心のデボーション019

デボーション1
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† 心のデボーション 00181

「イエス之を聞きて人を避け、其處より舟にのりて寂しき處に往き給ひしを群衆ききて町々より徒歩にて從ひゆく」 マタイ14:13 大正文語訳聖書

「イエスは、それを聞かれると、小舟でひそかにそこから寂しい場所へと立ちのかれた。けれども群衆はそれを聞くと、町を出て陸路を<歩いて>彼のあとに従った」 詳訳聖書

 「自分の居場所」

ネイティブ・アメリカンの成人式の儀式に「自分の場所を見つける」というのがある。父親は成人する子どもを夜の山につれて行き、「自分に心地よい場所を見つけて一晩すごしなさい」と告げて別れる。

成人になるには、自分で自分の居場所を見つけなければならない。そこは「寂しき處」であり、魂が疲れを癒す場所である。

「寂しき處」のない人生は居心地がよくない。

(†心のデボーション00181)

† 心のデボーション 00182

「なんぢは祈るとき、己が部屋にいり、戸を閉ぢて隱れたるに在す汝の父に祈れ。さらば隱れたるに見給ふなんぢの父は報い給はん」 マタイ6:6 大正文語訳聖書

「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」 新改訳聖書

 「三分の二ぐらいを埋める」

白洲正子さんは「庭石は三分の二ぐらいを地下に埋めないと、落ち着きがでない」と言います。(白洲正子 『ほとけさま』)

行為も思いも、「三分の二ぐらいを地下に埋める」のがちょうどよい。それを忘れて、全部を見せようとするので、安定のないものになる。

(†心のデボーション00182)

† 心のデボーション 00183

「ヱホバ我を救ひたまはん われら世にあらんかぎりヱホバのいへにて琴をひきわが歌をうたはん」 イザヤ38:20 明治元訳聖書

「主は、私を救ってくださる。私たちの生きている日々の間、主の宮で琴をかなでよう」 新改訳聖書

 「風のため息」

「風鳴琴 wind harp (「アイオリアン ハープ aeolian harp ともいう。「アイオリアン」は「風のため息のような」の意味)」は風の通り道に置くと風が音楽を奏でるという。

ドイツのある貴族が城の塔と塔の間に弦をはって「風鳴琴」をつくった。夏の無風の時期は音をださなかったが、秋になり微風が吹くと、琴は微かに鳴り始め、冬の風が吹くと壮大な音楽を奏でたという。(M・R・ディハーン『日ごとの糧』)

聖霊の風はどのような音を奏でるのだろうか。耳を澄ませる。

(†心のデボーション00183)

† 心のデボーション 00184

「なんぢの荷(に)をヱホバにゆだねよ さらば汝をささへたまはん」 詩篇55:22 明治元訳聖書

「あなたの重荷を主に委ねよ。主は支えてくださる。主は正しい人が揺らぐのを決して許されない」 フランシスコ会訳聖書(詩篇55:23)

 「計らいを放棄する」

急激な変化が良い結果をもたらさないことはよく知られている。しかし、穏やかなやり方が必ず良いとも限らない。その思いやりが、むしろ相手をつらいところに追いつめることもある。

詩人はここで、自分の「計らい」を放棄する。「ゆだねる」は、重荷を主の「計らい」に放置することである。

その後は、そこから始まることを注意深く見守ればよい。「計らい」を捨て置くと、神の「計らい」が働く。

(†心のデボーション00184)

† 心のデボーション 00185

「凡て勞する者・重荷を負ふ者、われに來れ、われ汝らを休ません」 マタイ11:28 大正文語訳聖書

「すべて勞する者、また重荷を負へる者は我が許に來れ、さればわれ汝を休ましめん」  永井直治訳聖書

 「重荷の割り当て」

「なんぢの荷(に)をヱホバにゆだねよ さらば汝をささへたまはん」 詩篇55:22 明治元訳聖書

へブル語「荷」は「くじ」の意味で、その人に割り当てられたもののこと。

人にはそれぞれに割り当てられた「重荷」がある。私に「割り当てられた方」に委ねつつ、負わせていただく。

(†心のデボーション00185)

