心のデボーション010

デボーション1
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† 心のデボーション 00091

「人の家に入らば平安を祈れ」 マタイ10:12 大正文語訳聖書

「人の家にいらば其平安(やすき)を問(とへ)」 明治元訳聖書

「家に入る時、此家に平安あれかしと云ひて之を祝せよ」 ラゲ訳聖書

 「一挨一拶」

「挨拶 ἀσπάζομαι  アスパゾマイ」には「歓迎する、~を喜ぶ」の意味がある。

今の人は挨拶ができないという。

「挨拶」の「挨」は「そばにくくっつ」、「拶」は「ぎりぎりに近づく」で「そばに身をすりよせ、近寄ることをさす。難しいのは、相手とぎりぎりのところに近づき、そこで立ちどまって礼をする、そのことである。

禅宗の「一挨一拶」は師匠が弟子との問答からその心の深さを試すことを言う。

(†心のデボーション00091)

† 心のデボーション 00092

「父母の物を竊みて罪ならずといふ者は滅す者の友なり」 箴言28:24 明治元訳聖書

「父母のものをかすめて『これは罪ではない』と言う者は滅ぼす者の仲間だ」 新共同訳聖書

 「滅ぼす者の友」

犬はかわいい。だが私の知る犬はドックフードに関心があってもこちらの悩みには無関心である。

「滅ぼす者の友」とは私の犬のように自分を満たすことには関心があっても人の苦悩には無関心な者のことだろうか。彼らは父母のものを掠めても「罪」などとは思わない。

「滅びをもたらす者」(新改訳聖書)、「強盗の仲間」(ラゲ訳聖書) である。

だが、不思議なことに「滅びをもたらす者の父母」は息子、娘のそれを「罪」とは感じていないようなのである。奪われても、奪われても、与えてしまう。

(†心のデボーション00092)

† 心のデボーション 00093

「視よ、前に東にて見し星、先だちゆきて、幼兒の在すところの上に止る」 マタイ2:9 大正文語訳聖書

「彼らがヘロデ王のことばに送られて出発すると、なんと、前にのぼるのを見たその星が先に立って、幼児の

いるところの上に止まった」 バルバロ訳聖書

 「見よ、驚くことに」

本節も「ἰδού  イドゥ 見よ、驚くことに」に導かれる。

自分の人生には驚きがないというのは正確な言い方ではない。「驚き」は何気ないもののなかに、さりげなく隠されているからである。どの人生のどの瞬間にも「驚き」がある。

「先立って進む προάγω  プロアゴー」は「先手を打つ」である。神のうたれる「先手」の妙に驚かずにはいられまい。

「驚き」のない信仰は本物ではない。驚きがないのではなく、いちいち驚くことを忘れているのである。

(†心のデボーション00093)

† 心のデボーション 00094

「主人かれを呼びて言ふ『わが汝につきて聞く所は、これ何事ぞ、務の報告をいだせ、汝こののち支配人たるを得じ』」 ルカ16:2 大正文語訳聖書

「管理の明細を提出してもらおう。もうお前を管理人にしておくわけにはいかない」 フランシスコ会訳聖書

 「務(つとめ)の報告」

「務(つとめ)の報告」は οἶκονομία  オイコノミアで、この語は 「οἶκος  家 + νόμος 法、秩序」の合成語で「知恵をもって家を治める」の意味である。英語 economy の語源でもある。

漢字「経済」の「経」は織物の縦糸をあらわす形で、縦糸が横糸とまとまりを生み出していくことから「すじみち、道理」をあらわす。

人は人生の収支(筋道)を出さなければならない。正しい人生には、その収支も筋道がとおっている。

収支は合っているか。

(†心のデボーション00094)

† 心のデボーション 00095

「汝盗むなかれ」 出エジプト20:15 明治元訳聖書

「盗むな」 バルバロ訳聖書

 「剽窃(盗用)」

米国では一度「剽窃(盗用)Plagiarism」をした学者は、学者として「犯罪者」とみなされ、二度と学者として生きることはできない。

「剽」は「かすめとる」の意味で、「剽窃」は、他人の説や文章を「かすめて盗む」行為である。

「剽窃」は発覚するまではまったく姿をあらわさない、発覚すると二度と元には戻れない恐ろしい罪である。

インターネットの世界は、「剽窃」があまりに巨大化して、何が「剽窃」かもわからなくなかわからなくなってしまったようだ。

(†心のデボーション00095)

