心のデボーション022

デボーション1
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† 心のデボーション 00211

「怨恨(うらみ)は爭端(あらそい)をおこし 愛はすべての愆(とが)を掩(おほ)ふ」 箴言10:12 明治元訳聖書

「憎しみはいさかいを引き起こす。愛はすべての罪をおおう」 新共同訳聖書

 「愛はすべての罪をおおう」

男は女を攻撃することをひかえ、女は男を否定することを減らせば、たいていはうまくいく。

愛は「すべての愆(とが)、罪」をおおう」、しかし「怨恨(うらみ)は爭端(あらそい)をおこす」。

「怨恨(うらみ)」を捨てれば「愛」が戻ってくる。

(†心のデボーション00211)

† 心のデボーション 00212

「然れども一人として我を造れる神は何處にいますやといふ者なし 彼は人をして夜の中に歌を歌ふに至らしめ地の獸畜よりも善くわれらを敎へ 空の鳥よりも我らを智からしめたまふ者なり」 ヨブ記35:10~11

明治元訳聖書

「どこにいますのか、わたしの造り主なる神。夜、歌を与える方、地の獣によって教え、空の鳥によって知恵を授ける方は」 新共同訳聖書

 「若きリーダー」

ある若きリーダーが神を賛美する美しい歌を書き、多くの若者が彼の歌を愛した。ある日、若きリーダーが信仰を失ったという噂が伝わり、若者たちは彼の歌をうたうべきか否か戸惑った。

ある時決断されたものは、状況が変われば価値を失うだろうか? 歌が書かれた「その時」にあったものは、「後の彼」とは別にそこに存在し続ける。

この歌をうたったら、私も歩いていこう。彼とは別の砂漠に向かって。

(†心のデボーション00212)

† 心のデボーション 00213

「その逃亡者の來る前の夜ヱホバの手我に臨み彼が朝におよびて我に來るまでに我口を開けり斯わが口開けたれば我また默せざりき」 エゼキエル33:22

「主はわたしの口を開かれた。口が開かれて、わたしはもはや黙してはいなかった」 新共同訳聖書

 「沈黙は銀」

欧米やアラブでは沈黙は「愚鈍か敵意」とみなされる。私の信仰の先輩は「沈黙は銀」といった。

沈黙を知る者の口が開かれる。

(†心のデボーション00213)

† 心のデボーション 00214

「是故に人は其父母を離れて其妻に好合ひ二人一體となるべし」 創世記2:24 明治元訳聖書

「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである」 新改訳聖書

 「男性性と女性性の統合」

若い男は女が自分とは異なる存在ということを理解しにくい。自分より少し劣った弱い人くらいにしか見ていないことがある。しかし、強いだけでは男としては欠けたものだ。強さに女のやさしさが加えられて男は真の男になる。男は真の男になるために、本気になって女性性に向かわなければならない。

「ふたりは一体になる」とは、男性性と女性性が統合されるところに人間の完成のあることを示すのである。

(†心のデボーション00214)

† 心のデボーション 00215

「汝等いかに思ふか、百匹の羊を有てる人あらんに、若しその一匹まよはば、九十九匹を山に遺しおき、往きて迷へるものを尋ねぬか」 マタイ18:12 大正文語訳聖書

「もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか」 新改訳聖書

 「怒れる羊飼い」

ヴァチカン美術館のビオ・クリスティアーノ美術館 Museo Pio-Clementiono には「善き羊飼い」の像の近くに「怒れる羊飼い」の像が展示されている。

「怒れる羊飼い AngryBoy」は片手で乱暴に羊を担ぎ、羊はそれを嫌がってもがいている。「善き羊飼い」は担いだ羊を両手でしっかり支え、羊はおとなしくしている。

教会には時々「怒れる羊飼い」が現れる。迷える羊を助け出すのだが、何故か怒っている。助けられた羊もさぞ居心地が悪かろう。

(†心のデボーション00215)

