心のデボーション008

デボーション1
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† 心のデボーション 00071

「ヱホバの言また我に臨みていふヱレミヤよ汝何をみるや我こたへけるは巴旦杏(はたんきやう)の枝をみる」エレミヤ1:11 明治元訳聖書

「次のような主のことばが私にあった。『エレミヤ。あなたは何を見ているのか。』 そこで私は言った。『アーモンドの枝を見ています。』」 新改訳聖書

 「汝何をみるや」

神に「何が見えるか」と尋ねられて、エレミヤは「巴旦杏(はたんきやう)の枝をみる」と答える。「巴旦杏(はたんきやう)」はアーモンドである。神は「よく見たものだ」とエレミヤを称える。

アーモンドは葉が出る前に花を咲かせる。

アーモンドの枝なら、誰でも見える。しかし、エレミヤが見たのは、今は未だ枯れた枝にすぎないアーモンドに突如として花が咲き、そのように神がすみやかにその言葉を実行されるのを見たのである。

今は枯れた枝に何を見るか?

(†心のデボーション00071)

† 心のデボーション 00072

「爾の目は如何にして哲(あき)たるや」 ヨハネ9:10 明治元訳聖書

「それでは、あなたの目はどのようにしてあいたのですか」 新改訳聖書

 「爾の目は哲(あき)たるや」

明治元訳は「目が開く」を「目が哲く」として「あきたるや」と読ませる。「開く」のギリシャ語「アノイゴー anoigo」は「船が大海原に出て行く」の意味がある。

「哲」は「道理に明らか、深い識見」である。

人々は男に、「爾の目は如何にして哲(あき)たるや」と尋ねる。

男の目が「開けられた」ばかりでなく、海に向かって出て行く船のように、その心が「広く深い識見」に「啓(ひらかれた)」を知って驚いたのである。

イエスによって開かれた目よ、大きく見開いて、帆を張り波を蹴立てて大海原を往け。

(†心のデボーション00072)

† 心のデボーション 00073

「この故にわれらヱホバをしるべし切にヱホバを知ることを求むべしヱホバは晨光(あしたのひかり)のごとく必ずあらはれいで雨のごとくわれらにのぞみ後の雨のごとく地をうるほし給ふ」 ホセア6:3 明治元訳聖書

「我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように、我々を訪れてくださる」 新共同訳聖書

 「晨光(あしたのひかり)」

文語訳「晨光(あしたのひかり)」、新共同訳「曙の光」、新改訳改訂3「暁の光」である。「晨 シン」は「伸 しん」で朝、太陽の光が伸びて現われること。「夜明けの陽光、曙光」を意味する。

夜が如何に長くとも、やがて朝の光が闇を切り裂くように、神は必ず現われ、私にとどいてくださる。私はその光を「地を潤す後の雨のように」全身に浴びよう。

(†心のデボーション00073)

† 心のデボーション 00074

「淡き物あに鹽なくして食はれんや 蛋の白あに味あらんや」「わが心の觸ることを嫌ふ物是は我が厭ふ所の食物のごとし」 ヨブ記6:6~7 明治元訳聖書

「味のない物を塩もつけずに食べられようか。玉子の白身に味があろうか。わたしのパンが汚れたもののようになれば、わたしの魂は触れることを拒むだろう」 新共同訳聖書

 「すべりひゆのしる」

「淡き物」は「味のないもの」で塩がなくては食べられない。「卵の白身」に味があろうか。(口語訳は「卵の白身」を「すべりひゆのしる」と訳す。新聖書大辞典は「ウシのシタ」と呼ばれる貧民の食物とされた植物があり、それではないかという見解を紹介している。)

それらは「魂のふれることを嫌う」ものだとヨブは言う。

耐え難い苦しみの中で、神の言葉はそのままでは「味のない淡き物、卵の白身」のようで、ヨブの魂は触れることを嫌った。

しかし、やがて神は自ら塩をもて味付られ、ヨブは食するのである。

(†心のデボーション00074)

† 心のデボーション 00075

「一處(あるところ)にいたれる時日暮たれば即ち其處(そのところ)に宿り其處の石をとり枕となして其處に臥て寢たり」 創世記28:11 明治元訳聖書

「ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった」 新改訳聖書

 「石の枕」

ヤコブは兄エサウの殺害から逃れる途中、ハランの近くで日が暮れ、地に伏し石を枕に寝た。その夜、神は夢に現われ、伏すその地をヤコブに与え、子孫は地の塵沙(すな)のごとくなると祝福された。

