心のデボーション023

デボーション1
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† 心のデボーション 00221

「四千は門を守る者たりまた四千はダビデが造れる讃美の樂器をとりてヱホバを頌ることをせり」 Ⅰ歴代誌23:5 明治元訳聖書

「四千人は門衛に、四千人は、ダビデが賛美するために作った楽器を奏でて、主を賛美する者になった」 新共同訳聖書

 「セカンドヴァイオリン」

「セカンドヴァイオリン」という生き方がある。

オーケストラのセカンドヴァイオリンはファーストヴァイオリンと別の楽器ではなく全く同じヴァイオリンを使うが、ファーストがメロディを多く弾くのに対して、セカンドは伴奏を受け持つ。セカンドは目立たないが、ファースト以上に難しく、熟練の技術が求められるという。「セカンド・パ―卜の出来の良さを分かるのは、指揮者とセカンド奏者と、よほど耳の肥えた聴衆だけ」とも言われる。

脇役という名優がいて舞台は面白い。主役だけが舞台ではない。

(†心のデボーション00221)

† 心のデボーション 00222

「汝の門閂は鐵のごとく銅のごとし汝の能力は汝が日々に需むるところに循はん」 申命記33:25 明治元訳聖書

「あなたのかんぬきが、鉄と青銅であり、あなたの力が、あなたの生きるかぎり続くように」 新改訳聖書

 「鉄と青銅のかんぬき」

モーセはアセルを祝福する。アセルの領地には良質のオリーブが生えていた。北方の敵は豊かな地の産物を狙うが、アセルの城門のかんぬきは「鉄と青銅」でできており、容易には落ない。

「私」を守るために、城門を高くし、そのかんぬきをかためよ。「生きる限り」その力を失うな。

(†心のデボーション00222)

† 心のデボーション 00223

「心に喜樂あれば顔色よろこばし 心に憂苦あれば氣ふさぐ」 箴言15:13 明治元訳聖書

「心が楽しいと、顔色も晴れやかになり、心に憂いがあると、気も沈む」 フランシスコ会訳聖書

 「三尸(し)九虫」

何となく気に入らないことを「虫が好かない」という。

道教の教えによれば人の体には禍をおこす三匹の虫「三虫(三尸)」がいて病気や悪感情を引き起こし、庚申の夜に人が眠ると、その人の犯した過失を天の上帝に告げに行き、寿命が短くされるという。

これが日本に入って「虫」は九匹に増え「三尸(し)九虫」になった。庚申の夜には眠らずに精進するのが庚申講で、庚申講を3年18回続けた記念に建てられるのが庚申塚である。

機嫌の悪い「虫」は放っておくと「虫酸」を吐き出す。虫の言い分に耳を傾けるしかあるまい。

(†心のデボーション00223)

† 心のデボーション 00224

「なんぢらの中たれか百匹の羊を有たんに、若その一匹を失はば、九十九匹を野におき、往きて失せたる者を見出すまでは尋ねざらんや」 ルカ15:4 大正文語訳聖書

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」 新共同訳聖書

 「迷い出た一匹」

羊飼いが一匹の羊を捜しに行ってしまったら、残された九十九匹の安全はどうなるのか。この際、迷い出た一匹はあきらめて、残った群れを守るべきではないか。

しかし、この羊飼いにとっては、迷い出た一匹を捜すことが、残りの九十九匹を守ることを意味した。一匹を放置することは群れ全体を放置することだった。残りの九十九匹がこの羊飼いと同じ思いにならなければ、やはり群れの安全は脅かされることになろう。

(†心のデボーション00224)

† 心のデボーション 00225

「彼らは國々の民を山に招き其處にて義の犠牲を献げん又海の中に盈(みて)る物を得て食ひ沙の中に蔵れたる物を得て食はん」 申命記33:19 明治元訳聖書

「彼らは海の富と、砂に隠された宝とを、吸い取るからである。」 新改訳聖書

 「砂に隠された宝」

地中海沿岸の砂は石英を含んでいて、この砂から美しい「ガラスの器」が造られた。

玉石の混ざった砂を選別するには、砂の端からはじめるのがコツ。砂の山に登って奮闘する姿は勇ましそうだが、あたりを散らかすだけだ。砂の山を見ず、砂の一粒一粒を指で選別するしかない。

