心のデボーション025

デボーション1
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† 心のデボーション 00241

「汝仇をかへすべからず汝の民の子孫に對ひて怨を懐くべからず己のごとく汝の鄰を愛すべし我はヱホバなり」 レビ19:18 明治元訳聖書

「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」 新改訳聖書

 「虫ずが走る」

人の体には一匹の虫がいて、この虫が出す酸っぱい唾液を「虫酸」という。

人のある種のしぐさが気になって仕方のないことがある。そのいやらしさに虫酸が走るのは、この虫のせいかもしれない。人に感じる「いやらしさ」は、自分に住み着く虫の吐き出す「すっぱい唾液」なのだ。「虫酸」が走ると速やかに口から出るので、顔の表情を見ればすぐに知れる。

「嫌な人」というのは「自分と似た人」で、実は自分の内で生きている。

「隣人を愛する」とは、自分の内にいる「虫」を愛することでもある。

(†心のデボーション00241)

† 心のデボーション 00242

「人の心にある謀計は深き井の水のごとし 然れど哲人(さときひと)はこれを汲出す」 箴言20:5 明治元訳聖書

「人の心にあるはかりごとは深い水、英知のある人はこれを汲み出す」 新改訳聖書

 「深き井の水」

「はかりごと」は「思い計らい」(新共同訳聖書)である。

文語訳「深き井の水」は「深い水」で、地下の深いところを流れる地下水の意味である。

心の深いところに英知の水脈がある。これを汲み出すには硬い岩盤を掘り下げ、水脈を探り当てなければならない。

「英知のある人」は何でもない事柄から「深みからの水」を汲み出す。

(†心のデボーション00242)

† 心のデボーション 00243

「騷亂のやみし後、パウロ弟子たちを招きて勸をなし、之に別を告げ、マケドニヤに往かんとて出で立つ」 使徒20:1 大正文語訳聖書

「この騒動が収まった後、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げてからマケドニア州へと出発した」 新共同訳聖書

 「大いにやりたまえ」

友とは「困難な仕事をしているところに来て、『大いにやりたまえ』と言ってくれる者のことである」(新渡戸稲造)

パウロは「弟子たちを呼び集めて励まして」、マケドニアに出発する。「励ます」のギリシャ語は「近くに呼ぶ」の意味である。

この時間に起きて仕事をしている友のこと思う。すると遠方の友が、すぐ近くで『大いにやりたまえ』と声をかけてくれるような気がする。

(†心のデボーション00243)

† 心のデボーション 00244

「滅されたる者よ汝何をなさんとするや設令汝くれなゐの衣をき金の飾物をもて身を粧ひ目をぬりて大くするとも汝が身を粧ふはいたづらなり汝の戀人らは汝をいやしめ汝のいのちを索るなり」 エレミヤ4:30 明治元訳聖書

「辱められた女よ、何をしているのか。緋の衣をまとい、金の飾りを着け、目の縁を黒く塗り、美しく装ってもむなしい。愛人らはお前を退け、お前の命を奪おうとする」 新共同訳聖書

 「時代の侵入者」

敵が殺戮を繰り返しながら町に迫っているのに、最後に残ったエルサレムは遊女のように金の飾りを着け、目の縁を黒く塗って敵軍に媚をうる。だがイスラエルは拒絶され殺されようとしている。

アラビアの女性は目を美しく見せるために「アンチモニー antimony」の粉末をまぶたに塗った。だが、今なすべきことは身を飾ることではない。

時代の侵入者が迫るとき、それに媚びることしかできない者には絶望しか残されていない。

(†心のデボーション00244)

† 心のデボーション 00245

「海にうかぶもの 海のなかに充るもの もろもろの島およびその民よ ヱホバにむかひて新しき歌をうたひ 地の極(はて)よりその頌美(ほまれ)をたたへまつれ」 イザヤ42:10 明治元訳聖書

「主に向かって新しい歌を歌え」 新改訳聖書

 「新しい歌」

昔はすばらしいと思えたことが今はもう取るに足りないと感じられる。だが、今は取るに足りないと思えたことが、やがて深い意味を持つ「今」となるかもしれない。「今」を生かすものは、すでに自分自身の中にあって、呼び覚まされるのを待っている。

意味もないとして生きることをしてこなかったものを見つけ、それを生きることの喜びが「新しい歌」である。

(†心のデボーション00245)

† 心のデボーション 00246

「斯有かばアブラムの家畜の牧者とロトの家畜の牧者の間に競爭ありきカナン人とペリジ人此時其地に居住り」 創世記13:7 明治元訳聖書

「アブラハムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが起きた。そのころ、その地方にはカナン人もペリジ人も住んでいた」 新共同訳聖書

