† 心のデボーション 00171
「又なにゆゑ衣のことを思ひ煩ふや。野の百合は如何にして育つかを思へ、勞せず、紡がざるなり」 マタイあ6:28 大正文語訳聖書
「着る物のことをなぜ思い煩うのか。野のゆりがどのように育つかをよく見なさい。ほねおることも、紡ぐこともしない」 フランシスコ会訳聖書
「へメロカリス」
「へメロカリス」はユリ科の花(学名:Hemerocallis ワスレナグサ科)で、別名「デイリリー」のように一日でしおれてしまう。「へメロカリス」はギリシャ語の ἡμέρα ヘーメラ「一日」+ χὰρις カリス「恩寵」で、「一日の美」と呼ばれる。(ニッコウキスゲはその仲間である)
その日だけに咲く恩寵がある。「へメロカリス」はその日だけのもの。次の日には別の「へメロカリス」が花開く。
(†心のデボーション00171)
† 心のデボーション 00172
「ヘロデ死にてのち、視よ、主の使、夢にてエジプトなるヨセフに現れて言ふ」 マタイ2:19 大正文語訳聖書
「ヘロデが死ぬと、見よ、主の使いが、夢でエジプトにいるヨセフに現れて、言った」 新改訳聖書
「ヘロデの死の知らせ」
「ヘロデの死」の情報は、直ちにエジプトに住むユダヤ人仲間によってヨセフに知らされたはずである。世界に散ったユダヤ人は、「ヘロデ」についての情報を無視することなど出来なかった。
ヘロデの死の情報は「夢」によってもヨセフに伝えられた。それは仲間の情報と同じものであった。しかし、ヨセフにとっては仲間が伝えること以上の意味をもった。仲間の情報はヨセフを安堵させたが、神の知らせはヨセフに行動をおこさせた。
(†心のデボーション00172)
† 心のデボーション 00173
「かれら言ふ『ユダヤのベツレヘムなり』」 マタイ2:5 大正文語訳聖書
「彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています」 新共同訳聖書
「パンの家」
「ベツレヘム Βηθλέεμ 」はヘブル語で「パンの家」の意味。ベツレヘムは麦のとれる肥沃な土地であったところから「パンの家」と呼ばれた。ここでイエスはお生まれになった。
ブラジルのリオデジャネイロの丘の斜面には「ファベーラ」と呼ばれるスラム街が広がっている。「ファベーラ」は「神の街」という意味である。極度に貧しい人々の街で麻薬組織に支配される無法地帯である。切り立った丘の頂上に「コルコバードのキリスト像」が両手を左右に広げて街をみおろしている。リオデジャネイロは「キリストが見守る街」という意味であるという。(ブラジル全土には6300箇所ものファベーラがある)
「パン」の問題は現代も解決しないままに深刻さを増している。「ファベーラ」が「ベツレヘム パンの家」と呼ばれる日まで、我々は「ファベーラ」を「神の街」と呼ぶことを止めることはしない。
(†心のデボーション00173)
† 心のデボーション 00174
「かれら星を見て、歡喜に溢れつつ」 マタイ2:10 大正文語訳聖書
「されば彼等は星を見て、一方ならず大いなる喜びをもて喜べり」 永井直治訳聖書
「歡喜に溢れつつ」
「歡喜」の「歡」は口をそろえて声をあわせること。マギたちには「からだを曲げ、にぎやかに声をあわせて喜ぶ」友がいた。これもまた、神に導かれる者の幸せではあるまいか。
(†心のデボーション00174)
† 心のデボーション 00175
「然(され)ば悔改(くいあらため)に符(かな)ふ果(み)を結(むす)べよ」 マタイ3:8 明治元訳聖書
「然れば改心の相當なる果を結べよ」 ラゲ訳聖書
「改心の相當なる果」
「果(み)」は「成長したあげくに実るもの」、「事柄が進んで生じたもの」の意味である。「悔い改め」はすぐに「果(み)」とはならない。「悔い改め」の成長というものがあり、「悔い改め」が進むのでなければならない。
他の訳では「果(み)」は「実」の漢字があてられる。「実」は「實」であり、「宀 やね」+「周 いっぱい」+「貝 たから」で「家の中に財宝を満たす」こと。
