心のデボーション013

デボーション1
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† 心のデボーション 00121

「なんぢ心に罪人をうらやむ勿れ ただ終日ヱホバを畏れよ」 箴言23:17 明治元訳聖書

「あなたは心のうちで罪人をねたんではならない。ただ主をいつも恐れていよ」 新改訳聖書

 「罪人へのねたみ」

「うらやむ קנא カナー qana’ {kaw-naw’}」は「うらやむ」(口語訳)、「ねたむ」(新改訳)、「心を燃やす」(新共同訳)。

人がうらやむような「罪人」とは、罪を犯しながらも気にもとめない者のことであろう。許せないのは彼が罪を犯した自身を知らない(知ろうとしない)ことである。自分を知らずに生きていくことである。それを箴言は「罪人へのねたみ」という。つまりは、「ねたみ」の正体は「自分を知らずに生きたい」という思いが私にもあるということか。

(†心のデボーション00121)

† 心のデボーション 00122

「汝らその住をりしエジプトの國に行はるる所の事等を傚ひ行ふべからずまた我が汝等を導きいたるカナンの國におこなはるる所の事等を傚ひおこなふべからずまたその例に歩行べからず」 レビ記18:3 明治元訳聖書

「あなたたちがかつて住んでいたエジプトの国の風習や、わたしがこれからあなたたちを連れて行くカナンの風習に従ってはならない」 新共同訳聖書

 「俑(ヨウ)を作る」

中国では殷(いん)代から明代にわたって、死者と共に木製や土製の人形(=俑)を埋葬する風習があった。やがて、「俑(ヨウ)」は「殉死」という悪しき風習と結びつくようになった。孔子がこれを強く憎んだという故事から、善くないことを始めたり、悪例を作ったりすることを「俑(ヨウ)を作る」という。

エジプトやカナンの「風習」もまた「俑(ヨウ)」である。始まりは「善きもの」であるが、風習となるに及んで「俑(ヨウ)を作った」。

「俑(ヨウ)」を破壊しても無駄である。人が「俑(ヨウ)」をつくり、「俑(ヨウ)」が「俑(ヨウ)」を生み、そして「俑(ヨウ)」が人を作る。それが問題なのだ。

(†心のデボーション00122)

† 心のデボーション 00123

「愛は寛容にして慈悲あり。愛は妬まず、愛は誇らず、驕らず、 非禮を行はず、己の利を求めず、憤ほらず、人の惡を念はず」 Ⅱコリント13:4~5 大正文語訳聖書

「いらだたない、恨みをいだかない」 口語訳聖書

 「怨女曠夫(えんじょこうふ)」

「怨女曠夫(えんじょこうふ)」は適齢期になって能力はあるのだが結婚していない独身男女を指す言葉で、「怨女」は夫がいなくて恨む女性、「曠夫」は妻をもてなくて恨みを抱く男性をさす。

だが、男も女も自分を嘆かないことだ。恨みはそれとは別のところから来るものだ。

(†心のデボーション00123)

† 心のデボーション 00124

「わが患難わが辛苦をかへりみ わがすべての罪をゆるしたまへ」 詩篇25:18 明治元訳聖書

「御覧ください、わたしの貧しさと労苦を。どうかわたしの罪を取り除いてください」 新共同訳聖書

 「的外れ」

ギリシャ語で「罪」は「ἁμαρτία ハマルティア」で「的を外す」からくる言葉である。存在の的外れを「罪」と呼ぶ。しばしば、私たちは「罪」について「的外れ」な認識から、「的外れ」な悩みに苦しむことになる。いくら悔い改めても救われないのは、そのためである。「的外れ」な悩みは「的外れ」な「救い」を求める。

(†心のデボーション00124)

† 心のデボーション 00125

「われ瞽者をその未だしらざる大路にゆかしめ その未だしらざる徑をふましめ 暗をその前に光となし 曲れるをその前になほくすべし 我これらの事をおこなひて彼らをすてじ」 イザヤ42:16 明治元訳聖書

