† 心のデボーション 00111
「アサはその治世の三十九年に足を病みその病患つひに劇しくなりしがその病患の時にもヱホバを求めずして
醫師を求めたり」 Ⅱ歴代16:12 明治元訳聖書
「アサはその治世第三十九年に足の病にかかり、その病は極めて重かった。その病の中にあっても、彼は主を求めず、医者に頼った」 新共同訳聖書
「病と信仰」
アサ王は年老いて極めて重い足の病にかかった。しかし、彼は病の中にあっても主を求めず、医者に頼った。(Ⅱ歴代16:12)
信仰者が病のときに医者を求めることには何の問題もない。しかし、アサ王は病の中に神を見出すことをせず、ひたすらに医者を求めた。患者も医師も、神不在のまま病に向かうことはできない。
人が病の中で神を求めるのは癒しのためだけではない。
(†心のデボーション00111)
(マタイ1:7)
† 心のデボーション 00112
「今なんぢ我がなんぢとともに造りたりし河馬を視よ 是は牛のごとく草を食ふ」 ヨブ40:15 明治元訳聖書
「見よ、ベヘモットを。お前を造ったわたしはこの獣をも造った。これは牛のように草を食べる」 新共同訳聖書
「ベヒモス Behemoth」
「河馬」と訳されたヘブライ語は「בְּהֵמוֹת b@hemowth {be-hay-mohth’} べヒモスBehemoth」で「動物、家畜、獣」の意味である。
ベヒモス(ベヘモット)は神が創られた、尾は「杉の木」、骨は「青銅の管」、肋骨は「鉄の棒」の巨大で強力な生き物である。
神はベヒモスについて、ヨブに「あなたと並べてわたしが造ったもの」と言われる。
神のつくられたすべての生き物を見よ。大いなる「べヒモスBehemoth」も小なる「べヒモスBehemoth」も固有のものとして存在している。自分と「並べて造られたいのち」を見て、人は自らを誇れようか。
「高ぶる者を視(み)とめて之をことごとく卑くせよ」 ヨブ40:12 明治元訳聖書
(†心のデボーション00112)
† 心のデボーション 00113
「いま暫くせば、 來るべき者きたらん、 遲からじ」 ヘブル10:37 大正文語訳聖書
「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない」 新改訳聖書
「來るべき者きたらん」
日本で最も古いミッションスクールであるフェリス女学院(1875年 創設者キダー Mary Eddy Kidder)は、関東大震災で校舎が崩壊した。第3代校長のミス・カイパー(Jennie M. Kuyper)は倒壊した校舎の下敷きになったが、助けようとする女性を危険だからと制止し、別辞を述べ、賛美歌476「ややにうつりきし」を歌いつつ、猛火に包まれて殉職した。
ややに移(うつ)りきし 夕日かげの
のこるわが生命(いのち) 今か消(き)ゆらん
みつかいよ、つばさをのべ
永遠(とこしえ)の故郷(ふるさと)へ みちびきゆけ
永遠(とこしえ)の故郷(ふるさと)へ みちびきゆけ
賛美歌476「ややにうつりきし」
(†心のデボーション00113)
† 心のデボーション 00114
「只すこしく人を神よりも卑(ひくく)つくりて榮と尊貴とをかうぶらせ またこれに手のわざを治めしめ萬物をその足下におきたまへり」 詩篇8:6~7 明治元訳聖書
「神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造れれたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました」 新共同訳聖書
「卑(ひく)き者」
信仰者は心の中を全部神で満たしてはいけない。それは天使であって人間ではない。
神は、人を「神よりいくらか劣るもの」(新改訳聖書)と創られた。「神ではない」ところに人の「榮と尊貴」がある。
(†心のデボーション00114)
† 心のデボーション 00115
「これ今よりのち、人の慾に從はず、神の御意に從ひて、肉體に寓れる殘の時を過さん爲なり」 Ⅰペテロ4:2 大正文語訳聖書
「こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです」 新改訳聖書
「内なる他者」
自分の生涯は自分で評価しなければならない。人の内には自分を評価する「他者」がいる。両者が一致していないと正確な自己評価はできない。そのために両者は「評価」をめぐっていつも話し合う必要がある。
「地上に残された時」は少ない。自己と内なる他者の成熟した視線の先に「神のみこころのために過ごす日々」がある。
