心のデボーション020

デボーション1
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† 心のデボーション 00191

「主人たる者よ、汝らも僕に對し斯く行ひて威嚇を止めよ、そは彼らと汝らとの主は天に在して、偏り視たまふことなきを汝ら知ればなり」 エペソ6:9 大正文語訳聖書

「主人たちよ。あなたがたも、奴隷に対して同じようにふるまいなさい。おどすことはやめなさい。あなたがたは、彼らとあなたがたとの主が天におられ、主は人を差別されることがないことを知っているのですから」 新改訳聖書

 「二つの顔をもつ埴輪」

2006年12月、和歌山市岩橋千塚古墳群の大日山35号墳(前方後円墳、6世紀前半)で、前と後ろに二つの顔がある人物埴輪の頭部が出土したと、和歌山県教育委員会が発表した。

埴輪の頭部は高さ約19センチ、幅約14センチ。古代の男性が耳の横で髪を結った「下げ美豆良(さげみずら)」があるところから男性のもので、一つは目尻がやや下がり穏やかな顔つきで、その裏は目がややつり上がった厳しい顔になっている。前後に顔を持つ人物埴輪が確認されたのは全国で初めてで、非常に貴重な資料という。

悲しいのは、一方の顔に「差別的表現」がみられることである。「差別」は1500年の時を経て地中からでも現れてくる。

(†心のデボーション00191)

† 心のデボーション 00192

「福祉(さひわい)をみんがために生命をしたひ存(ながら)へんことをこのむ者はたれぞや」 詩篇34:12 明治元訳聖書

「いのちを喜びとし、しあわせを見ようと、日数の多いのを愛する人は、だれか」 新改訳聖書         

 「しあわせの子」

思春期の女の子は、どこか神秘的な雰囲気をもっている。内に引きこもることも多く、両親には扱いにくく感じられる年頃である。身体の成熟のわりに心は未熟さを残しているのである。女性が心身共に美しく成長するには、この時期に内的なものを充分に見つめる必要がある。

女性としてのいのちを喜び、その幸せを自分に感じられれば、女の子はやがて美しく花開く。その内的な営みに寄り添う気持ちになれば、その日々は楽しく麗しい。

(†心のデボーション00192)

† 心のデボーション 00193

「それ人の世にあるは戰鬪(たたかひ)にあるがごとくならずや 又其日は傭人(やといびと)の日のごとくなるにあらずや」 ヨブ記7:1 明治元訳聖書

「この世にいることは人にとって兵役であり、その日々は日雇いの日々のようだ」 バルバロ訳聖書

 「私の肉から神を見る」

ヨブの一生は病と度重なる不幸との「戦い」であった。戦いに安息はなく、雇われた傭兵のように疲れた体を横たえる家もなく、「土の中に眠った」(ヨブ6:21)。

戦いの相手は「神」であるとして、ヨブをそそのかしたのはサタンである。しかし、ヨブは病に打たれ、膿を流す「肉」から「神」を見た。

「私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る」(ヨブ19:26 新改訳聖書)。

神への賛美がサタンの試みからヨブを解き放った。

(†心のデボーション00193)

† 心のデボーション 00194

「久しうして後この僕どもの主人きたりて彼らと計算したるに」 マタイ25:19 大正文語訳聖書

「さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと精算を始めた」 新共同訳聖書

 「別のそろばん」

主人は旅から帰るとただちに財産を託した僕たちを集めて「精算」を始める。

「精算」は「計算」である。

旅の装束も解かぬうちに「そろばん」を持ち出す主人はいかがなものかとは思うまい。「そろばん」は主人たる者の必需品である。

老いるとそろばんを持ちたくなくなるが、計算しなくなるのではない。若い時とは別の「そろばん」が与えられるのである。

(†心のデボーション00194)

† 心のデボーション 00195

「命令を守る者は禍患を受るに至らず 智者の心は時期と判斷を知なり」 伝道8:5 明治元訳聖書

「命令を守る者はわざわいを知らない。知恵ある者の心は時とさばきを知っている」 新改訳聖書

 「時の調整」

2015年7月1日、「うるう秒」が実施された。午前8時59分59秒と午前9時00分00秒の間に「8時59分60秒」を1秒挿入し、日本標準時刻に合うように調節された。1972年7月1日に第1回の「うるう秒」の調整が行われ、今回で26回目の実施となる。前回は2012年7月1日だった。NTTの時報サービス「117」では「プ・プ・プ・ポーン・ポーン」と「ポーン」が二回繰り返される。
「うるう秒」の調整は、地球の回転の観測を行う国際機関「国際地球回転・基準系事業」(IERS=International Earth Rotation and Reference Systems Service、フランス)が決定し、これを受けて世界で一斉に「時の調整」が行われる。