「目の見えな人を導いて知らない道を行かせ、通ったことのない道を歩かせる」 新共同訳聖書

 「未だしらざる大路」

目の不自由な者が「未だしらざる大路」を行く。彼は目が見えないが岩に足をとられることなく、穴にはまることもない。彼は「右にゆくも左にゆくもその耳に これは道なりこれを歩むべしと後邊にてかたる」(イザヤ30:21)を聞くからである。

「見えると言い張る者」には「未だしらざる大路」が見えない。その耳に何が聞こえているのだろうか。

(†心のデボーション00125)

† 心のデボーション 00126

「なんぢ御言を宣傳へよ、機を得るも機を得ざるも常に勵め、寛容と教誨とを盡して責め、戒め、勸めよ」 Ⅱテモテ4:2 大正文語訳聖書

「みことばを述べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい」 新改訳聖書

 「機を得るも機を得ざるも」

神学校で先輩から「出される食事と頼まれる説教はことわるな」と教えられた。だが、食事時に訪問すればあらぬ疑いをかけられるように、時を無視した説教が喜ばれることもない。

「機を得る」に時があり、「機を得ざる」に時がある。

(†心のデボーション00126)

† 心のデボーション 00127

「なんぢの耳をかたぶけて速かにわれをすくひたまへ 願くはわがためにかたき磐となり我をすくふ保障(まもり)の家となりたまへ」 詩篇31:2 明治元訳聖書

「私の身を隠す岩となり、逃れの固き城となられよ」 バルバロ訳聖書

「砦の岩、城塞となってお救いください」 新共同訳聖書

 「セラマレコテ(逃岩)」

ダビデはサウルと兵に追跡されマオンの荒野に逃れた。ダビデの隠れる岩場を追手の兵たちが囲んだ。だがそのときサウルのもとに使者が来てペリシテ人の侵入を告げた。それでサウルは急いで兵を引き返し、ダビデは難を逃れた。

ダビデはその場所を「セラマレコテ(逃岩)」と呼んだ。(Ⅰサムエル23 ~28章)

「セラマレコテ(逃岩)」では追われる者は守られ、追う者は追われる者になる。

(†心のデボーション00127)

† 心のデボーション 00128

「凡ての善き賜物と凡ての全き賜物とは、上より、もろもろの光の父より降るなり。父は變ることなく、また囘轉の影もなき者なり」 ヤコブ1:17 大正文語訳聖書

「父には移り変わりや、移り行く影はありません」 新改訳聖書

 「十二時虫」

中国に一日十二回体の色を変えるトカゲがおり、「十二時虫」と呼ばれる。(「易」という漢字は十二時虫の象形文字とされる。しかし、そういうトカゲがいるのか定かではない)

一日は十二刻であったことから、「十二時虫」は一刻ごとに、変化にあわせて体の色を変えたのである。

時の変化に応じて自らを変えることができなければ、変わらぬものを手にすることはできない。

だが、「十二時虫」の元の色はどんなものか知りたい気もする。

(†心のデボーション00128)

† 心のデボーション 00129

「言を寡くする者は知識あり 心の靜なる者は哲人なり」 箴言17:27 明治元訳聖書

「口数を制する人は知識をわきまえた人。冷静な人には英知がある」 新共同訳聖書

「神は人の奥底を証しする方、心の極みを見張る力」 知恵の書1:6(フランシスコ会訳)

  「人の奥底」

「奥底」の直訳は「腎臓」で、感情や意志の源を意味する(フランシスコ会訳 注解)

神は私の奥底を見、その極みを見張られる。私は一人ではない。神が共におられるならば、私は感情と意志の奥底に耐えよう。

(†心のデボーション00129)

† 心のデボーション 00130

「われは貧しくして乏し わが心うちにて傷をうく」 詩篇109:22 明治元訳聖書

「私は悩み、そして貧しく、私の心は、私のうちで傷ついています」 新改訳聖書

 「傷つかない関係」

相手と深くかかわらなくてよいなら、傷つかなくてもすむ。だが、傷つかない関係から生まれるものを関係とは言えない。

もし、関係が傷つくなら、関係自身がその傷を癒すまで待て。関係が回復して訪ねてきたら、傷ついた心で迎えるな。

(†心のデボーション00130)

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