心のデボーション014

デボーション1
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† 心のデボーション 00131

「ここにヘロデ密に博士たちを招きて、星の現れし時を詳細(つまびらか)にし」 マタイ2:7 大正文語訳聖書

「其時ヘロデ密に博士等を召して、星の現れし時を聞匡(ききただ)し」 ラゲ訳聖書

 「聞きただす」

「聞匡(ききただ)す」の「匡 きょう」は「わくの中に押し込めて形を直す」で「ただす」の意味。

ヘロデの「匡 きょう」はマギ達のもたらす情報を自分の都合のよい形に直して、利用しようとするものだった。

「聞匡(ききただ)す」は「匡座 きょうざ」(正しく座し)、「匡励 きょうれい」(支えはげまし)、互いに「匡諌 きょうかん」(悪い点をただす)ために「聞き」たい。

(†心のデボーション00131)

† 心のデボーション 00132

「彼らをベツレヘムに遣さんとして言ふ『往きて幼兒のことを細にたづね、之にあはば我に告げよ。我も往きて拜せん』」 マタイ2:8 大正文語訳聖書

「こう言ってベツレヘムへやった、「行って幼児の居所を丹念に捜し、見つけ次第、報告せよ。自分も行っておがみたいから」 塚本虎二訳聖書

 「丹念に」

「丹念に」の「丹」は「丹砂(たんしゃ)(辰砂(しんしゃ)とも言う)で、水銀と硫黄の化合物である。別名「賢者の石」とされ、朱色の顔料として、また貴重な薬として用いられた。日本では古来「丹(に)」と呼ばれる水銀の重要な鉱石鉱物であり、古墳の内壁や石棺の彩色や壁画にも使用された。

辰砂を見つけた者は巨利を得ることができた。そこから心を込めてものごとを行うことを「丹精」といい、注意深く丁寧に行うことを「丹念」といった。

ヘロデは東の博士にイエスを「丹念に(心を込めて、注意深く、丁寧に)」探すように命じた。

「丹砂(たんしゃ)」を求める者が慎重に山々を調べ廻るように、丹念にイエスを求める。

(†心のデボーション00132)

† 心のデボーション 00133

「彼ら王の言をききて往きしに、視よ、前に東にて見し星、先だちゆきて、幼兒の在すところの上に止る」 マタイ2:9 大正文語訳聖書

「彼らがヘロデ王のことばに送られて出発すると、なんと、前にのぼるのを見たその星が先に立って、幼児のいるところの上に止まった」 バルバロ訳聖書

  「王に聞く」

東の博士たちはヘロデの言葉を聞いて出かけて行く。(マタイ2:9) バルバロ訳「ヘロデ王のことばに送られて出発すると」。

「聞いて ἀκούω アクーオー」は「傾聴して」の意味。「傾聴」は「注意深く、丁寧に耳を傾ける」、自分の訊きたいことを訊くよりも、相手が話したいことを、真摯に聴くことである。

「陰険な王」にも傾聴し、行動する時がある。人はあらゆる「声」に聴く必要がある。しかし、それは一つの危機である。その時にも「星」は彼らを先導している。「王に聞く」にも「星の先導」がある。

(†心のデボーション00133)

† 心のデボーション 00134

「彼等(かれら)この星(ほし)を見て甚(いた)く喜(よろこ)び」 マタイ2:10 大正文語訳聖書

「されば彼等は星を見て、一方ならず大いなる喜びをもて喜べり」 永井直治訳聖書

 「甚(いた)く喜(よろこ)び」

「甚(いた)く喜(よろこ)び χαρὰν μεγάλην σφόδρα」の英語訳は「exceeding great joy」King James Version
で「限度を越えた、非常な、すばらしい」喜びである。 Weymouth New Testamentは「intense joy 激しい、激烈な、熱烈な」喜びと訳す。信じる者の聖霊による喜びである。

漢字の「甚」は「甘 (うまい物)」+「匹 (つれそう、つれあい)」で「とりわけ楽しい」こと。

星の一つに神の導きを見つけるのは、旨いものにありつくように嬉しい。

永井直治訳は「されば彼等は星を見て、一方ならず大いなる喜びをもて喜べり」である。

(†心のデボーション00134)

† 心のデボーション 00135

「ただしき神は人のこころと腎(むらと)とをさぐり知たまふ」 詩篇7:9 明治元訳聖書

「心とはらわたを調べる方、神は正しくいます」 新共同訳聖書

 「性格」

「性格・キャラクター character」という言葉は、ギリシャ語 カラクテール carakth,r「彫りつけられた印、刻印」から来たもので「特徴、特色」の意味である。

「はらわた」はヘブル語 ‎‎כִּל‏ְיָה キリヤハ kilyah {kil-yaw’} 「腎臓」で、比喩的には「憐れみの宿る所、感情の座」である。(LXX ギリシャ語 nefro,j ネフロス 「思い」)

人がまだ母の胎にある時に、神は人に「感情の座」を創られ、それによってそれぞれの人を「組み立て」られ、特色ある者としてその人となりを刻まれた。人を創られる神の業はそこで完了せず、人生の終りまで続く。

