心のデボーション028

デボーション1
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† 心のデボーション 00271

「されば主に在りて囚人たる我なんぢらに勸む。汝ら召されたる召に適ひて歩み」 エペソ4:1 大正文語訳聖書

「召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい」 新改訳聖書

 「呼び出された者」

自分というものを表現できるのが本当の仕事であろう。しかし、人生に自分を映し出すような仕事を見つけるのは難しい。

パウロは「職業」を「神の召し」という。

人は仕事の場で、自分を「呼び出される」神の声を聞く。その声を聞くたびに、仕事はその意味を深めていく。

何をしても満たされないのは、本当の仕事に出会っていないからではなく、神の呼び出しを聞く耳を塞いでいるからではないか。

(†心のデボーション00271)

† 心のデボーション 00272

「われら汝等のために笛吹きたれど、汝ら踊らず、歎きたれど、汝ら胸うたざりき」 マタイ11:17 大正文語訳聖書

「笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった」 新改訳聖書

 「笛吹けども踊らず」

「笛吹けども踊らず」は、物事が自分の思い通りにならない嘆きの表現である。

しかし、相手の言いなりになって「笛の音にいつのまにか踊らされている」こともある。笛を吹いてくれる相手がいなければ落ち着けない人もいる。

無意識のうちに笛を吹いて相手を操ろうとするのは問題だが、自分を操ってくれる人の存在を必要とするのもやはり問題だ。この二人が出会ってつくられるのが、いわゆる「腐れ縁」であろう。

(†心のデボーション00272)

† 心のデボーション 00273

「嘲笑人は城邑を擾し 智慧ある者は怒をしづむ」 箴言29:8 明治元訳聖書

「知恵のある人々は怒りを静める」 新改訳聖書

 「怒りの悪循環」

変化を望まない相手を変えようとしても無理というものだ。こちらが思うように運ばず、イライラすればするほど相手は冷静になり平然とした態度をとるのが落ちだ。

相手が変わらないのは、こちらが思うようにならない怒りを、相手にぶつけているからかもしれない。

怒りの悪循環を止めるには、まず、自分の内なる怒りに気づくことだ。自分を静めることに取り組んでいると、いつの間にか、相手の態度が変化していたりする。

(†心のデボーション00273)

† 心のデボーション 00274

「われ斯く言ふは汝らに命ずるにあらず、ただ他の人の奮勵によりて、汝らの愛の眞實を試みん爲なり」 Ⅱコリント8:8 大正文語訳聖書

「愛の真実を確かめたいのです」 新改訳聖書

 「愛の眞實」

「ねえ、家が火事になって、私と子どものどちらか一人しか助けられないとして、あなたはどちらを選ぶ?」

こういう質問は妻の意図がわかるだけに、実に答えにくい。

「飛び込んで、最初に目に入った方」とかわそうとすると、「私は子どもと一緒にいるのよ」と切り返される。「ボクも一緒に死ぬよ」と言えば「ウソばっかり」と見透かされる。聞こえない振りをしてテレビを見ていると「やっぱりね」と聞こえるようにつぶやく。

(†心のデボーション00274)

† 心のデボーション 00275

「神の爲したまふところは皆その時に適ひて美麗(うるは)しかり 神はまた人の心に永遠をおもふの思念(おもひ)を賦(さず)けたまへり 然ば人は神のなしたまふ作爲(わざ)を始より終まで知明(しりあき)むることを得ざるなり」 伝道3:11 明治元訳聖書

「神はすべてのものを、その時にかなったものとして美しく造られた。また、人の心に、永遠への思いを授けられた」 フランシスコ会訳聖書

 「永遠への思い」

いつでも、どの所でも「永遠」を思う。そうすれば、神のなさろうとすることが「初めから終わりまで」明らかにされる。そこからの出来事の美しさが私を慰める。

(†心のデボーション00275)

