† 心のデボーション 00281
「わが平生の道は彼知たまふ 彼われを試みたまはば我は金のごとくして出きたらん」 ヨブ23:10 明治元訳聖書
「しかし、神は、私の行く道を知っておられる。神は私を調べられる。私は金のように出ていくる」 新改訳聖書
「私の行く道」
古代、金は「灰吹法」と呼ばれる方法で抽出された。金や銀を含む鉱石を加熱された鉛に投じていったん金銀を鉛に融出させ、それを骨灰などで作った皿に乗せて加熱し金銀を湧出した。
神は「私の行く道」を知っておられる。それは「金」のように火の中から輝き出て来る。多くの金粕を取り除くと、その下に求める「道」がある。
(†心のデボーション00281)
† 心のデボーション 00282
「神は艱難者を艱難によりて救ひ 之が耳を虐遇によりて開きたまふ」 ヨブ36:15 明治元訳聖書
「神は悩んでいる者をその悩みの中で助け出し、そのしいたげの中で彼らの耳を開かれる」 新改訳聖書
「自分を変える」
「今すぐに問題を解決する方法を知りたい」という人ほど問題解決は遠い。解決は「自分自身を変える」ことなのだが、この人が望むのは「自分を変えないですむ便利な解決法」なのだ。
「自分を変える方法などない。ただ、ありのままの自分であれ」と答えるしかない。要するに便利な解決法など、どこにもなく、「悩みの中で自分を変える耳」を開く以外にない。
(†心のデボーション00282)
† 心のデボーション 00283
「神はよるべなきものを家族の中にをらしめ囚人をとき福祉にみちびきたまふ されど悖逆者はうるほひなき地にすめり」 詩篇68:6 明治元訳聖書
「神は寄るべなき者に住むべき家を与え、めしゅうどを解いて幸福に導かれる。しかしそむく者はかわいた地に住む」 口語訳聖書
「タンタロスの責め」
ギリシャ神話でタンタロスは神々の食物を盗んで人間に分け与えたことから、欲しい物が目の前にあっても手に入らないという罰を与えられる。空腹に耐えかねて果物の樹に手を伸ばすと風が吹いて果実の枝が巻き上げられ、喉の渇きを癒そうと泉に口をつけると水は退いた。
これをフランス語で「supplice de Tantale タンタロスの責め」という。
現代のタンタロスには、「欲しい物がどこを探しても見当たらない」という新しい罰を与えたようである。何かが欲しいのだが、何を欲しがればよいかが判らないのだ。これは物に満たされた人間に激しい「飢えと渇き」をもたらす罰である。
(†心のデボーション00283)
† 心のデボーション 00284
「イエス寂しき處に退きて祈り給ふ」 ルカ5:16 大正文語訳聖書
「イエスご自身は、荒野に退いて祈っておられた」 新改訳聖書
「神に場所を空ける」
イエスは祈る為に荒野に退かれる。「退く」という言葉には「そこに場所を空ける」という意味がある。祈りは神に場所を空けることである。
退くことのできない人の心は自分のことで隙間もなく、進むことしか考えない。
祈りの人の心にはいつも場所が開けられている。退くことが前進であるのは、その場にも神がおられるからである。
(†心のデボーション00284)
† 心のデボーション 00285
「空の鳥もそのほとりにすみ 樹梢の間よりさえづりうたふ」 詩篇104:12 明治元訳聖書
「空の鳥もそのほとりに住み、こずえの間にさえずり歌う」 口語訳聖書
「こずえの間にさえずり歌う」
神の造られた地に水が流れ、水辺のほとりに生えた木に空の鳥が巣をかけ、こずえの間でさえずり歌う。
「こずえ」は「杪」と書く。「杪」「木」が「少ない」で、木の先端の細い枝で、転じて「終わり」の意味がある。
老いると「風に吹かれるこずえ」に近くなる。その「こずえ」にも空の鳥が来て、可愛い声で歌ってくれる。
(†心のデボーション00285)
† 心のデボーション 00286
「供物を祭壇のまへに遺しおき、先づ往きて、その兄弟と和睦し、然るのち來りて、供物をささげよ」 マタイ5:24 大正文語訳聖書
「出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい」 新改訳聖書
「先づ往きて兄弟と和睦し」
一つの関係が終わる時、どちらに原因があるのか考えたくなる。
しかし、破局の原因は、いつも、双方にある。相手に全面的な責任があり、自分は悪くないという人は、心の中で相手の存在を無視しているところがあって、問題が見えていない。
なすべきことはすべて果たしたと言いながら、実は本当のかかわりを避けてきたのではないか。
「仲直り」するためにも、相手の心の奥にある「恨み」をこれ以上、放置しないことだ。
(†心のデボーション00286)
† 心のデボーション 00287
「我らの罪をも免し給へ」 ルカ11:4 大正文語訳聖書
「わたしたちに罪をお赦しください」 新改訳聖書
「二つの鏡」
アラビアにこんな話があるという。
サタンは二つの鏡をもっている。一つは罪が小さく見える鏡で、人が覗くと、たいしたことはないと安心して罪を犯す。もう一つは罪が大きく見える鏡で、罪を犯した人が覗くと、大きく見えてこれでは赦されそうにないと絶望させる。
今や「二つの鏡」は私の手にあり、すっかり馴染んでいる。二つ目の鏡を見た後で、再び最初の鏡を見れば、「絶望」も小さく見えて、赦されなくてもなんとかなりそうだと思えてくるではないか。
(†心のデボーション00287)
† 心のデボーション 00288
「ペテロ言ふ『金銀は我になし、然れど我に有るものを汝に與ふ、ナザレのイエス・キリストの名によりて歩め』」 使徒3:6 大正文語訳聖書
「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう」 新改訳聖書
「鑑定」
自分の持ち物にどれほどの価値があるのか、知りたいと思うことがある。
そこで、その道の専門家に鑑定してもらうことになる。
だが、是非とも知りたいのは、「お宝」ではなく、ペテロが「私にあるもの」と語った「私自身のうちにあるもの」の価値である。それは「金銀は私にはない」と知ることによって「ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさい」と告げることのできる内的な価値である。
これを鑑定できる専門家は少ない。
(†心のデボーション00288)
† 心のデボーション 00289
「愛なき者は、神を知らず、神は愛なればなり」 Ⅰヨハネ4:8 大正文語訳聖書
「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです」 新改訳聖書
「深い愛」
「深く愛することなど、そう簡単にできるものではない」と言われる。
人は愛でないものを愛と錯覚したり、それで愛しているつもりになったりする。深く愛することが簡単でないように、深く愛されることも簡単ではない。
深い愛には、自分を深く知ることが伴う。神の愛をそう簡単にわかってしまわないことが大切かもしれない。
それにしても、神に愛されることの何と簡単なことか。
(†心のデボーション00289)
† 心のデボーション 00290
「ヱホバよなんぢは我をさぐり我をしりたまへり」 詩篇139:1 明治元訳聖書
「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます」 新改訳聖書
「なんじ我を知りたまへり」
神は「私のすわるのも、立つのも知っておられ」「私の思い」を遠くから読み取られる。私の口からことばが出る前に神は「それをことごとく知っておられる」。
それにもかかわらず、神は私がありのままに自分を言いあらわすのを待たれる。
それは、神が「お前はまだ自分を知らない。わたしはお前の知らないお前の美しさを知っている」と告げようとなさるからではないか。
(†心のデボーション00290)
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