† 心のデボーション 00201
「君に媚る者はおほし 凡そ人は贈物を與ふる者の友となるなり」 箴言19:6 明治元訳聖書
「高貴な人の好意を求める者は多く、だれでも贈り物をしてくれる人の友となる」 新改訳聖書
「贈り物」
欧米人は贈り物を贈り主の目の前であける。アメリカ人は包み紙を破って期待感を現す。ヨーロッパ人は丁寧に解いて感謝の思いを表現する。
「友からの贈り物」は嬉しい。だが、「高貴な人の好意を求める者の贈り物」はありがたくない。しかし、私は「高貴な人」ではないので、その心配をする必要は全くない。贈り物をいただいたので友になったのではなく、友だから贈り物をいただいたのである。贈り物を差し上げるときも同じ理由である。
(†心のデボーション00201)
† 心のデボーション 00202
「茲にわれ目を醒しみるに我眠は甘かりし」 エレミヤ31:26 明治元訳聖書
「私のねむりは心地よかった」 新改訳聖書
「心地よいねむり」
エレミヤは、自分がユダの農夫が羊の群れを飼う邑々に住んでいる夢を見る。夢の中でエレミヤは「疲れたる靈魂」が充たされ、その魂は「すべての憂い」から慰められるのを感じる。そして、目覚めると、「私のねむりは心地よかった」という。
私に「心地よい」眠りを与えられるのは神である。「心地よい夢」は霊魂の「疲れ」や「憂い」を癒す。
しかし、いわゆる「不吉な夢」も魂を癒すことがあり、逆に「幸運の夢」が魂の傷からくることもある。夢は自分も他人も正確な解釈はできない不思議な世界である。魂を神にゆだねてねむりにつく。
(†心のデボーション00202)
† 心のデボーション 00203
「もし誇るべくは、我が弱き所につきて誇らん」 Ⅱコリント11:30 大正文語訳聖書
「どうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります」 新改訳聖書
「自己臭」
自分から魚の腐ったような臭いが出ていて、みんなが顔をそむけるという訴える人もいる。そんな臭いはしないと告げても、本人は承知しない。そのため電車にも乗れなくなる。
勉強はよくできるのだが、人とうまくつき合えないところがある。自分から出ている嫌な臭いは、人から嫌われているのではないかという心のおびえである。
少しつき合いの幅を広げて対人関係に自信がつけば臭いは自然に感じなくなる。自分の弱さから逃げないことだ。
「弱さ」は誇るほどに大切にしてよい。
(†心のデボーション00203)
† 心のデボーション 00204
「我ら神より福祉を受るなれば災禍をも亦受ざるを得んや」 ヨブ記2:10 明治元訳聖書
「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいおも受けなければならないではないか」 新改訳聖書
「ヨブの道」
問題はすべて解決されるべきものではない。解決しなくてもいい問題を無理に解決しようとするので行き詰まることも少なくない。
「問題はわかっている。でも解決の方法がわからない」というのは、まだ問題が充分に成熟していないのである。 問題があることを充分に知った上で、「これについては解決しないことにする」と決めたらよい。問題を抱えながらも何とかやっていくことで、問題は成熟する。それがヨブのたどった道だった。
(†心のデボーション00204)
† 心のデボーション 00205
「神の爲したまふところは皆その時に適ひて美麗(うるは)しかり 神はまた人の心に永遠をおもふの思念(おもひ)を賦(さず)けたまへり 然ば人は神のなしたまふ作爲(わざ)を始より終まで知明(しりあき)むることを得ざるなり」 伝道3:11 明治元訳聖書
「神はすべてのものを、その時にかなったものとして美しく造られた。また、人の心に、永遠への思いを授けられた」 フランシスコ会訳聖書
「誕生から背負ってきたもの」
人生は決して平等とは思えない。人は誕生のときから、あるものを背負って生まれてくる。背負わされたと言った方がいいかもしれない。
誕生から背負ってきたものは一生負い続けることになる。しかし、それが人生の中で深い意味をもつことも少なくない。重荷と思ってきたものが「美しい」と感じられる瞬間である。神のなし給うことは時にかなって美しい。