「悔い改めの実(實、果)」とは「悔い改め」が進み、その結果、内に尊きものが欠けなく満ち、内容で一杯になることである。
(†心のデボーション00175)
† 心のデボーション 00176
「さらば凡て我がこれらの言をききて行ふ者を、磐の上に家をたてたる慧き人に擬へん」 マタイ7:24 大正文語訳聖書
「以上のわたしの言葉を聞いて実行する者は皆、岩の上に家を建てた賢い人にたとえられる」 フランシスコ会訳聖書
「反芻」
預言者エゼキエルはイスラエルの家に遣わされる前に、「巻物を食べよ」と神に導かれる。
「我にいひ給ひけるは人の子よわが汝にあたふる此卷物をもて腹をやしなへ膓にみたせよと我すなはち之をくらふに其わが口に甘きこと蜜のごとくなりき」 エゼキエル3:3 明治元訳聖書
「巻物」は神のことばであり、それは「甘きこと蜜のごとく」であった。
牛や羊など反芻動物は四つの胃を持ち、一度飲み込んだ食べ物を再び口に戻して咀嚼を繰り返す。
「これらの言をききて行ふ者」とは、神の言葉を、一度は飲み込み、再び口に戻して、咀嚼を繰り返す者のことかもしれない。反芻のための「四つの胃」が欲しいものだ。
(†心のデボーション00176)
† 心のデボーション 00177
「凡て勞する者・重荷を負ふ者、われに來れ、われ汝らを休ません」 マタイ11:28 大正文語訳聖書
「労苦する人、重荷を負う人は、すべて私のもとに来るがよい。私は、あなたたちを休ませよう」 バルバロ訳聖書
「待つ力」
「待ち草臥(くたび)れる」の「草臥(くたび)れ」は『詩経』から「疲れて草に臥す」の意味である。「年をとって人生に疲れる」をあらわすこともある。その人は、長く待ち、待つことに体力を消耗し、それ以上動くことができずに、草に臥すのかもしれない。イエスはそうした人を招かれる。
イエスのもとで休んだら、また待とう。「待つ力」が回復したのだ。
(†心のデボーション00177)
† 心のデボーション 00178
「さらば食ふにも飮むにも何事をなすにも、凡て神の榮光を顯すやうにせよ」 Ⅰコリント10:31 大正文語訳聖書
「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい」 新改訳聖書
「正しく食べ、飲む」
ヒポクラテス(紀元前460~357)の格言に「食べ物で治せない病気は医者でも治せない」とある。
健康を保つ最善の方法は正しく食べ、飲むことである。貧しく生きる者に神の栄光が現される。
(†心のデボーション00178)
† 心のデボーション 00179
「さらば食ふにも飮むにも何事をなすにも、凡て神の榮光を顯すやうにせよ」 Ⅰコリント10:31 大正文語訳聖書
「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい」 新改訳聖書
「スイスのパンはおいしくない」
スイスのパンはおいしくないという。スイスではその年に収穫した小麦は一年間倉庫に備蓄し、パンにして食べるのは前年度に収穫した古い小麦だからというのがその理由である。
耕作地の少ないスイスでは、食料を自給するために味を後回しにする。その生き方は古くて新しい。
食料を自給できない国は危うい。
(†心のデボーション00179)
† 心のデボーション 00180
「われはシャロンの野花 谷の百合花なり」 雅歌2:1 明治元訳聖書
「私はシャロンのサフラン、谷のゆりの花」 新改訳聖書
「好文木(こうぶんぼく)」
昔、中国では梅の木を「好文木(こうぶんぼく)」と呼んだ。晋の武帝が文学に親しまれると、宮苑の梅の木の花が開き、よい香りを放った。しかし、怠られると萎れたという故事に依る。
「御言葉」は「シャロンの野花 谷の百合花」である。親しむとよい香りを放ち、怠ると萎れる。
「感謝すべきかな、神は何時にてもキリストにより、我らを執へて凱旋し、何處にても我等によりてキリストを知る知識の馨(かをり)をあらはし給ふ」 Ⅱコリント2:14 大正文語訳聖書
(†心のデボーション00180)
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