† 心のデボーション 00081
「われ汝のほまれの榮光ある稜威(みいづ)となんぢの奇しきみわざとを深くおもはん」 詩篇145:5 明治元訳聖書
「わたしは思い巡らします、栄光に輝く威光と不思議な業とを」 フランシスコ会訳聖書
「あなたの輝き、栄光と威光、驚くべき御業の数々をわたしは歌います」 新共同訳聖書
「榮光ある稜威(みいづ)」
「הוֹד ホードhowd {hode}」は「主権、輝き」である。明治元訳聖書はこの語を「稜威(みいづ)」と訳した。
「稜威 りょうい」は「威稜 いつ」で「神聖であること」から「天子の威光」を意味することばとなった。
軍人勅諭に「我国の稜威(みいず)振(ふ)はざることあらば、汝等能(よ)く朕と其憂(そのうれい)を共にせよ。」とある。
「稜威」は「雷光にみる威力」「いきおい、いのちの根源的な蘇る力」から来たとする研究もある。日本人の精神世界における重要な言葉の一つである。
明治のキリスト者は、日本民族の「いのちの蘇る力」が「振(ふ)はざる」ことの憂いから、神の「稜威」へと信仰の目を向けたのではなかったか。
「神の榮光ある稜威(みいづ)と奇しきみわざ」に思いを巡らす。
(†心のデボーション00081)
† 心のデボーション 00082
「爾曹(なんじら)衆(すべて)の人(もの)と和睦(やはらぐ)ことをなし」 へブル12:14 大正文語訳聖書
「すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい」 口語訳聖書
「和睦(やはらぐ)ことをなし」
「Εἰρήνην διώκετε 和睦(やはらぐ)ことをなし」は、「εἰρήνη 平和」を「διώκω 追いかける」である。それにはまず、自分の「εἰρήνη 平和」を「διώκω 追いかけ」なければならない。自分のすべてと和解しなければならない。自分との和解は、一人の人と「相和す」ことによる。それが始まれば「すべての人」と相和すことができるだろう。
ギリシャ語「διώκω」は「迫害する」の意味に用いられる。人との和睦(やはらぐ)には、迫害者の熱意をもって執拗に「平和」を追求しなければならない。
(†心のデボーション00082)
† 心のデボーション 00083
「老たる者の中には智慧あり 壽長者の中には穎悟(さとり)あり」 ヨブ12:12 明治元訳聖書
「老いた者に知恵があり、年のたけた者に英知があるのか」 新改訳聖書
「子よ、老いたるなんじの父を助け、その命の限りこれを憂えしむな。その悟り衰(おとろ)うともこれを忍べ、おのが力強くとも彼を軽んずな」ベン=シラの知恵3:12~13 日本聖公会訳
「老たる者の中には智慧あり」
老いた身を、若者に「いたわり、忍んで」欲しいとは思わない。ただ、若者に勘違いしないように伝えておきたい。老いたる者が「その悟り衰(おとろ)えたり」と見えるのは、「衰え」ではなく、力の強さというよりも弱さに学ぶ者となった、そのことである。「軽んずべきこと」ではない。
「知恵と力は神とともにあり、思慮と英知は神のものだ」 箴言12:13 新改訳聖書
(†心のデボーション00083)
† 心のデボーション 00084
「主の僕は爭ふべからず、凡ての人に優しく能く教へ忍ぶことをなし」 Ⅱテモテ2:24 大正文語訳聖書
「主の僕たる者は争わず、すべての人に柔和に接し、教えることができ、よく忍び、反抗する者を優しく教え導かねばなりません」 新共同訳聖書(2:24~25)
「何にてもなんじに来たるものを受け、なんじの身分の低くせらるるときにも忍べ」 ベン=シラの知恵2:2 日本聖公会訳
「屈辱の炉」
孔子は「人知らずして慍(いきど)おらず」(学而第一 1 01-01)と語る。
智慧を学び得ることは楽しい、同道の友が尋ね来るのはさらに嬉しい。しかし、たとえ自分の学び得たことが世に認められなくても、腹を立てない。それが君主の名に値する者ではないかという。
君主になどなれるはずはなく、またなりたいとも思わぬが、自分が低くせられることに、それを「自分に来るもの」として、腹をたてずに受け忍ぶ者にはなりたい。
金は「屈辱の炉」にて試みられて貴きものとなる。(ベン=シラの知恵2:5)
(†心のデボーション00084)
† 心のデボーション 00085
「アブラムよ懼(おそ)るるなかれ我は汝の干櫓(たて)なり汝の賚(たまもの)は甚(はなは)だ大(おおい)なるべし」 創世記15:1 明治元訳聖書
「アブラハムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい」 新改訳聖書
「我は汝の干櫓(たて)なり」