厳密に言えば、私たちの「時」はわずかの「狂い」があり、「正確」ではない。時々「調整」しなければならない。調整しなくてもよい技術があっても、あえて時にあわせて時計を調整する方法を選んでいる。

人類はまだ「時」を知らない。「時間」を知って「時」を失うよりも、「時」に「時間」を教えてもらうことのほうがずっと大切ではないか。

(†心のデボーション00195)

† 心のデボーション 00196

「かれらの心はこえふとりて脂のごとし」 詩篇119:70 明治元訳聖書

「彼らの心は脂肪のように鈍感です」 新共同訳聖書

 「脂肪のように鈍感」

どこかで会った人だと感じて親しそうに声をかけたら、まったく知らない人だと気づいて、おかしくもないのに笑ってしまった。人は羞恥心からも笑う。そんな時、笑いを引き受けて「あなたも私の友人に似ています」などと、こちらの羞恥心を和らげてくれると本当に救われる。

最後まで固い顔で見つめられると、笑いは行き場を失い、「物笑いの種」にされたと感じる。

心が「脂肪のように鈍感」になり、恥じらいを理解できなくはなりたくないものだ。

(†心のデボーション00196)

† 心のデボーション 00197

「たとひわれ死のかげの谷をあゆむとも禍害(わざはい)をおそれじ なんぢ我とともに在(いま)せばなり なんぢの笞(しもと)なんぢの杖われを慰む」 詩篇23:4 明治元訳聖書

「わたしは死の影の谷を歩む時でさえ、災いを恐れない、あなたがともにおられるから。あなたの杖、あなたの牧杖こそ、わたしを安心させる」 フランシスコ会訳聖書

 「わざわいの谷」

「死の影の谷」には危険な獣が棲んでいて、羊をねらう。それは「わざわいの谷」であった。

わざわいへの予感は足をすくませ、心を暗くする。

「わざわいの谷」では立ち止まらないことだ。歩き続けて、通過してしまえば「緑の牧場」に出る。

「わざわいの谷」で幸いなのは、私の手を強く握り、引いてくださる主のぬくもりが感じられることだ。

(†心のデボーション00197)

† 心のデボーション 00198

「又キリストの汝らを愛し、我らのために己を馨しき香の献物とし犧牲として、神に献げ給ひし如く、愛の中をあゆめ」 エペソ5:2 大正文語訳聖書

「また、愛のうちに歩みなさい」 新改訳聖書

 「犠牲の愛」

雨の夜、約束の場に現れない彼を傘もささずに待ち続けるのが愛だろうか。相手から冷たくされればされるほどやさしくなろうとする。しかし、その愛には怒りが隠されていないか。

むくわれないのはわかっているのにそれを止めようとしないのは、自分が愛されていないという事実を知るのが怖いのかもしれない。

勇気を出して現実を認めるのも愛である。怒りの手段としての愛は人も自分も傷つけ、疲れさせる。

(†心のデボーション00198)

† 心のデボーション 00199

「而して此夜その肉を火に炙て食ひ又酵いれぬパンに苦菜をそへて食ふべし」 出エジプト12:8 明治元訳聖書

「そしてその夜、肉を火で焼いて、酵母を入れないパンと苦菜とともに、それを食べる」 フランシスコ会訳聖書

 「タンポポを添えて」

過ぎ越しの日には羊の肉と種なしパンに苦菜を添えて、大急ぎで食べるのがイスラエルの習わしだった。苦菜はエジプトでの苦悩を忘れないためのもので、タンポポなどが用いられた。

過去の失敗や苦悩は一日も早く忘れたいものだ。しかし、過去の苦しさを味わうことも必要である。年に一度は食卓にタンポポを添えてみるのも良いかもしれない。ほろ苦さは黙って味わいたい。

(†心のデボーション00199)

† 心のデボーション 00200

「是に於てヱホバ神アダムを熟く睡らしめ睡りし時其肋骨の一を取り肉をもて其處を填塞たまへり」 創世記2:21 明治元訳聖書

「そこで神である主が、深い眠りをその人にくだされたので彼は眠った」 新改訳聖書

 「深い眠り」

アダムが深い眠りに落ちている間に、エバとの出会いが準備されている。

神が与えられる「深い眠り」には大切な意味がある。人が最も不活発な時に、神は働かれる。

活動ばかりでなく、不活発にも豊かさと深まりがある。何もしないことが、何よりも創造的な行為であることもある。

新しい出会いや変容は「深い眠り」の後でおこるのかもしれない。

(†心のデボーション00200)

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