† 心のデボーション 00216

「また彼らに、落膽(らくたん)せずして常に祈るべきことを、譬にて語り言ひ給ふ」 ルカ18:1 大正文語訳聖書

「イエスは、気をおとさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された」 新共同訳聖書

 「落胆せず」

「気を落とさずに」は「やる気を失わずに、諦めずに、落胆しないで」の意味である。それらが祈りを妨げる。

落胆が祈りを妨げるのではなく、祈りを止めるので落胆が来たのである。

(†心のデボーション00216)

† 心のデボーション 00217

「なんぢ智慧にむかひて汝はわが姉妹なりといひ 明理にむかひて汝はわが友なりといへ」 箴言7:4 明治元訳聖書

「知恵に『あなたはわたしの姉妹』と言い、分別に『わたしの友』と呼びかけよ」 新共同訳聖書

 「朋有り、遠方より来たる」

「有朋自遠方來。不亦樂乎 (朋有り、遠方より来たる。亦楽しからずや)」 論語 学而第一 1

孔子の「友」ははじめから「遠方」にいて近くにはいない。道を求めている自分のことを聞き、はるばる訪ねてくれる。嬉しいことではないか。

遠方から来る者がすべて「友」ではない。近くの「遠方から来る友」もいる。「遠方」は地理的距離ではなく、互いを引きつける力の大きさのことである。

「わたしの友」が遠方から思いこがれてやって来た。彼の学び得たことは何だろうか。

(†心のデボーション00217)

† 心のデボーション 00218

「何事よりも先づ互に熱く相愛せよ。愛は多くの罪を掩(おほ)へばなり」 Ⅰペテロ4:8 大正文語訳聖書

「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです」 新改訳聖書

 「愛は多くの罪をおおう」

「愛は多くの罪をおおう」とある。「おおう」は単に「隠す」ではなく、「働かせなくする」「無力にする」を意味する。

愛は罪を隠し、不問にするのではなく、罪を包んで無力なものに変え、働かせなくする力である。

そこでペテロは「互いに熱心に愛し合いなさい」とすすめる。「熱い愛」とは「尽きることのない愛」のことである。熱いだけでなく冷たくもなれる愛である。

(†心のデボーション00218)

† 心のデボーション 00219

「われ汝のいましめの道をはしらん その時なんぢわが心をひろく爲たまふべし」 詩篇119:32 明治元訳聖書

「私はあなたの仰せの道を走ります。あなたが、私の心を広くしくださるからです」 新改訳聖書

 「自尊心」

自分の意見を言うべき時に、傷つくのを恐れて引っ込めてしまう人は自尊心が高すぎるかもしれない。

人に笑われたり、拒絶されるのが何よりも恐い。そのため、見知らぬ人の前では萎縮してしまうのだ。

しかし、自尊心を失ってはならないと思う。

「心を広くする」は、自尊心をほどほどの現実的なレベルに引き下げることである。少しくらい傷ついても、すぐに自分を取り戻し、立ち直れるのが自尊心の本当の働きではないか。

(†心のデボーション00219

† 心のデボーション 00220

「兄弟よ、もし人の罪を認むることあらば、御靈に感じたる者、柔和なる心をもて之を正すべし、且おのおの自ら省みよ、恐らくは己も誘はるる事あらん」 ガラテヤ6:1 大正文語訳聖書

「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい」 新改訳聖書

 「程よい小間切れ」

複雑な問題はできるだけ小間切れにしてみる。あちらを立てればこちらが立たずという場合、問題を二つに分け、とりあえず、問題の軽い方から解決をはかる。

あちらもこちらも同時に解決しようとすると難しくなる。

しかし、細分化は問題をミンチ状にしてしまうことではない。そんなことをすれば訳の分からない不安だけが残るおそれがある。

程よい「小間切れ」がよいのだが、これが意外と難しい。「柔和なる心」が求められる。

(†心のデボーション00220)

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