心のデボーション026

デボーション1
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† 心のデボーション 00251

「ヱホバの使者彼に言けるは汝の女主の許に返り身を其手に任すべし」 創世記16:9 明治元訳聖書

「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい」 新改訳聖書

 「いじめ」

信仰の父アブラハムの家庭にもいじめの問題があった。女奴隷ハガルが女主人アブラハムの妻サライの虐待に耐えかねて逃走した時、主の使いは「あなたの女主人のもとに帰りなさい」と告げる。それは「虐待に身をさらす」ことにならないだろうか。

ここで、いじめから逃げようとする子どもを、一人でそこに送り返せというようなことが語られているのでは決してない。いじめの現場に神が立ち会われ、虐待から守り給うという意味だと思う。

(†心のデボーション00251)

† 心のデボーション 00252

「ヱホバ起てその聖住所よりいでたまへば凡そ血肉ある者ヱホバの前に粛然たれ」 ゼカリヤ2:13 明治元訳聖書

「すべての肉なる者よ。主の前で静まれ。主が立ち上がって、その聖なる住まいから来られるからだ」 新改訳聖書

  「パニック」

パニック(panic)の語源はギリシャ神話に登場する牧神「パン Pan」である。

パンはアルカディア地方に住む山羊の足と2本の角を持ち、騒々しく笑う不思議な子どもだった。両親はパンをもてあましオリンポスの山に連れて行くと、パンを見るすべての神々がパンに興味を示して喜んだのでパン(すべて)と呼ばれるようになった。

パンは普段は岩かげに横たわって昼寝をするのが好きだったが、午睡中に誰かが物音を立てたりして安眠を妨げられると、機嫌を悪くし、大きな声をあげ、石つぶてを投げた。この怒りがあまりにも激しく恐ろしいものであったため、羊が狂乱して大騒ぎが起きた。

人々は、家畜の群れが何の前触れもなく突然騒ぎだし、集団で逃げ出すのは牧神パンが感情を乱したと考え、これを パニコン πανικόν (英語 panic)と呼んだ。やがて人が突然、不安や恐怖から混乱し、またそれに伴う行動を「パニック」と呼ばれたのである。

神は私のパニックを静めてくださる。

(†心のデボーション00252)

† 心のデボーション 00253

「又もろもろの心勞を神に委ねよ、神なんぢらの爲に慮ぱかり給へばなり」 Ⅰペテロ5:7 大正文語訳聖書

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい」 新改訳聖書

 「ガラクタ引き出し」

役に立たないものは捨てて身を軽くした方が生きやすい。しかし、必要なものだけがキチンと整理された引き出しは味気ない。役に立たないものはすべて不要なのではない。それを持ち続けるのが重荷となり、思い煩いになるのが問題なのだ。

私はガラクタの引き出しは残しておきたいと思う。新しいものは少々雑然とした世界から生まれてくるようだ。

(†心のデボーション00253)

† 心のデボーション 00254

「アブラム乃ちヱホバの自己に言たまひし言に從て出たりロト彼と共に行りアブラムはハランを出たる時七十五歳なりき」 創世記12:4 明治元訳聖書

「アブラハムは主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラハムは、ハランを出発したとき七十五最であった」 新共同訳聖書

 「人間到る処青山あり」

男児志を立て郷関を出ず
学若し成る無くんば復た還らず
骨を埋むる何ぞ墳墓の地を期せん
人間到る処青山あり

     (月性『將東遊題壁』)

「人間(じんかん)」は「世の中」、「青山」は「墳墓」の意味である。

人はどこで死んでも骨を埋めるくらいの青々とした山はある。何処であれ、自分の到る処を青山とする。アブラハムはそのようにして出発した。

(†心のデボーション00254)

† 心のデボーション 00255

「神夜の夢にスリア人ラバンに臨みて汝愼みて善も惡もヤコブに道(いふ)なかれと之に告たまへり」 創世記31:24 明治元訳聖書

「あなたはヤコブと、事の善悪を論じないように気をつけよ」 新改訳聖書

 「事の善悪」

神が「事の善悪を論じないように気をつけよ」と言われることがある。「事の善悪」を問わずにいられないのが被害を受けた人の心情である。それがいわれなき被害であればなおさらのことである。

しかし、多くの場合、「事の善悪を論じ」ても、「事の善悪を論じなく」ても、問題は解決しない。

「事の善悪を論じない」その決意がもたらす沈黙の中で、「事の善悪」を超えて何を論ずべきか、それが問題である。

(†心のデボーション00255)

