心のデボーション015

デボーション1
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† 心のデボーション 00141 

「然はあれど神は矢にてかれらを射たまふべし かれらは俄かに傷をうけん」 詩篇64:7 明治元訳聖書

「神は彼らに矢を射かけ、突然、彼らは討たれるでしょう」 新共同訳聖書(詩篇64:8)

 「射手の名手」

攻撃する者は「毒を含む言葉を矢としてつがえ」、無垢な人を射ようとして構える。(詩篇64:4~5)

「毒を含む言葉の矢」は思わぬところから飛んでくる。これをふせぐ手立てはない。

しかし、「神は彼らに矢を射かけ、突然、彼らは討たれる」。彼らとてこれをふせぐ手立てはない。

ただ、わからないのは、無垢な人の心にも「毒を含む言葉の矢」を絞る射手の名手がいることだ。

(†心のデボーション00141)

† 心のデボーション 00142 

「之に言たまはく汝等わが言を聽け汝らの中にもし預言者あらば我ヱホバ異象において我をこれに知しめまた夢において之と語らん」 民数記12:6 明治元訳聖書

「聞け、わたしの言葉を。あなたたちの間に預言者がいれば、主なるわたしは幻によって自らを示し、夢によって彼に語る」 新共同訳聖書

 「バク枕」

江戸時代に、箱枕にバクの絵を描く「バク枕」というのが流行した。悪い夢はバクに食べさせて、いい夢だけを見ようというわけである。

しかし、「悪い夢」にも深い意味があり、バクに食わせるにはもったいない。

人は夢というもう一つの世界をもっている。それは私の知る世界よりもはるかに知恵にみちている。

ただ夢を食うだけのバクに夢の意味はわかるまい。

(†心のデボーション00142)

† 心のデボーション 00143 

「是はその施濟(ほどこし)の隱れん爲なり。さらば隱れたるに見たまふ汝の父は報い給はん」 マタイ6:4 大正文語訳聖書

「あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます 新改訳聖書

「貧者をあはれむ者はヱホバに貸すなり その施濟はヱホバ償ひたまはん」箴言19:17

 「施しの報い」

「施し」という言葉には、するのも、されるのも嫌な響きがある。「施し」の最大の罪はいつまでもその行為を忘れずに覚えていることである。「記憶された施し」は神への貸しとして償いを待つ卑しき心である。

しかし、神は「施し」とも言えない貧しい行為に償いをせずにはおかれない。神が私に報われる最大のことは、「施しをした」という思いをすっかり忘れさせてくださることである。

(†心のデボーション00143)

† 心のデボーション 00144 

「かつ寶の匣(はこ)をあけて、黄金・乳香・沒藥など禮物を献げたり」 マタイ2:11 大正文語訳聖書

「そして家の中に入ってみると、幼な子は母マリアとともにおられた。博士たちはひれ伏して幼な子を拝んだ。そして宝箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた」 フランシスコ会訳聖書

 「無償の贈り物」

東の博士たちは「寶の匣(はこ)」をあけて黄金と乳香と没薬をささげた。それらは「新しく生まれた王」への貢物であった。だが、これらの値高き品々は、続くイエスのエジプト避難と滞在の費用として貧しいマリヤとヨセフを助けたであろうことは容易に想像できる。

「贈り物 δῶρον ドーロン dōron {do‘-ron}」は「無償の贈り物、無条件でささげる、理由なしにささげる、見返りを期待しない贈り物」の意味である。

「無償の行為」は、目的以外のところで役割を果たす。神にささげられたものが、意味なく失われることはない。

(†心のデボーション00144)

† 心のデボーション 00145 

「汝は食ひて飽き汝の神ヱホバにその美地(よきち)を己にたまひし事を謝すべし」 申命記8:10 明治元訳聖書

「あなたは食べて満足し、良い土地を与えてくださったことを思って、あなたの神、主をたたえなさい」 新共同訳聖書

 「美地(よきち)」

私は神より「今日」という、まことに「美地(よきち)」を賜った。この地の味わいはいかがであろうか。さあ今日の美しき「地のもてなし」を受けるとしよう。

(†心のデボーション00145)

† 心のデボーション 00146 

「ヨセフ起きて、夜の間に幼兒とその母とを携へて、エジプトに去りゆき」 マタイ2:14 大正文語訳聖書

「約瑟遂起、夜間挈嬰與其母、而往埃及」 漢訳聖書

 「手を携へて」

「幼兒とその母とを携へて」は漢訳聖書では「挈 けい」で「刃物で切れ目をつけた所にカギや手をひっかけて引っぱる」こと。ヨセフは夜の道をマリヤとイエスの手をしっかり握り、引っぱるようにしてエジプトに逃れたのである。