すべての人にその恵みのときが与えられる点で、人生はまったく平等である。
(†心のデボーション00205)
† 心のデボーション 00206
「かくて我らの伴侶(ともがわ)も善き業を務めて必要を資(たす)けんことを學ぶべし、これ果(み)を結ばぬ事なからん爲なり」 テトス3:14 大正文語訳聖書
「わたしたち一同が、差し迫った必要に備えて、良い業に励むことを学ばなければなりません」 フランシスコ会訳聖書
「良い業」
自分のすることを誰もが認めてくれるとは限らない。半分の人が支持してくれれば、まずまずである。半分の人が支持してくれるということは、興味を示さない残り半分の人がいるということである。
まだ認めてくれない半分を残すことによって、一箇所にとどまることから救われる。
「認める半分」と「認めてくれない半分」を、共に自分自身の内に置くことが「正しい仕事」への励みになるようでもある。
「認める半分」と「認めぬ半分」では、結ぶ「実」の大きさも収量も段違いである。
(†心のデボーション00206)
† 心のデボーション 00207
「神の國は言にあらず、能力(ちから)にあればなり」 Ⅰコリント4:20 大正文語訳聖書
「神の国はことばにはなく、力にあるのです」 新改訳聖書
「継続の力」
人は目標があってこそ動ける。しかし、その目標は動くから見えるということも少なくない。
一つの行為をひたすらに続けると、そこに道が見えてくる。
全体が見えなければ一歩も動けないというのは、ただ動きたくないだけだ。
動きさえすれば何でもよいわけではない。行為するということは「ことば」に出会うことである。
ことばに出会う人は力とも出会っている。
(†心のデボーション00207)
† 心のデボーション 00208
「試錬(こころみ)に耐ふる者は幸福(さいはい)なり、之を善しとせらるる時は、主のおのれを愛する者に、約束し給ひし生命の冠冕(かんむり)を受くべければなり」 ヤコブ1:12 大正文語訳聖書
「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです」 新改訳聖書
「エキスパート」
英語「Expert エキスパート 熟練者」はラテン語 「Ex + peritue 熟練した」(名詞 expertise)で「試された者」のことである。
「エキスパート」と呼ばれる人は、様々な「試し」を体験し「熟練者」になった「幸いな人」である。彼の頭には「生命の冠冕(かんむり)」がある。
私に「試み」を与えるものを大切にしたい。それらは私にいのちを与えてくれる。
(†心のデボーション00208)
† 心のデボーション 00209
「なんぢらの年老るまで我はかはらず白髮となるまで我なんぢらを負ん 我つくりたれば擡(もた)ぐべし我また負ひかつ救はん なんぢら我をたれに比べ たれに配ひ たれに擬らへ かつ相くらぶべきか」 イザヤ46:4~5 明治元訳聖書
「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう」 新改訳聖書(46:3~4)
「背負いにくい者」
神は白髪頭の私を背負い、運ばれる。だが、実は、「胎内にいるころから」神はわたしを「背負われ」、「胎をいでしより」今に至るまで神に「運ばれた者」であった。(イザヤ4:3)
何と「背負いにくい者」を神は背負われることか!
(†心のデボーション00201)
† 心のデボーション 00210
「なんぢら心を騷がすな、神を信じ、また我を信ぜよ」 ヨハネ14:1 大正文語訳聖書
「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」 新改訳聖書
「馬に馬具をつける」
インドの「ヨーガ」は「馬に馬具をつける」という意味だという。
「心を騒がす」は魂が落ち着きなく動くことか。心が暴れる馬のように飛び跳ね、あちこちをけちらして何も見えない。
沈黙の時間をつくり、馬具をつけ、息を整え、魂に一息つかせる。
(†心のデボーション00210)
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