心のデボーション016

デボーション1
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† 心のデボーション 00151

「聲ラマにありて聞ゆ、 慟哭なり、いとどしき悲哀なり」 マタイ2:18 大正文語訳聖書

「ラマで声がする。泣き、そして嘆き叫ぶ声。ラケルがその子らのために泣いている。ラケルは慰められることを拒んだ。子らがもういないからだ」 新改訳聖書

 「葡萄の涙」

春に、剪定されたぶどうの枝先から樹液が落ちるのを「葡萄の涙」という。スペインでは収穫したぶどうは長靴をはいた足で踏み潰し、「ラグリマ lagrima 涙」と呼ばれる最初の糖度の高いブドウ・ジュースを絞り出す。男たちはそれを飲みながら作業をする。これがスペインの「葡萄の涙 Lagrimas de uvas」である。

「葡萄の涙」は厳寒の冬を過ごして、眠っていたぶどうが活動をはじめて流す苦しみの涙であり、やがてそれは甘いぶどうに凝縮される。ぶどうの樹が流した涙は糖度の高いぶどう液になる。

子を失った母の流す涙は、いつ糖度の高いぶどう酒に醸成されるのだろか。

(†心のデボーション00151)

† 心のデボーション 00152

「ヱホバかくいひ給ふ汝の聲を禁(とどめ)て哭(なく)こと勿れ汝の目を禁(とどめ)て涙を流すこと勿れ汝の工(わざ)に報(むくい)あるべし彼らは其敵の地より歸らんとヱホバいひたまふ 汝の後の日に望あり兒子(こども)等その境に歸らんとヱホバいひたまふ」 エレミヤ31:16~17 明治元訳聖書

「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰ってくる。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰ってくる」 新共同訳聖書

 「後の日に望(のぞみ)あり」

マタイはヘロデに我が子を殺害されて悲しむベツレヘムの母親たちに「ヱホバかくいひ給ふ汝の聲を禁(とどめて哭(なく)こと勿れ汝の目を禁(とどめ)て涙を流すこと勿れ」、「兒子(こども)等その境に歸らんとヱホバいひたまふ」とエレミヤの言葉を語る。

エレミヤは「後の日」に殺害された子どもたちが復活し、いのちが回復すると告げる。

「汝の後の日に望(のぞみ)あり」エレミヤ31:17。

そして、マタイは「後の日の望み」がイエスであることを示す。

「後の日に望み有り」と信じて、望みなき日々を生きる。

(†心のデボーション00152)

† 心のデボーション 00153

「三根(みこ)の繩は容易(たやす)く斷(き)れざるなり」 伝道4:12 明治元訳聖書

「三つよりの糸は切れにくい」 新共同訳聖書

 「三つよりの糸」

撚糸になる前の糸を何と呼ぶのかは知らない。それは指の力で軽く引くだけで切れてしまう。3本まとめても同じである。だが、糸によりを与え、撚った三本を一本に撚りあわせれば、指の力で簡単には切れない強さになる。

「三根(みこ)の繩」の強さは、「撚り」から生まれる。人が三人いても何事でもない。だが撚りあわせられれば、並みではない強さが生み出される。人が「撚られ」、人と「撚られる」とはどういうことだろうか。漢字で「撚る」は「縁る」とも書く。

(†心のデボーション00153)

† 心のデボーション 00154

「幸福なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり」 マタイ5:3 大正文語訳聖書

「福(さいはひ)なる者は靈に於て貧しき者[なり]。そは天國は彼等のものなればなり」 永井直治訳聖書

 「本物の乞食」

山頭火は「乞食にも見放された家、そういう家がある」と日記に書く。その家は「貧富にかかわらず」どこにもあって、「そこは人間らしからぬ人間が住んでいる家だ、私も時々そういふ家に立ったことがある」という。(山頭火『日記一』)

心の貧しい者は乞食に見放されたりはしない。人間らしい人間は決して「貧しさ」を手放しはしない。本物の乞食がいなくなると、本物の家もわからない。

(†心のデボーション00154)

† 心のデボーション 00155

「ヱホバいにしへ其御わざをなしそめたまへる前に その道の始として我をつくりたまひき」 箴言8:22 明治元訳聖書

「主は、その働きの初穂として、その業の初めに、わたしを造られた」 フランシスコ会訳聖書

 「御業の初め」

私が「私」という存在のあることに気づき、それに近づこうとするのは、神が何かの御業をおこされようとされているときである。神は御業をなされる前に、まず、その始めとして「私」を創られる。ここに「私とは何か」という問いを解く鍵がある。

(†心のデボーション00155)

