心のデボーション011

デボーション1
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† 心のデボーション 00101

「イエス身を屈(かが)め指にて地に畫(ものかけ)り」 ヨハネ8:6 大正文語訳聖書

「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた」 新共同訳聖書

 「心を開く」

心は一度閉ざされてしまうと、容易には開かないものである。無理にこじ開けようとすれば、貝のように、ますますかたく引きこもってしまう。

姦淫の女が心を開いたのは、黙って地面にものを書いているイエスの後ろ姿に自分の哀しさや孤独を感じたからではないだろうか。イエスの目は地面に落とされていても、全霊が自分に向けられ、その目に一粒の涙があるのを感じて、女は閉ざした心を開いたのであろう。

(†心のデボーション00101)

† 心のデボーション 00102

「我は汝等の中の賓旅(たびびと)なり寄居者(やどれるもの)なり」 創世記23:4 明治元訳聖書

「私は他国人で通りすがりの者ですが」 バルバロ訳聖書

 「賓旅(たびびと)」

サラが亡くなったとき、アブラハムはヘテ人に「我は汝等の中の賓旅(たびびと)なり寄居者なり」(創世記23:4)と語りかけた。「賓旅(たびびと)」はヘブル語 ‎גֵּר ger {gare} 「寄留者、在留異国人」 ギリシャ語 πάροικος  「滞在者、隣人」。

明治元訳聖書は「賓旅」の字をあて「たびびと」と読ませる。

孟子の「告子章句下」に「敬老慈幼、無忘賓旅」(老いを敬い幼を慈しみ、外から来た旅人の扱いをゆめゆめ怠るな)とある。「賓」は「たいせつな客」の意味である。アブラハムは見知らぬ地を旅しながら、その土地の「たいせつな客」であろうとした。

「地の旅人」は、地を通過するだけの無関心者ではなく、その地の「賓客」として迎えられる者のことである。

(†心のデボーション00102)

† 心のデボーション 00103

「然ば汝の心より憂を去り 汝の身より惡き者を除け」 伝道11:10 明治元訳聖書

「心から悩みを去り、肉体から苦しみを除け」 新共同訳聖書

 「しゃっくり」

「しゃっくり」を一発でとめる二つの方法がある。

一つは、人差し指を30秒から一分間ほど耳に入れる。他は、息を胸いっぱい吸い込み、十秒ほど息を止め、ゆっくりはき出す。

私は息を止めてコップから水を飲む。これにはコップの手前ではなく反対側から飲むという方法もあるが、試してみたところ、手前でも問題ない。

体から「悪しきもの」を取り除くと「心より憂いをさる」ことができることがある。「一発で効く方法」を覚えておくのもよい。

(†心のデボーション00103)

† 心のデボーション 00104

「病める者をいやし、死にたる者を甦へらせ、癩病人をきよめ、惡鬼を逐ひいだせ。價なしに受けたれば價なしに與へよ」 マタイ10:8 大正文語訳聖書

「ただで受けたのだから、ただで与えるがよい」 口語訳聖書

 「ノブレス・オブリージュ」

ノブレス・オブリージュ(仏: noblesse oblige)はフランス語で「高貴さは義務を強制する」の意味である。(英語 noble obligation)

ノブレス・オブリージュは上流階級に属する人が自発的に社会的義務を負うことによって、特権をもたない人との釣り合いを保つという考えである。英国の皇室が孤児院やホームレスへのボランティア活動をしたりするのがそれである。

成功はすべての人には与えられない。一つの成功の背後には、それを逃した多くの人がいる。

あることで成功した人は、それを手にすることができなかった多くの人がいることを忘れてはならない。

聖書も「ただで受けたものはただで与えよ」とすすめている。

(†心のデボーション00104)

† 心のデボーション 00105

「凡ての虚僞の眞理より出でぬことを知る」 Ⅰヨハネ2:21 大正文語訳聖書

「すべて偽りは真理から生じないことを知っているからです」 新共同訳聖書

 「テーブルファイアー」

保険会社などが、書類上で架空の火災をおこし枠外資金を作ったりするのを「テーブルファイアー table fire 卓上の火災」と呼ぶ。炎もあげない大火災があちこちで発生する。家屋に被害はないが、巨額の保険金が支払われる。心におこる「卓上の火災」も珍しいことではない。保険金はどこに支払われたのだろうか。

(†心のデボーション00105)

† 心のデボーション 00106

「我平和を國に賜ふべければ汝等は安じて寝ることを得ん汝等を懼れしむる者なかるべし我また猛き獣を國の中より除き去ん劍なんぢらの國を行めぐることも有じ」 レビ26:6 明治元訳聖書

「わたしはまたその地に平和を与える。あなたがたはだれにも悩まされずに寝る」 新改訳聖書

「世界平和の鐘」

日本の平和の鐘(Japanese Peace Bell)は、1954年に日本国際連合協会から国際連合に贈られた重さ116kg、高さ1m、直径60cmの鐘で、国際連合協会の第13回会合に参加した60か国の代表から贈られた硬貨から鋳造されている。毎年、国際平和デーの式典で打ち鳴らされる。

1994年の式典でブトロス・ブトロス=ガーリ国連事務総長は次のようにスピーチした。

“Whenever it has sounded, this Japanese Peace Bell has sent a clear message. The message is addressed to all humanity. Peace is precious. It is not enough to yearn for peace. Peace requires work — long, hard, difficult work.”