(†心のデボーション00115)
† 心のデボーション 00116
「父の我に賜ふものは皆われに來らん、我にきたる者は我これを退けず」 ヨハネ6:37 大正文語訳聖書
「父がわたしにお与えなる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」 新改訳聖書
「我にきたる者は我これを退けず」
私はイエスに尋ねた。「何故に、あなたは私を拒まれないのですか?」 するとイエスは答えられる。「あなたは父から私が賜ったゆえに、私に来たのではなかったか?」 そこで私は神に尋ねた。「何故に、あなたは私をイエスに賜ったのですか?」 すると神は答えられた。「イエスがあなたを拒まれないが故に」。
そこで、私はすべての出会いに、「父の我に賜ふものは皆われに來らん」「我にきたる者は我これを退けず」ということを学んだ。
(†心のデボーション00116)
† 心のデボーション 00117
「人の途はおのれの目にことごとく潔しと見ゆ 惟(ただ)ヱホバ霊魂をはかりたまふ」 箴言16:2 明治元訳聖書
「人間の道は自分の目に清く見えるが、主はその精神を調べられる」 新共同訳聖書
「魂の重さ」
人は「我ことごとく潔し」というが、「魂」は如何にしてそのように思い込むものなのか? 神はそのような「魂」の重さを量られる。
人は自らの魂を「重い」と感じて満足するが、神には羽毛のように「軽い」。しかし、人が自らの魂を「あまりに軽い」と失望するとき、神は金の塊のように「重く」量られる。
魂が己の重さを正しく知るならば、再び虚きことを仰ぎのむことはない。(詩篇24:4)
神の量り与えられた魂の重さを知り、「ヱホバをほめまつれ」。(詩篇103:1)。
(†心のデボーション00117)
† 心のデボーション 00118
「是は猜疑(うたがひ)の禮物(そなえもの)記念(おぼえ)の禮物(そなえもの)にして罪を誌(おぼ)えしむる者なればなり」 民数記5:15 明治元訳聖書
「これは嫉妬した場合の献げ物、すなわち罪の判定のための献げ物である」 新共同訳聖書
「濡れ衣」
あらぬ疑いをかけられ、「濡れ衣」を着せられるのはたまらない。何故「濡れ衣」というのか諸説あるが、その一つは、疑わしい人に「濡れた衣」を着せて、いつまでもかわかなければ有罪、早くかわけば無罪とされたところから来たというもので、衣をわずかに濡らして誤魔化す者もあったという。
べっとりと肌にはりつく気持ち悪さに、一刻も早くぬいでしまいたい「衣」である。一旦着せられると、めったなことではかわかない。
申命記には、「あらぬ疑い」が生じた時、それを神に持って行き、大麦の粉を「猜疑(うたがひ)の禮物(そなえもの)」としてささげることが定められている。「あらぬ疑い」を「記念(おぼえ)」て正しく裁かれる神にささげよ。
(†心のデボーション00118)
† 心のデボーション 00119
「我わが契約を我と汝および汝の後の世々の子孫との間に立て永久の契約となし汝および汝の後の子孫の神となるべし」 創世記17:7 明治元訳聖書
「わたしは、お前との間に、またお前の跡に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする」 新共同訳聖書
「後の子孫」
神はアブラハムに「我は汝の神となるべし」と現われ、「汝の後の子孫の神となるべし」と約束された。私と共なる神は、今この時「私の後の子孫の神」として身を現し給う。
そこで私は今日の老いた自分にやがて生まれる「後の子孫」が宿り在るのを知ったのである。
私の「後の子孫」よ、健やかであれ。
(†心のデボーション00119)
(マタイ1:17)
† 心のデボーション 00120
「汝何故に預言してヱホバかく云たまふといふや」 エレミヤ32:3 明治元訳聖書
「なぜ、お前はこんなことを預言するのか」 新共同訳聖書
「カッサンドラーの予言」
トロイの女王カッサンドラーは、ある日予言する能力を与えられた。しかし、彼女が約束を守らなかったので、誰ひとり、その予言を信じなくされてしまう。
カッサンドラーの予言はいつでも正しい、しかし、誰からも信じられない。誰も彼女のことばを信じなくても、その予言は実現する。
罰を与えられたのはカッサンドラーだろうか、それとも、ことばを信じられなくされている人間だろうか。
(†心のデボーション00120)
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