† 心のデボーション 00156

「ナザレといふ町に到りて住みたり。これは預言者たちに由りて、『彼はナザレ人と呼ばれん』と云はれたる言の成就せん爲なり」 マタイ2:23 大正文語訳聖書

「この方はナザレ人と呼ばれる」 新改訳聖書

 「朦朧体」

明治時代後半期に岡倉天心の指導の下、横山大観、菱田春草等によって、洋画の外光派に影響をうけ、それまでの伝統的な日本画の線描技法を用いず彩描に絵の具をつけず水で濡らしただけの空刷毛でぼかし、空気や光などを表現し、新しい日本画の表現を生み出した。当時の批評家からは「朦朧体」(ぼんやりとしてはっきりしない)と揶揄され、認められなかった。しかし、その後「朦朧体」は近代日本画に革新をもたらすものとして高い評価を受けていくのである。

イエスが悪意をもって「ナザレ人」と呼ばれたように、新しきものは、いつも悪意ある批評にさらされる。だが、悪口はそのままにしておくと、悪口そのものが意味あるものに変わる。

(†心のデボーション00156)

† 心のデボーション 00157

「農夫たねをまかんに何で日々たがへし日々その地をすき その土塊をくだくことのみを爲んや」 イザヤ28:24 明治元訳聖書

「種を蒔くために、耕す者は一日中耕すだけだろうか。土を起こして、畝を造るだけだろうか」 新共同訳聖書

 「農夫を指図するのは神」

日本では年に立夏、立秋、立冬、立春の直前の18日間を「土用」という。「土用用事」の略で、土公神(どくじん)という神がさかんに動く時期で、この間に土をいじると土公神を傷つけ、怒りをかうので、土を掘り返すようなことは慎む。井戸を掘ったり、農耕はしない。土に種が発芽するので耕す時ではない。

土を耕し、種を蒔く人は、「時」を知る。

「農夫を指図するのは神である」(イザヤ28:26 新改訳聖書)。

(†心のデボーション00157)

† 心のデボーション 00158

「汝らみな心を同じうし、互に思ひ遣り」 Ⅰペテロ3:8 大正文語訳聖書

「最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい」 新改訳聖書

 「互に思ひ遣り」

「互に思ひ遣り συμπαθής スユムパテース sumpathēs {soom-path-ace‘}」は「σύν 共に + πάσχω  感じる」である。「πάσχω」には「経験する」の意味もある。相手の苦痛や不快を「共に感じ、共に経験する」ことである。さらに、苦しみばかりでなく楽しみや快さを受け取るのも「同情」である。

「我らの大祭司は我らの弱を思ひ遣ること能はぬ者にあらず」へブル4:15は、「キリストは私たちの弱さ、楽しみや快さを受け取り、共に経験することのできない御方ではない」と読むこともできる。

(†心のデボーション00158)

† 心のデボーション 00159

「ここに王その右にをる者どもに言はん「わが父に祝せられたる者よ、來りて世の創より汝等のために備へられたる國を嗣げ」 マタイ25:34 大正文語訳聖書

「さあ、わたしの父に祝福された人たち、世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい」 新改訳聖書

 「祝せられたる者」

空腹の人に一切れのパンを、渇く人に一杯の冷たい水をさし出す人が「祝せられたる者」と呼ばれる。「祝せられたる者」には「幸せな者」という意味が含まれている。

インドでは施しをした人が「ありがとう」と言う。感謝するのは施しを受けた人ではなく、する側である。そのようにしてさし出される一杯の冷たい水ほど人を幸せにしてくれるものはない。

しかし、一方、そのインドには、我が子が「バクシーシ 施し」を受けて生きていけるように、子どもの手や足を切断する親もいるという。その方が施しを受けやすく、子どもも幸せになれる「親の愛」だという。

この子どもに施しをする人は何に対して「ありがとう」を言えばよいのだろうか。

(†心のデボーション00159)

† 心のデボーション 00160

「然(され)ば悔改(くいあらため)に符(かな)ふ果(み)を結(むす)べよ」 マタイ3:8 明治元訳聖書

「悔い改めにふさわしい実を結べ」 新共同訳聖書

 「悔改に符(かな)ふ」

「悔い改めに相應(ふさは)しい」を明治元訳聖書は「悔改(くいあらため)に符(かな)ふ」とする。「符」は割符のことで、竹札を二つに割り、その片方をそれぞれが所有し、後日、両片がぴたりとあうことをもって証拠とした。

バプテスマのヨハネは「悔い改め」とぴたりと合う「果」を結べと述べる。

「悔い改め」と同量の「実」を結ぶこと。我々の「実」はいつも「悔い改め」の内容に対して少なすぎはすまいか? それでは「割符」は合わない。

(†心のデボーション00160)

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