人生の一日は「砂に隠された宝」を指先で選別するようなものかもしれない。イライラさえしなければ、結構楽しい作業である。

(†心のデボーション00225)

† 心のデボーション 00226

「ヱホバよわれを糺しまた試みたまへ わが腎(むらと)とこころとを錬きよめたまへ」 詩篇26:2 明治元訳聖書

「主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください」 新改訳聖書

 「風が吹けば」

「風が吹けば桶屋が儲かる」は、江戸時代の浮世草子『世間学者気質(かたぎ)』巻三に出て来る。ここでは儲かるのは「桶屋」ではなく「箱屋」である。

大風でほこりが立つ

ほこりが目に入って、目の見えない人が出る

目の見えない人は三味線を買う

三味線に使う猫の皮が必要になり、猫が殺される

猫が殺されてネズミが増える

ネズミは箱をかじる

箱屋が儲かる

「私の思い」が時に的を得ないのは、「風が吹けば箱屋」をやっているからなのか。一つ一つに間違いはないのに思いが実際とつながっていないのだ。

(†心のデボーション00226)

† 心のデボーション 00227

「視よわれ新しき事をなさん頓ておこるべし なんぢら知ざるべけんや われ荒野に道をまうけ沙漠に河をつくらん」 イザヤ43:19 明治元訳聖書

「わたしはまさに荒れ野に道を、荒れ地に川を設ける」 フランシスコ会訳聖書

 「いのちの道」

荒野は乾いて水がなく、燃える蛇やサソリが棲む。旅人は「正しいただ一つの道」を見つけねばならない。

道はたくさんあって、どれも同じ所にいけるというのは平地の思考である。砂漠では、方向を失って彷徨うことは確実な死を意味する。

エレミヤはそこには「いのちの道」と「死の道」しかないと告げる。(エレミヤ21:8)

神は岩と砂しかない荒野に「いのちの道」をもうけられる。

「いのちの道」へは道自身が導いてくれる。

(†心のデボーション00227)

† 心のデボーション 00228

「驕傲(たかぶり)きたれば辱(はぢ)も亦きたる謙(へりく)だる者には智慧あり」 箴言11:2 明治

元訳聖書

「高ぶりが来れば、恥もまた来る。知恵はへりくだる者とともにある」 新改訳聖書

 「恥」

「高ぶり」は「恥」と一緒に来る。ただ、「恥」はその性格から「高ぶり」の影に隠れていて、いきなり顔をのぞかせる。「高ぶり」を砕くにはその一瞬の動作で十分である。

ちらりと見せる「恥」の顔を、見て見ぬ振りをするのが「恥知らず」である。

(†心のデボーション00228)

† 心のデボーション 00229

「ラケル己が子らを歎き、 子等のなき故に慰めらるるを厭ふ」 マタイ2:18 大正文語訳聖書

「ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声。ラケルがその子らのために泣いている。ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ」 新改訳聖書

 「ラマで声がする」

ラケルは二人目の男の子ベニヤミンを出産するときひどい陣痛に苦しみ、出産の後に死亡した。ラマにラケルの墓があった。イスラエルの民がラマからバビロニアに捕囚として連行される時、民はラケルの墓から我が子を失って泣くラケルの声を聞いた。

母は自分が亡くなった後も、「我が子」を見守り、「私の子どもがいない」と声を上げて泣く。

天では神が「わたしの子がいない」と泣かれる。

(†心のデボーション00229)

† 心のデボーション 00230

「價たかき眞珠一つを見出さば、往きて有てる物をことごとく賣りて、之を買ふなり」 マタイ13:46 大正文語訳聖書

「価の高い真珠一個を見つけると、持ち物を全部売りに行き、それを買ってしまう」 バルバロ訳聖書

 「あめ!」             

雨の日に、子どもが外に出て、雨を顔に受けて「あめ!」と叫んでいる。空から降ってくる雨が面白いのだ。

何事かに驚く時、人はそれを伝える相手を求め、ことばが出てくる。

雨を面白いと感じる、ただそれだけの感動だが、「すばらしい真珠一つ」である。それを手に入れるためなら、持ち物全部を売り払っても惜しくはない。

ことばに説得力がないのは、雨に驚く子どもの心を失ってしまったからだ。

(†心のデボーション00230)

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