† 心のデボーション 00276

「されど我はなんぢの憐憫によりたのみ わが心はなんぢの救によりてよろこばん」 詩篇13:5 明治元訳聖書

「私はあなたの恵みに拠り頼みました。私の心はあなたの救いを喜びます」 新改訳聖書

 「膏の下、肓の上」

「病、膏肓(こうこう)に入る」という。 
春秋時代、晋の国の厲公(れいこう)が病気をし、医師が駆けつける晩に、厲公は二人の子どもに化けた病気の虫が相談してる夢を見た。
「名医が来るそうだけど、どこかにいい隠れ場所は無いかい?」
「あるよ。膏の下、肓の上に隠れれば、針も灸も届かないし名医もおてあげだよ。」
果たして駆けつけた医師の診断は「病、膏肓に入る。治むべからず」であったという。(「春秋左氏伝」)
「膏」は心尖(しんせん:心臓の先端部)、「肓」は心臓と横隔膜の間のこと。

心にも「膏の下、肓の上」がある。そこに逃げ込まれると針も灸も届かない。だが、深追いはしないことだ。病の虫も「隠れ家」に逃げ込めれば、おとなしくしている。病の虫と一緒でも神の救いを喜ぶことができる。

(†心のデボーション00276)

† 心のデボーション 00277

「希望は恥を來らせず、我らに賜ひたる聖靈によりて神の愛われらの心に注げばなり」 ロマ5:5 大正文語訳聖書

「希望は失望に終わることはない」 口語訳聖書

「あかもと元気」

うわべの元気を「あかもと元気」ということがある。

「あかもと」は魚のカワムツの異名で、水の中では元気に泳ぐが、水から上がるとすぐに死んでしまうことから来た言葉だそうだ。

希望はしばしば、「あかもと元気」からはじまる。小さな世界の中だけの元気だが、泳ぎ回っているうちに大きな希望に育っている。

(†心のデボーション00277)

† 心のデボーション 00278

「汝等はこの山を行めぐること旣に久し今よりは北に轉(めぐ)りて進め」 申命記2:3 明治元訳聖書

「あなたがたは既に久しくこの山を行きめぐっているが、身をめぐらして北に進みなさい」 口語訳聖書

 「転じてすすめ」

「行きめくる」の英語Compassed はヘブル語 Cabob 「回る」から来ている。イスラエルは神に逆らい荒野に退き、久しくセイル山を巡っていた。(申命記1章) 果てしなく続く堂々巡りは神の御旨ではない。

「行きめぐること既に久しい」と気づいたら、「転じてすすむ」時が来たのである。

(†心のデボーション00278)

† 心のデボーション 00279

「わが子よ是等より訓誡(いましめ)をうけよ 多く書をつくれば竟(はてし)なし 多く學べば體(からだ)疲る」 伝道12:12 明治元訳聖書

「それらよりもなお、わが子よ、心せよ。書物はいくら記してもきりがない。学びすぎれば体が疲れる」 新共同訳聖書

 「多く學べば體(からだ)疲る」

「多く学ばんと欲すべからず、神に教えられんと欲すべし」 (内村鑑三「聖書の研究」)

「多く學べば體(からだ)疲る」と伝道者は言う。確かに「多くのものに熱中するとからだが疲れる」。だが、そう心配することもない、私は体が疲れるほどに、「多く」を學んではいない。

(†心のデボーション00279)

† 心のデボーション 00280

「婦ここにおいてサムソンにいひけるは汝の心われに居ざるに汝いかでわれを愛すといふや汝すでに三次われをあざむきて汝が大なる力の何にあるかをわれに告ずと」 士師16:15 明治元訳聖書

「あなたの心は私を離れているのに、どうして、あなたは『お前を愛する』と言えるのでしょう」新改訳聖書

 「力の秘密」

デリラはサムソンに「力の秘密を教えないなら私を愛しているとは言えない」と迫る。デリラは愛を武器に男を支配する女である。一度はそれに成功したが、それでデリラは幸せだったろうか。

女性は男の力の秘密を無理に知ろうとするよりも、それを守ることが大切である。サムソンはまだ若く、その力は秘密を暴かれることによって失われてしまう。

男性が本物の力を手に入れるには、女性の真の愛を必要とする。

(†心のデボーション00280)

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