300)

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