† 心のデボーション 00186

「なんぢは我が子なり、われ今日なんぢを生めり」 使徒13:33 大正文語訳聖書

「あなたはわたしの子、わたしは今日あなたを産んだ」 新共同訳聖書

 「われ今日なんぢを生めり」

作家の大江健三郎さんは子どものころ、強い雨の中、森に入り、発熱し、翌々日、発見され、医者からもう手当の方法も薬もないと言われた。

枕元に母がおり、小さな声で尋ねた。「お母さん、僕は死ぬのだろうか」。すると母は「私は、あなたが死なないと思います。死なないようにと願っています」、「もしあなたが死んでも、私がもう一度、産んであげるから、大丈夫」と言う。かさねて「けれども、その子どもは、いま死んでゆく僕とは違う子どもでしょう」と尋ねると、「いいえ、同じですよ。私が生まれて、あなたがいままで見たり聞いたりしたこと、読んだこと、自分でしてきたこと、それら全部新しいあなたに話すことになるのだから、二人の子どもはすっかり同じですよ」と答えたという。それで大江少年は「なんだかよくわからないと思っていたが、それでも本当に静かな心になって眠った。そして翌日から回復していった。 (大江健三郎『自分の木の下で』)

「主はあなたを生み、あなたを造り、あなたを堅く立てられてたあなたの父ではないか」 申命記32:6 口語訳聖書

神は私を「生み」、「私」の物語を新しい私に全部話して聞かせてくださった。

(†心のデボーション00186)

† 心のデボーション 00187

「願くはなんぢらの心とこしへに生んことを」 詩篇22:26 明治元訳聖書

「いつまでも あなたがたの心に喜びあれ」 フランシスコ会訳 (昭和43年版)

 「あなたがたの心に喜びあれ」

「いつまでも あなたがたの心に喜びあれ」。この「心」は「神を尋ね求め、賛美する心」のことである。

いのちあるところに喜びあり。

あなたがたの心がいつまでも生きますように。

(†心のデボーション00187)

† 心のデボーション 00188

「ここにヘロデ、博士たちに賺(すか)されたりと悟りて」 マタイ2:16 大正文語訳聖書

「さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った」 新共同訳聖書

  「危険な怒り」

「だます ἐμπαίζω  エムパイゾー empaizō {emp-aheed‘-zo}」は「ἐν 中で + παίζω 遊ぶ、戯れる、子どものように遊ぶ」で「あざける、嘲弄する、ばかにする」こと。

英語 mock はラテン語 muccare 軽蔑をあらわす「鼻をぬぐう」動作から「あざける、ばかにする、欺く」の意味である。(ラテン語 mucus は「鼻汁」) mocking は「ものまね鳥」のことで他の鳥の鳴き声を巧みに真似る。相手の仕草を真似てからかうの意味になった。

博士たちに「からかう」つもりはなかったが、ヘロデは「あざけられた」と受け取った。

ヘロデの怒りは、すべてのことを思い通りにできると信じた、その子どもじみた滑稽に気づいたことへの誤魔化しである。この怒りほど危険なものはない。

(†心のデボーション00188)

† 心のデボーション 00189

「われヱホバなり 我ははじめなり終なり」 イザヤ41:4 明治元訳聖書

「わたし、主こそ初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ」 新改訳聖書

 「天を仰げば始め有り」

「仰天有始 觀物無吾」五浦釣徒 (茨城県天心記念五浦美術館)

天を仰げば始め有り、物を観るに吾無し(自我は消える)。「釣徒」は五浦に住んだ岡倉天心の雅号で、明治41年から晩年まで使われた。

岡倉天心が六角堂で海を見ながら一椀の茶をたて、飲み干したのは何であったのだろうか。

(†心のデボーション00189)

† 心のデボーション 00190

「驕傲(たかぶり)きたれば辱(はぢ)も亦きたる謙(へりく)だる者には智慧あり」 箴言11:2 明治元訳聖書

「高ぶりが来れば、恥もまた来る。知恵はへりくだる者とともにある」 新改訳聖書

 「へりくだる者の知恵」

人にばかにされたくなくて、必要以上に頑張り、それで疲れてしまうこともある。

ばかになれる人は、人からばかにされないという。問題はどうしたら、そういう賢さを手に入れられるかであるが、特別なことをする必要はない。ありのままの自分になればそれでよい。

(†心のデボーション00190)

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