「干櫓(たて)かんろ」はヘブル語 מָגֵן mâgên {maw-gane‘}「盾、丸盾」である。「盾」は飛び来る矢玉をふせぎ、振り下ろされる刃を受けとめる。
私に来る今日の平安は、神が「盾」として私の知らない攻撃の刃を防がれるが故の「賚(たまわりもの)」である。
(†心のデボーション00085)
† 心のデボーション 00086
「一切のもの我に可からざるなし、然れど一切のもの益あるにあらず。一切のもの我に可からざるなし、されど我は何物にも支配せられず」 Ⅰコリント6:12 大正文語訳聖書
「『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益となるわけではない。『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、わたしは何事にも支配されはしない」 新共同訳聖書
「制約のもとの自由」
アダムに与えられたのは「善悪の知識の木からは取って食べてはならない」という制約のもとに約束された自由であった。(創世記2:17)
パウロも「『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益となるわけではない。『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、わたしは何事にも支配されはしない」(Ⅰコリント6:12)という。
自由とは何でもできることではなく、してはならないことを自ら受容する自由を意味し、そこに人間の尊厳も存在した。この制約のもとに、人は人間としての自分に踏みとどまるのである。
(†心のデボーション00086)
† 心のデボーション 00087
「神ノアおよび彼とともに方舟にある諸の生物と諸の家畜を眷念(おも)ひたまひ」 創世記8:1 明治元訳聖書
「神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留め」 新共同訳聖書
「眷念 けんねん」
「眷念 けんねん」(ヘブル語 זכר ザーカー zâkar {zaw-kar‘} 「覚える、思い起こす、記録する、記念する」)は「強く惹かれる、愛着を覚える、思い慕う、懐かしむ」の意味。「眷念 けんねん」は「みこころに記(と)める」ことである。(詩篇115:12)
神が私を「眷念 けんねん」し、思い慕われる。
(†心のデボーション00087)
† 心のデボーション 00088
「偖(さて)イエス聖靈(せいれい)に導(みちび)かれ惡魔(あくま)に試(こころみ)られん爲(ため)に野(の)に往(ゆけ)り」 マタイ4:1 大正文語訳聖書
「そのときイエス悪魔より試みらるべく、荒野にまで靈に連れ往かれ給へり」 永井直治訳聖書
「人間の意味」
荒野でイエスは「神の子」であることの意味を試みられる。それは神に「人間」の意味を問うものでもある。人間の存在が問われるところでは、神の存在も問われている。
(†心のデボーション00088)
† 心のデボーション 00089
「汗のいづるごとくに身をよそほふべからず」 エゼキエル44:18 明治元訳聖書
「汗の出るような衣を身につけてはならない」 口語訳聖書
「発汗を促すようなものは着用しない」 フランシスコ会訳聖書
「汗のいづる衣」
祭司は聖所で職をなすとき、「毛服を身につく」ことを禁じられ、粗末な「麻の衣」を身に着けることが定められた。(エゼキエル44:17) 「汗のいづるごとくに身をよそほふ」のを避けるためであった。
「汗のいづる衣」は毛皮でなくても作れる。冷や汗は暑くなくても出る。
私も時々、この種の汗をかく。着るべきでない衣をまとったせいだ。
「汗のいづるごとくに身をよそほふべからず」 エゼキエル44:18 明治元訳聖書
(†心のデボーション00089)
† 心のデボーション 00090
「ああ美しきかな、善き事を告ぐる者の足よ」 ロマ10:15 大正文語訳聖書
「善い知らせをもたらす者の足は何と美しいことか」 フランシスコ会訳聖書
「善き事を告ぐる者の足」
ブルボン王朝の時代に、スペインのマドリードでは、道は石の尖った方を上にし、平たい部分を下にして埋められたという。(堀田善衛『ゴヤ スペイン・光と影』)
逆にすると鋪石が動いて石畳が壊れるからであった。道を行く庶民は尖った石を踏み、血を流して歩かなければならなかった。
「善き事を告ぐる者の足」は血まみれの汚れた足であった。
「善い知らせ」は「血まみれの、埃によごれた足」で運ばれる。「美しく、尊い足」である。
(†心のデボーション00090)
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