† 心のデボーション 00261
「ヱホバ、ヨセフとともに在す彼享通者(さかゆるもの)となりてその主人なるエジプト人の家にをる」 創世記39:2 明治元訳聖書
「主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた」 新改訳聖書
「幸運な人」
明治・大正期の実業家安田善次郎(安田銀行を設立し、日比谷公会堂、東大安田講堂を寄付した)は「運はハコブなり」という言葉を残した。
若者に「運という字は運ぶとも読む。運は自分でつかみに行くもの」と言っている。
ヨセフも「幸運な人」であった。ヨセフは「神とともなる自分」を運び、幸運を得た。
(†心のデボーション00261)
† 心のデボーション 00262
「頌美ある邑我欣ぶところの邑を何なれば棄さらざるや」 エレミヤ49:25 明治元訳聖書
「いったい、どうして、栄誉の町、わたしの喜びの都は捨てられたのか」 新改訳聖書
「クネをこぐ少女」
満州に渡った日本兵が韓国でブランコに乗る少女の写真を持ち帰っている。
「ブランコ」は、韓国語で그네(クネ)といい、ブランコ乗りは韓国語で그네뛰기というそうである。旧暦5月5日の端午(단호)の日に女性たちが行う遊びで、長い材木を組んで高いブランコをつくり、チマ・チョゴリを着た若い女性がどれだけ高く上がれるかを競い合った。
日本兵の前でブランコに乗り、それを写真にとられる韓国女性は高く舞うが、集まった村人は一人としてブランコを見上げる者もなく、集まった日本兵に暗い顔を向けている。
戦争は村人の楽しみの中にも軍靴で踏み込んでいく。
(†心のデボーション00262)
† 心のデボーション 00263
「汝らの歌の聲を我前に絶て汝らの琴の音は我これを聽じ」 アモス5:23 明治元訳聖書
「お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。竪琴の音もわたしは聞かない」 新共同訳聖書
「ドローン drone」
無線操縦の無人機を「ドローン drone」という。drone はいつも巣にいて働かない「ミツバチの雄」の意味で「のらくらもの、居候」を指したりする。最近の「ドローン」は働き蜂になったようで、空を「ブンブン」飛ぶ。
「Pastor droned through his sermon.」は「ものうげな口調」のことで、牧師の低い声でかたる説教が眠りを誘う。
時代は変わった。牧師もせめて現代の「ドローン」ほどに変身せねばなるまい。だが、意味もなく「ブンブン」飛び回るだけではコントロールを失って墜落しかねない。
「内なるドローン(のらくらもの)」をどう目覚めさせるか。
(†心のデボーション00263)
† 心のデボーション 00264
「汝なんぞ我の愆を赦さず我罪を除きたまはざるや 我いま土の中に睡らん 汝我を尋ねたまふとも我は在ざるべし」 ヨブ記7:21 明治元訳聖書
「あなたが私を捜されても、私はもうおりません」 新改訳聖書
「もう私はいない」
ヨブは自分から目をそらされない神から離れて、自分を「土の中」葬り隠す。だから神が自分を探しても「もう、わたしはおりません」という。
かくれんぼでも、絶対にわからない場所に隠れると困ったことになる。鬼に見つかる心配はないが、鬼はあきらめて遠くに行ってしまう。
悲しい気持ちを心に深く隠したくなる。しかし、幾度目かには、鬼にもわかる隠れ方をしてほしい。「ここにいるよ」とサインが難しくて、遠くを捜すのは鬼も哀しい。
(†心のデボーション00264)
† 心のデボーション 00265
「卑き者に交りて謙だるは驕ぶる者と偕にありて贓物をわかつに愈る」 箴言16:19 明治元訳聖書
「貧しい者とともにへりくだることは、高ぶる者とともに分捕り品を分けるに勝る」 フランシスコ会訳聖書
「神のアナウィン」
教皇フランシスコは世界に「主のアナウィン(貧しい者)になろう」と呼びかけている。
