† 心のデボーション 00061
「賢き妻はヱホバより賜ふものなり」 箴言19:14 明治元訳聖書
「思慮深い妻は主からの賜物」 フランシスコ会訳聖書
「聰明な妻」
「賢い妻」はへブライ語で「悟る、賢い、思慮深い妻」の意味、「聰明な妻」である。
フランス語の「知的な女性Femme intelligente」は知識があるというだけではない。「聰(耳がよく聞こえて目がよく見える)」人のことである。
男(夫)に神への畏れがなければこの妻の「賢さ」は見出されまい。
(†心のデボーション00061)
† 心のデボーション 00062
「視よ日いたらんとす その時には耕者(たがやすもの)は刈者(かるもの)に相繼(あいつ)ぎ葡萄を踐(ふ)む者は播種者(たねまくもの)に相繼(あいつ)がん」 アモス書9:13 明治元訳聖書
「見よ。その日が来る。主の御告げ。その日には、耕す者が刈る者に近寄り、ぶどうを踏む者が種蒔く者に近寄る。山々は甘いぶどう酒をしたたらせ、すべての丘もこれを流す」 新改訳聖書
「視よ日いたらんとす」
あまりの収穫に刈る者の作業が何日も続き、もう耕す者が鍬をかついで来ている。ブドウがあまりに多くて絞り終わっていないのに、畑に次の種をまく者が来て待っている。
終末のあまりに豊かな「収穫の日」は、すでに来ている。今日がその日だ。
今がその日と知らなければ、その日は永遠に来ない。
(†心のデボーション00062)
† 心のデボーション 00063
「相議(あいはか)ることあらざれば謀計(はかりごと)やぶる」 箴言15:22 明治元訳聖書
「密議がなければ、計画は失敗する。助言者が多ければ、それは成功する」 フランシスコ会訳聖書
「相議(あいはかる)」
ヘブライ語「相議(あいはかる)סוֹד ソッド」には「親しみ」の意味が含まれている。「親しみ」を欠いた相談ごとはうまくゆかない。だが、「親しみ」に頼りすぎた「謀計(はかりごと)」は破れやすい。
イザヤは「相はかって事を定めよ」(イザヤ16:3 口語訳聖書)とすすめる。
(†心のデボーション00063)
† 心のデボーション 00064
「汝らは悪をたがへし不義を穫りおさめ虚偽(いつわり)の果をくらへり」 ホセア10:13 明治元訳聖書
「あなたがたは悪を耕し、不正を刈り取り、偽りの実を食べていた」 新改訳聖書
「過去を耕す」
知らないで耕したら、そこが「悪」だったということがある。「悪」を耕してしまったら「不義の種」は蒔かないことだ。「不義の種」を蒔いてしまったら「虚偽(いつわり)の果実」は食べないことだ。
「過去を耕す」は「悪を掘り起こす」ことではない。「新田を耕す」(ホセア10:12)ことであり、「恵みをもたらす種」(共同訳)を蒔くことであり、「愛の実り」(共同訳)を刈り取ることである。
(†心のデボーション00064)
† 心のデボーション 00065
「愚かなる者は惡をなすを戯れごとのごとくす 智慧のさとかる人にとりても是(かく)のごとし」 箴言10:23 明治元訳聖書
「愚かな者には悪事が楽しみ。英知のある者には知恵が楽しみ」 新改訳聖書
「知恵の楽しみ」
愚かなる者は悪を生き生きとおこなう。いかにも楽しそうだ。「智慧のさとかる人」の楽しみは、愚かな者の悪への戯れに優るだろうか。
悪への戯れは自然におこるが、知恵の楽しみは放っておいては生まれない。だが、苦しそうな顔をしていると「知恵」は近づこうとしない。
(†心のデボーション00065)
† 心のデボーション 00066