† 心のデボーション 00256

「かれら見るものに對ひていふ見るなかれと 默示をうる者にむかひていふ直きことを示すなかれ 滑かなることをかたれ虛僞をしめせ」 イザヤ30:10 明治元訳聖書

「彼らは予見者に『見るな。』と言い、予見者にはこう言う。『私たちに正しいことを預言するな。私たちの気に入ることを語り、偽りの預言をせよ。』」 新改訳聖書

 「偽りの預言者」

「滑らなることを語る」預言者がいる。偽りの預言者である。

「滑らかなことを語る」は「気に入ることを語る」(新改訳)の意味で、「へつらい」である。

漢字で「諂い」は「くぼみ(穴)に陥る」ことである。必要以上に自分を落として他人にこびること。へりくだっているようであるが、実は相手を穴に落とそうとしている。

「諂笑」ほど気持ちの悪いものはないのに、見抜けないことが多い。

(†心のデボーション00256)

† 心のデボーション 00257

「されど彼らの慕ふ所は天にある更に勝りたる所なり」 ヘブル11:16 大正文語訳聖書

「しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです」 新改訳聖書

 「あくがれ」

アベル、エノク、ノア、アブラハムなどの信仰の人々は約束のものを手に入れることはできなかったが、「さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷」にあこがれていた。

「あこがれ」は「あくがれ」で、「あく」は「ところ」、「がる」は「離れて遠く去る」から来ている。物事に心を奪われ魂が肉体から離れるさまをあらわす。

箴言21:10に「悪者のたましいは悪事にあこがれ」とある。

悪者は悪事に魂が肉体から離れるほどに心を奪われるが、信仰は「天の故郷」を魂が落ち着かないほどにあくがれる。。

わが魂よ、汝は何にあくがるや。

(†心のデボーション00257)

† 心のデボーション 00258

「彼等なんぢにむかひて請ふ われらと偕にきたれ 我儕まちぶせして人の血を流し 無辜ものを故なきに伏てねらひ」 箴言1:11 明治元訳聖書

「いっしょに来い。われわれは人の血を流すために待ち伏せし、罪のない者を、理由もなく、こっそりねらい」 新改訳聖書

 「オレオレ詐欺」

我が家にも還付金さぎの電話が入った。戻る金があると知らされれば、思わず「ありがとうございます」と言ってしまう。だが、ケータイのない我が家では「書類を郵送して」と頼むと電話は切れた。詐欺師からも敬遠されたようだ。

箴言の時代にも「オレオレ詐欺者」はいたようだ。(箴言1:11~14)

「彼らは待ち伏せして、自分の血を流し、自分のいのちを、こっそり、ねらっているにすぎない」(箴言1:18)

(†心のデボーション00258)

† 心のデボーション 00259

「彼は深妙秘密の事を顯し幽暗にあるところの者を知たまふまた光明彼の裏にあり」 ダニエル2:22 明治元訳聖書

「その方は測り難い、隠されたことを露わにされる方。闇の中にあるものを知り、光はその方とともに住む」 フランシスコ会訳聖書

 「貫通石」

トンネルは普通、入口と出口の双方から掘り進め、中央で合流する。合流点で最後に砕かれた岩石の破片を「貫通石」といい、トンネル完成の記念に関係者に配られたりする。

「貫通石」を安産のお守りにする習慣は古事記の神功皇后が朝鮮半島(新羅)に遠征した際に山にトンネルを掘り相手の背後から攻めて勝利し、持ち帰った「貫通石」を出産時に枕元に置いたところ安産であったことに由来するという。

「貫通石」は突破石である。最後の壁を崩すと小さな穴から光が差し込み、その先に道が見える。

祝福された人の胸には幾つもの「貫通石」がある。

(†心のデボーション00259)

† 心のデボーション 00260

「かかる人のたましひは平安にすまひ その裔はくにをつぐべし」 詩篇25:13 明治元訳聖書

「その人のたましいは、しあわせの中に住み、その子孫は地を受け継ごう」 新改訳聖書

 「魂が幸せの中に住む人」

せめて人並みの生活をしたいと考える時、私は自分というものを忘れている。自分の生き方に自信がもてないから人並みでないところが気になる。

何かを獲得することは何かを失うことである。自分が失ったものを思うよりも、与えられたものを喜ぶべきである。あれもこれも失うまいとするので身動きが取れない。

たましいが「幸せの中に住む人」は自分の歩むべき道を知っている。それで、自分が人並みかどうか気にもしないのだろう。

(†心のデボーション00260)

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