「アナウィン」はヘブライ語で「貧しく、虐げを受けていた人」を指す言葉で、「貧しさの故に、何の生きる術も知らず、ただ神に寄り頼むほか、生きる道を知らない、謙遜な人」を意味するという。
貧しさを生きる時代が来ている。
(†心のデボーション00265)
† 心のデボーション 00266
「また眞理を知らん、而して眞理は汝らに自由を得さすべし」 ヨハネ8:32 大正文語訳聖書
「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」 新改訳聖書
「真理を見る眼」
「我に財を賜はらざるも可なり、我は名と位とを求めず、我にインスピレーションを降せよ、我に真理を見るの眼を賜へよ」 (内村鑑三 「聖書の研究」明治33年11月)
内村鑑三の「自由」は財によらず、名と位を頼らず、真理を知ることによった。
(†心のデボーション00266)
† 心のデボーション 00267
「その手に觸り給へば、熱去り、女おきてイエスに事ふ」 マタイ8:15 大正文語訳聖書
「イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなし」 新共同訳聖書
「朝露切り」
夫婦で朝早く田んぼに出かけて行って、端から端に糸を張り、二人で稲穂の上をダーッと撫でる。これを「朝露切り」といって江戸時代からの方法だそうだ。これをやると米がよくとれるという。
糸で朝露切りをするのは、手で穂を触れてやるのと同じ効果があるとされることからきている。トマトにクラッシック音楽を聞かせると収穫が多いというのも、音の振動が葉に触れるからで、植物は優しく声をかけ手で撫でてやるとそれがよい刺激になって育つのである。
ペテロの姑の手に触れられたイエスの御手は、朝ごとに私に降りた朝露を、「よく実れよ」と払っていかれる。
(†心のデボーション00267)
† 心のデボーション 00268
「處の人其妻の事をとへば我妹なりと言ふリベカは觀に美麗かりければ其處の人リベカの故をもて我を殺さんと謂て彼をわが妻と言をおそれたるなり」 創世記26:7 明治元訳聖書
「『あれは私の妹です』と答えた」 新改訳聖書
「父親と同じ失敗」
イサクが異郷の地で、自分の妻を「妹です」と答えたのは男の身勝手な罪であった。父アブラハムも、かつてエジプトで同じ失敗をしている。
父親が克服し得なかったのと同じ失敗を息子が繰り返す。
しかし、神はアブラハムの時と同じようにこの危機に介入される。それによってイサクは「父の罪」を克服したであろうことは、イサクの息子ヤコブがこの罪を繰り返していないことから知れる。
親子三代に渡って克服していく罪もある。
(†心のデボーション00268)
† 心のデボーション 00269
「人の壽命千年に倍するとも福祉を蒙れるにはあらず 皆一所に往くにあらずや」 伝道6:6 明治元訳聖書
「たとえ、千年の長寿を二度繰り返したとしても、幸福でなかったなら、何になろう」 新共同訳聖書
「嫌われ者」
嫌われることに堪え難い苦痛を感じるのは、人に好かれるのが唯一の拠り所になっているからかもしれない。その人にとっては自分が嫌われるのは存在が否定されるに等しい。
人に嫌われても、自分を嫌いにならないことだ。人に好かれるために本音を殺して生きるよりも、自分という人間をしっかり生きる方がよほど幸せではないか。
ありのままの自分が人に嫌われるのであれば、それはそれでよい。
(†心のデボーション00269)
† 心のデボーション 00270
「人の壽命千年に倍するとも福祉を蒙れるにはあらず 皆一所に往くにあらずや」 伝道6:6 明治元訳聖書
「たとえ、千年の長寿を二度繰り返したとしても、幸福でなかったなら、何になろう」 新共同訳聖書
「微笑みつつ生きる」
たとえ、千年の長寿を倍生きても、幸せでなければ何になろう、と伝道者はいう。
微笑みつつ生きることを忘れるな。小さな喜びを知らないなら、千年の長寿の倍を生きるも辛い。
(†心のデボーション00270)
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