東日本大震災のとき津波で、親の手を握っていたが、手を離してしまった人がいた。そのため親を亡くした人は「あの時、手を離さなければ」と深い後悔の念にとらわれている。どれほど強く握っても、離れてしまういのちもある。

人がその手を引き助かるいのちも、手を引いたが失われるいのちもある。だが、神は双方の「いのち」を「挈(たづさ)へ往(ゆき)」給う。神はその手を離されることはない。

「あの時、離れてしまった手」は神が受け、引かれたのだ。引く手もなく逝かれたのではない。 
(†心のデボーション00146)

† 心のデボーション 00147 

「イスラエルの幼かりしとき我これを愛しぬ我わが子をエジプトより呼いだしたり かれらは呼るるに隨ひていよいよその呼者(よぶもの)に遠ざかり且もろもろのバアルに犠牲をささげ雕たる偶像に香を焚(たけ)り」 ホセア11:1~2 明治元訳聖書

「イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、わたしの子をエジプトから呼び出した。それなのに、彼らを呼べば呼ぶほど、彼らはいよいよ遠ざかり、バアルたちにいけにえをささげ、刻んだ像に香をたいた」 新改訳聖書

 「呼ぶ者の声」

神は「エジプト」のイスラエルを「呼ばれた」が、彼らは呼ばれれば呼ばれるほど、「その呼者(よぶもの)に遠ざかった」(ホセア11:2)。

神は私をあるべき「私」に呼ばれる。しかし、人は神が呼べば呼ぶほど、自分という存在から遠ざかり、己の偶像に香を焚く。

(†心のデボーション00147)

† 心のデボーション 00148 

「愛する者よ、自ら復讐すな、ただ神の怒に任せまつれ。録して『主いひ給ふ、復讐するは我にあり、我これに報いん』とあり」 ローマ12:19 大正文語訳聖書

「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが復讐する』と主は言われると書いてあります」 新共同訳聖書

 「復讐は我になし」

「復讐する最良の方法は相手と同じような者にならぬこと」(マルクス・アウレリュウス『自省録』)

アウレリュウスの復讐が成功するのは極めて稀である。そのつもりでいても、気がつけば自分が憎んだ相手と同

じ者になっている。

「復讐する ἐκδικέω エクディケオー」は「権利を擁護する」の意味。「神の怒りに任せる」とは、復讐に関する正当な権利を神に譲り、権利を放棄することである。

(†心のデボーション000148)

† 心のデボーション 00149 

「ここにヘロデ、博士たちに賺(すか)されたりと悟りて」 マタイ2:16 大正文語訳聖書

「さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った」 新共同訳聖書

 「賺(すか)される」

ヘロデは博士たちを「賺(すか)して」うまくやろうとしたが、自分が「賺(すか)された」と気づき激しく怒る。

「賺(すか)す」は「だまして高く買わせる」から「だます、なだめる」の意味。

「宥め賺す(なだめすかす)」は、相手の喜びそうなものを餌にして、より大きなものを手に入れようとする(だまして高く買わせる)姑息な手段である。子どもには効果があっても、大人には向かない。

最初にその手を使ったのはヘロデであったが、今や自分が「賺(すか)された」と思い込む。

ヘロデは自分が「虚仮にされた」と感じたのである。(虚仮 「虚」は「偽り」、「仮」は「実体のない」「で真実ではないこと」を意味する)

「宥め賺す(なだめすかす)」を弄んではならない。この感情にとらわれると真実が見えなくなる。

(†心のデボーション00149)

† 心のデボーション 00150 

「風は己が好むところに吹く、汝その聲を聞けども、何處より來り何處へ往くを知らず。すべて靈によりて生るる者も斯くのごとし」 ヨハネ3:8 大正文語訳聖書

「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くのかを知らない」 新改訳聖書

 「お助け風」

乗鞍岳の林道を歩くと溶岩石の積もったところに小さな「風穴」があり、岩の間から冷たい風が吹いてくる所がある。登山者にはありがたい冷風の吹き出し口である。これを「お助け風」という。岐阜県の蒲田川上流の左俣谷にもあり「左俣谷のお助け風」と呼ばれる。

「風 πνεῦμα (霊、聖霊)」は、思わぬところで気持ちの良い冷風を送ってくれる。急な岩場をあえぎながら歩く者への「お助け風」である。

(†心のデボーション00150)

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