「石の枕」は、聖なるものの現われの時と場所である。

(†心のデボーション00075)

† 心のデボーション 00076

「願わくは希望(のぞみ)の神、信仰より出づる凡ての喜悦(よろこび)と平安とを汝らに満たしめ、聖霊の能力(ちから)によりて希望(のぞみ)を豊ならしめ給わんことを」 ロマ15:13 大正文語訳聖書

「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」 新共同訳聖書

 「希望の樹」

ノアの放ったハトはオリーブの若葉をくわえて方舟に戻ってきた。オリーブは数百年から千年を生きる樹である。昔、侵略者は占領にあたって、まずオリーブの樹を切り倒したという。原住民に「いのちと望み」のシンボルである「オリーブの樹」を倒すことによって、「望み」を断ち、民族再生の想いを砕くためであった。

洪水は地表から「いのちと望み」のすべてを拭い去った。しかし、神はノアのために地に一本のオリーブの木を残された。鳩がくわえて我らが手に落とすのは、数百年を生きる「希望(のぞみ)」という若葉である。

(†心のデボーション00076)

† 心のデボーション 00077

「望(のぞみ)を予(あた)ふる神の爾曹(なんぢら)をして聖靈の能(ちから)に由(より)その望(のぞみ)を大(おほい)にせんが爲に爾曹(なんぢら)の信仰より起る諸(すべて)の喜樂(よろこび)と平康(やすき)を充しめ給はんことを願へり」 ロマ15:13 明治元訳聖書

「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」 新共同訳聖書

 「希望の源である神」

「望みの神」は「望(のぞみ)を予(あた)ふる神」(明治元訳)、「希望の源である神」(新共同訳)であり、「聖霊の神」は「その望(のぞみ)を大(おほい)なるものになし給う」お方である。

「望み」を与える神は、「望み」を育て給もう神でもある。かすかな望みの感じられるところに神居ます。「かすかなもの」こそ、神からのものである印である。

(†心のデボーション00077)

† 心のデボーション 00078

「然(され)ど無(な)くて叶(かな)ふまじき者(もの)は一つなりマリアは既(すで)に善業(よきかた)を撰(えらび)たり此(こ)は彼より奪(とる)べからざる者なり」 ルカ10:42 明治元訳聖書

「しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」 口語訳聖書

 「ありのままの自分」

活動的で陽気なマルタに比べて、妹のマリヤはもの静かでネクラな性格だったようだ。マルタは良くできた女性だが、自分のやり方を他人におしつけていることに気づかない。しかし、マリヤにも周囲の状況が目に入らず、誤解されやすいところがある。

イエスはこの姉妹に、それぞれがありのままの自分の良さを見失ってはならないと言われたのではないか。

マリヤ的女性が好きか、マルタ的女性が好きか、いやマルタ的マリヤが良いなどという詮索は人の勝手というものである。

(†心のデボーション00078)

† 心のデボーション 00079

「然(され)ど無(な)くて叶(かな)ふまじき者(もの)は一つなりマリアは既(すで)に善業(よきかた)を撰(えらび)たり此(こ)は彼より奪(とる)べからざる者なり」 ルカ10:42 明治元訳聖書

「しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」 口語訳聖書

 「善業(よきかた)」

たとえそれが致命的な欠点であっても、その人から「奪い取る」ことをしてはならないものがある。それを無理やり剥がしてしまうと、もはや「彼」ではなくなってしまうからだ。「善業(よきかた)」は、しばしば、欠点でもある。

(†心のデボーション00079)

† 心のデボーション 00080

「なんぢの奇しきみわざとを深くおもはん」 詩篇145:5 明治元訳聖書

「私は栄光輝くあなたの主権と、あなたの奇しいわざに思いを潜めます」 新改訳聖書

 「いいっぱなし」

「いいっぱなし、やりっぱなし」は褒め言葉ではない。しかし、物事は必ずしも思い通りに決着するとは限らない。起承転結の「転」は「いいっぱなし、やりっぱなし」から始まることも少なくない。

言うべきは言い、やるべきはやり、それらをすべて忘れて放置する。あとは知らぬと投げるのではなく、思いを「主の奇しいわざ」に沈めるのである。しかして、主の計らいの中に「結」が現われる。

(†心のデボーション00080)

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