 「その地の民」

カナンの地に移住したアブラハムとロトは羊や牛の群れを増やしていった。しかし、土地は彼らの家畜を養うのに十分な広さがなかったことから、牧者の間で対立が発生した。

創世記は「そのころ、その地方にはカナン人もペリジ人も住んでいた」と記録している。カナン人やペリジ人は移住してきたアブラハムとロトの成功を、「今に分裂するぞ」と見ていたのである。

神の祝福に生きようとする者は、祝福からも対立が生まれ、そして祝福よりも対立を見つめる冷たい視線のあるのを忘れてはいけない。

約束の地カナンにはカナン人やペリジ人が住んでいる。

(†心のデボーション00246)

† 心のデボーション 00247

「見ゆる所によらず、信仰によりて歩めばなり」 Ⅱコリント5:7 大正文語訳聖書

「私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます」 新改訳聖書        

 「歩き回る」

中風で歩くことのできなかった人がイエスに出会って歩けるようになった。彼は起き上がって、踊るように辺りを「歩き回った」。歩けることが嬉しかった。

「信仰によって歩む」は、喜びをたずさえて辺りを「歩き回る」ことである。ギリシャ語の「歩く」には「生活する、生活を調える」という意味がある。歩くことと生きることは一つである。嬉しきことである。

(†心のデボーション00247)

† 心のデボーション 00248

「なんぢら眞理に從ふによりて靈魂をきよめ、僞りなく兄弟を愛するに至りたれば、心より熱く相愛せよ」 Ⅰペテロ1:22 大正文語訳聖書

「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい」 新改訳聖書

 「霊魂をきよめ」

人が触れたものには触れられないというのが不潔症候群である。うっかり触ったりすると、何度でも手を洗わなければ気がすまない。しかし、洗えば洗うほど、汚れに恐怖するようになる。

「汚いもの」「不潔なもの」を悪として排除すべきではない。人間は「不潔、汚れ」があって当然である。

魂を清めるのは「真理」である。「真理」は兄弟への偽りのない愛に至ることによって確かめられる。

(†心のデボーション00248)

† 心のデボーション 00249

「ああ美はしきかな わが佳耦よ ああうるはしきかな なんぢの目は鴿のごとし」 雅歌1:15 明治元訳聖書

「ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。なんと美しいことよ。あなたの目は鳩のようだ」 新改訳聖書

 「さまよえるオランダ人」

ワーグナーの「さまよえるオランダ人」はドイツの詩人ハインリッヒ・ハイネの『フォン・シュナーベレヴォプスキー氏の回想記』(Aus den Memoiren des Herren von Schnabelewopski、1834年)から着想を得て再構成したもので、1842年に完成し、1843年に初演された。

その昔、嵐に襲われた船のオランダ人船長が、その荒波に対して「私は永遠に止まることなく乗り切ってみせる」と豪語したために、その船は呪われ、オランダ人船長は死ぬことも許されずに、永遠に海をさまよい続けることになった。呪いを解くには、7年に一度許される上陸の機会に、オランダ人船長に「永遠の愛」を誓う女性が現れなければならない。

ある7年の周期の日、オランダ人の幽霊船はあるノルウェー船に出会う。船長ダーラントにはひとりの娘ゼンタがいることを聞き、オランダ人は結婚を申し込む。

ゼンタには、エリックという恋人がいたが、自分こそがオランダ人を救う聖なる女性だと信じ、永遠の愛を誓う。

エリックはゼンタの裏切りを責める。その話を物陰から聞いていたオランダ人は、所詮永遠の愛など存在しないと絶望し、船に乗り込み出航する。オランダ人の船が岸から遠のくときゼンタは、オランダ人に対する真の愛を誓って海に身を投げる。すると、呪われた船は海に沈み、オランダ人とゼンタの体は、空から一条の光を浴びて、天に昇っていく。

男性には自分の魂を救済してくれる「聖なる女性」の幻を追うところがある。それが男にかけられた「呪い」かもしれない。女性も「聖なる女性」の幻を身に帯びると、恋人よりも病める男のために身をささげ、真の愛を誓って海に身を投じたりする。それが女にかけられた「呪い」かもしれない。

(†心のデボーション00249)

† 心のデボーション 00250

「そは是とせらるるは己を譽むる者にあらず、主の譽め給ふ者なればなり」 Ⅱコリント10:18 大正文語訳聖書

「自分で自分を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ、受け入れられる人です」 新改訳聖書

 「自画自賛」

「誉める συνίστημι  スゆニステーミ」は「いっしょに立つ、共に置く」で「推薦する、示す」を意味する。

「己を譽むる」は自分と「いっしょに立つ」ことで「自分で自分を推薦する」、「自画自賛する」、「自己推薦する」である。

「自分で自分を推薦する」のは虚しい。しかし、神は私と一緒に立たれ、私を推薦し、自画自賛なさる。自慢の息子なのだ。

(†心のデボーション00250)

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