神が刻みつけられた性格を変えることはできないし、すべきことではない。大切なのは自分とは別の性格を求めることではなく、自身の性格を成熟させることである。

今の性格が年齢にふさわしいかどうかは自分の責任である。他にその責任を求めるのは間違いである。

(†心のデボーション00135)

† 心のデボーション 00136

「この故に、われ常に神と人とに對して良心の責なからんことを勉む」 使徒24:16 大正文語訳聖書

「こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています」 新共同訳聖書

 「責められることのない良心」

パウロは常に神と人に対して「良心の責めなからん」者であろうとする。

「責めなからん」は「ἀπρόσκοπος アプロスコポス aproskopos {ap-ros’-kop-os} 」で「躓きとならない、躓きの原因とならない」こと。

無責任なのは困るが、何もかも自分の責任にしてしまうのも問題である。何か不都合なことや、悪いことが起こるとすべて自分のせいだと考える。心に強い義務感や罪悪感があって、たえず自分が躓きの石となることを恐れるのである。

一つの出来事には多くの原因がある。その全体を明らかにしていくことが「責められるところのない良心」に生きる人の姿勢である。鋭過ぎる良心は、場合によっては問題からの逃げになる。

(†心のデボーション00136)

† 心のデボーション 00137

「彼等(かれら)この星(ほし)を見て甚(いた)く喜(よろこ)び」 マタイ2:10 大正文語訳聖書

「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」 新共同訳聖書

  「星を読み解く」

カーナビにまかせて運転すると、目的地にさえ行けるのならば、どの道をどのように通過するかは、どうでもよいと思えてくる。

目的地を知るということは、そこに至る道程を含めたものである。

東のマギ達は天の星の放つ光が指し示す地上の一点を読み解く能力をもっていた。現代の正確無比な機器一台と引換えに、天を見上げて星の放つぼんやりした光を読み解く力を失ってはなるまい。

(†心のデボーション00137)

† 心のデボーション 00138

「地は定形(かたち)なく曠空(むなし)くして黑暗(やみ)淵(わだ)の面(おもて)にあり神の靈水の面(おもて)を覆(おほひ)たりき」 創世記1:2 明治元訳聖書

「地はむなしく何もなかった。闇が深淵の上にあり、神の霊が水の上を覆うように舞っていた」 フランシスコ会訳聖書

 「舞いかける」

五月、ツバメの雛が物干し竿にとまった。親ツバメがその周りをぐるぐる回って見守っている。

神が天地を創造された時、地は形なく混沌としていた。神の霊が「淵(わだ)の面(おもて)を「覆って」いた。

「覆う」は「‎רחף ラカフ rachaph {raw-khaf’}」で「震える、羽ばたく、舞いかける、おおう」という意味である。

神は「定形(かたち)なき、曠空(むなし)き、黑暗(やみ)」の周りを、母鳥の雛鳥の周りを羽ばたくように舞いかけておられる。形あるものの現われを見守り給う。

「願くはわれを瞳のごとくにまもり汝のつばさの蔭にかくし」 詩篇17:8 明治元訳聖書

(†心のデボーション00138)

† 心のデボーション 00139

「わが幼兒(をさなご)よ、汝らの衷(うち)にキリストの形成るまでは、我ふたたび産(うみ)の苦痛(く

るしみ)をなす」 ガラテヤ4:19 大正文語訳聖書

「わたしの子らよ、キリストがあなた方のうちに形づくられるまで、再び、わたしは産みの苦しみを味わっているのです」 フランシスコ会訳聖書

 「アバクチの赤ちゃん」

1998年、岩手県のアバクチ洞穴遺跡から3~4歳くらいの幼児のほぼ全身骨格が発掘された。膝をかかえる形で、左手首に直径5ミリの貝の小玉69個をつなげた腕輪をつけていた。

両親は幼くして亡くなった我が子を、せめて、貝のブレスレットで飾ってやりたいと思ったのだろうか。発掘に当たった人々は「アバクチの赤ちゃん」と名づけ、今も「アバちゃん」という愛称で呼ばれている。

両親は我が子の「衷(うち)にキリストの形成り」、それをもって飾られることをこそ祈る。

(†心のデボーション00139)

† 心のデボーション 00140

「その謀略(はかりごと)によりてみづから仆(たふ)れしめ」 詩篇5:10 明治元訳聖書

「彼らの口は正しいことを語らず、舌は滑らかで、喉は開いた墓、腹は滅びの淵」 新共同訳聖書

 「墓無し」

今昔物語におろかなはかりごとをめぐらす男がいた。それを知った子が「はなかいことだ」と嘆く。

「はかない」は「墓無し」と書く。墓もなく、人々に忘れられるだけの存在という意味であろうか。綿密なはかりごとも、やがては朽ち果てる。そればかりでなく、はかりごとを巡らす者は「己のはかりごと」で倒れる。墓無い話である。

(†心のデボーション00140)

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