† 心のデボーション 00096

「良き地に播かれし」 マタイ13:23 大正文語訳聖書

「沃壤(よきち)に播かれたる者は」 日本正教会訳聖書

 「八十八夜の泣き霜」

畑も耕した。種もよい。芽も青く育った。しかし、「八十八夜の泣き霜」ということもある。これが来るとジャガイモの芽は黒く萎んで、泣いても泣ききれない。(「八十八夜の別れ霜」「八十八夜の忘れ霜」ともいう)

「百倍、六十倍、三十倍」の実は、その後の天の恵みによる。そして「八十八夜の泣き霜」もまた「天」から降りてくる。

百におごるな、三十に泣くな。

(†心のデボーション00096)

† 心のデボーション 00097

「地は皆爾の前にあるにあらずや請ふ我を離れよ爾若左にゆかば我右にゆかん又爾右にゆかば我左にゆかんと」 創世記13:9 明治元訳聖書

「私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう」 新改訳聖書

 「別れ」

「爾若左にゆかば我右にゆかん又爾右にゆかば我左にゆかん」という別れがある。沙漠の民にとっては互いが生きるための自然な方法だった。それぞれが方角を決めて、右と左に進路をとり、その姿は砂漠に消えていく。別れても相手の存在は同じ沙漠のどこかに在ることを互いに想い、朝夕の祈りに忘れることはない。

彼らは別れる時、「われわれが互いに目が届かない所にいるとき、主が私とあなたとの間の見張りをされるように」(創世記31:49)と言い交わした。

(†心のデボーション00097)

† 心のデボーション 00098

「心を一つにし口を一つにして」 ロマ15:6 大正文語訳聖書

「心を合わせ声をそろえて」 新共同訳聖書

 「一つの口で」

「声をそろえて ἐν ἑνὶ στόματι 」は「ἑνι 一つの」+「στόματι 口」である。相手と心を合わせるには「一つの口」であることが必要になる。共通の言葉で語れる人が仲間である。その人が自分と「一つの口」を持つかどうかは、話してみればすぐにわかる。

しかし、「異なる口」の「友」もいる。翻訳する苦労はあるが、そこにも知り合う喜びはある。いずれの「友」も楽しい。

(†心のデボーション00098)

† 心のデボーション 00099

「磐間にをり 斷崖の匿處にをるわが鴿よ われに汝の面を見させよ なんぢの聲をきかしめよ なんぢの聲は愛らしく なんぢの面はうるはし」 雅歌2:14 明治元訳聖書

「私に、顔を見せておくれ。あなたの声を聞かせておくれ」 新改訳聖書

 「のっぺらぼう」

小泉八雲の『怪談』に「むじな」という話がある。

ある夜、江戸赤坂の紀伊国坂を一人の商人が通りかかると、道ばたに若い女がしゃがんで泣いている。心配して声をかけると、振り向いた女の顔は目も鼻も口もない「のっぺらぼう」だった。驚いた商人は逃げ出し、屋台の蕎麦屋に駆け込むと、蕎麦屋の亭主が「どうしましたか」と聞く。商人が今見た「のっぺらぼう」の話をしようとすると、蕎麦屋は「こんな顔ですかい」と振りむく、その顔も「のっぺらぼう」だった。驚いた商人は気を失うが、その途端に蕎麦屋の明かりが消えた。全ては狢(むじな)がしたことだった。

何でも一応こなすが、これといった特徴のない人を「のっぺらぼう」という。普段は気づかないが、改めて「こんな顔ですかい」と振り向かれると、それなりに怖い。

(†心のデボーション00099)

† 心のデボーション 000100

「彼は我らの平和にして、己が肉により、樣々の誡命の規より成る律法を廢して、二つのものを一つとなし、怨(うらみ)なる隔(へだて)の中籬(なかがき)を毀ち給へり」 エペソ2:14 大正文語訳聖書

「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし」 新改訳聖書

「実にキリストご自身こそ、わたしたちの平和であり、互いに離れていた二つのものを一つにし、ご自分の肉において、人を隔てていた壁、すなわち、敵意を取り除き」 フランシスコ会訳聖書

 「隔ての壁」

悲しいことに、差別という「隔ての壁」は、人の心に出現する。しばしば、その厚く高い「内なる壁」は体の一部として吸収され、そこにあることすらわからない。

内なる壁に気づくのは外なる壁による。人は差別されることによって、はじめて差別する者であることに気づく。

キリストは、内なる壁を抱え込んだ私をまるごと愛された。それで私もまた、壁を含んだ自分をそのまま抱きしめよう。十字架の痛みが伝わってきた時、壁は自ら崩れ落ちていく。

(†心のデボーション000100)

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