「日本の平和の鐘は鳴るたびに、明確なメッセージを送ってきました。平和は尊いというメッセージをすべての人々に送り続けているのです。平和を願うのにこれで十分ということはありません。平和には努力が必要です。それも長く、つらく、困難な努力です。」(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

「世界平和の鐘」は日本では1988年、石垣市と稚内市の「南北の国境の町」に設置された。

平和への「長く、つらく、困難な努力」は始まったばかりだ。

(†心のデボーション00106)

† 心のデボーション 00107

「彼等(かれら)この星(ほし)を見て甚(いた)く喜(よろこ)び」 マタイ2:10 大正文語訳聖書

「されば彼等は星を見て、一方ならず大いなる喜びをもて喜べり」 永井直治訳聖書

 「博士の井戸」

伝説によると、マギがエルサレムから2~3キロほど南に進んだとき、それまで見えていた星が急に見えなくなった。彼らは途方にくれたが、なにげなくそこにあった井戸を覗くと、井戸の水面に美しい星が映っていた。不思議に思って空を見上げると、見失った星が輝いていたという。そこからこの井戸は「博士の井戸 Well of Magi」と呼ばれるようになった。

この井戸はエルサレムとベツレヘムの中間にあり、旅人は必ずラクダを止める所で、マリアとヨセフもベツレヘムに行く途中ここで休息したというところから、この場所は Kathisma カティスマ(座席)と呼ばれている。(新聖書大辞典)

導きの星を見失ったら、空から遠い深い井戸を覗くがいい。星は地の底からも見ることができる。井戸の底から見上げると昼間は見えない空の星も見える。

(†心のデボーション00107)

† 心のデボーション 00108

「曩(さき)にかれらに言給ひけるは此(こ)は安息(やすみ)なり、疲困者(つかれたるもの)にやすみをあたえよ、此は安慰(なぐさめ)なりと」 イザヤ28:12 明治元訳聖書

「主は、彼らに『ここにいこいがある。疲れた者をいこわせよ。ここに休みがある。』と仰せられたのに、彼らは聞こうとしなかった」 新改訳聖書

 「いこいの場」

失敗をしないのが良い人生ではなく、失敗してもそこに意味を引き出せるのが良い人生である。

失敗から意味を引き出すには、少しの時間を必要とする。失敗の直後は心のエネルギーが酷使されて正常に働かず、大げさな反応に走ってしまうことが少なくないからである。

「いこいの場」は、失敗をした自分を、もう一人の自分が眺め、意味を回復する場である。「失敗」と静かに言葉を交わす所である。

神が「ここにいこいがある」といわれるのに、聞こうとしないので「失敗」を重ねてしまう。

(†心のデボーション00108)

† 心のデボーション 00109

「ヱホバは渇きしたふ霊魂(たましひ)をたらはせ饑(うえ)たるたましひを嘉物(よきもの)にてあかしめ給へばなり」 詩篇107:9 明治元訳聖書

「主は渇ききった魂を満ち足らせ、飢えた魂を善いもので満たされた」 フランシスコ会訳聖書

 「渇いた魂」

「渇いた魂」(新共同訳)の「渇く」はヘブル語「‎שׁקק  シャカック shaqaq {shaw-kak’}」で「走る」を意味する語からきている。LXXは「κενός  ケノス kenos {ken-os‘} 空の、中身のない、空虚な」と訳している。

明治元訳聖書は「渇きしたふ霊魂(たましひ)」と訳した。

「渇いた魂」とは、砂漠のラクダが鼻を高くあげ、水の気配を風に感じて走り出し、遥か遠くのオアシスを探し出すように、神を慕い、求めて走る魂である。

「渇く」は「走る」である。渇いても、一歩も動こうとしないのが魂の「渇きの病」であろう。

(†心のデボーション00109)

† 心のデボーション 00110

「此故になんぢら欣喜をもて救の井より水をくむべし」 イザヤ12:3 明治元訳聖書

「あなたがたは喜びながら、救いの泉から水を汲む」 新改訳聖書

 「ヴィタミン」

ヴィタミン Vitamin  はラテン語 vita 生命 + amine アンモニアからきた言葉。amine は古代エジプトの太陽神ジュピター・アンモンの神殿にある井戸を意味するギリシャ語 ammniakon から作られた言葉である。

人が必要とするビタミンはわずかの量であるが、欠けるとさまざまの欠乏症があらわれることから、体内で極めて重要な働きをする営養素であることが知られている。「いのちの井戸」である。

英語 vitalize は「~に生命を与える、活力をつける」であり、vitality は「生命力、活力、生気」である。

多くのビタミンが体内では作られず、外から摂取する必要があるように、魂の活力も外から摂取されるのだろうか。

(†心のデボーション00110)

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