「わが敎(をしえ)は雨の降(くだ)るがごとし吾語(わがことば)は露のおくがごとく靀(こさめ)の若艸(わかくさ)の上にふるごとく細雨(きりさめ)の靑艸(あをくさ)の上にくだるが如し」 申命記32:2 明治元訳聖書
「わたしの教えは雨のように降り注ぎ、わたしの言葉は露のように滴る」 新共同訳聖書
「漏刻(ろうこく)」
中国語で「時」は「漏刻(ろうこく)」という。「漏刻」は「水時計」のことで「漏」は計時用の漏壺を指し、「刻」は時間の単位である。
時は水滴のように一滴一滴、天より漏れ落ちる。そして神のことばも一滴の露となって天より漏れ来る。ことばは「時の水滴」そのもの。私たちはそれを両手で押し戴く。
(†心のデボーション00066)
† 心のデボーション 00067
「欺きとりし糧は人に甜(うま)し されど後にはその口に沙(すな)を充されん」 箴言20:17 明治元訳聖書
「だまし取ったパンはうまい。しかし、後になると、口は砂利でいっぱいになる」 フランシスコ会訳聖書
「欺きとりし糧」
「欺」は相手をないがしろにし、口を大きく開けて出まかせをいうこと。「欺きとりし糧」は、オレオレ詐欺の連中の常食である。やがて彼らの腹は「砂利でいっぱいになる」だろう。だが、このパンは家庭の食卓にも、上品なレストラントのフルコースにも出されるのである。
満州からの引き上げの時、集合場所までの遠い道を食糧もなく、幼子を背負い、小さな娘の手を引いて、幾日も歩いた人がいた。小さな娘が泥水の中に落ちているイモのしっぽを見つけて食べようとした。母親は「そんなものを食べるんじゃない」と激しく叱りつけ、イモのしっぽを取り上げ、娘にわからないように自分の口に入れた。
娘を引いた手を放さないで日本までたどり着くには、「欺きとりし糧」を食べなければならなかった。だが、日本に帰国を果たした後、いつまでも、彼女の腹には「砂利」があり、彼女を苦しめた。彼女が口に入れたのは「哀しい欺きのパン」であった。
(†心のデボーション00067)
† 心のデボーション 00068
「彼等は木葉の搖(うご)く聲(おと)にもおどろきて逃げその逃る事は劍をさけて逃るがごとくまた追ものもなきに顛沛(こけまろ)ばん」 レビ26:36 明治元訳聖書
「彼らは風に舞う木の葉の音にもおびえ、剣に追われる者のように逃げ、追う者もないのに倒れる」 新共同訳聖書
「魂を落とす」
沖縄では何かに驚いて我を失うことを「魂を落とす」といい、その時は落とした場所に行って「魂を拾う」のだという。魂が消えると書いて「魂消る たまげる」というのもそれであろう。
魂を落としたところに行ってみれば、それが「風に舞う木の葉の音」であり、自分は「追う者もないのに倒れた」のだとわかる。だが、それが判るだけでは「魂を拾う」ことはできまい。落とした魂は神が預かっておられる。神はいつでも私にそれをお返しくださる。魂に少し元気がないときがそれだ。
(†心のデボーション00068)
† 心のデボーション 00069
「惡をなんぢの幕屋に留(とど)むる勿れ」 ヨブ11:14 明治元訳聖書
「あなたの天幕に悪を住まわせてはならない」 口語訳聖書
「惡を幕屋に留(とど)むる」
「留」はそこに残るようにと引きとめること。悪を自分の天幕に引きとめ、住まわせてはならない。悪がいつまでも天幕の中にあるということは、それを「引きとどめ、住まわせよう」とする意志が働いているからである。悪には意外と気弱なところがあり、排除する強い決意を示すと、思ったより早く天幕から出て行く。
(†心のデボーション00069)
† 心のデボーション 00070
「われら四方(しはう)より患難(なやみ)を受くれども窮(きう)せず、爲(せ)ん方つくれども希望(のぞみ)を失はず」 Ⅱコリント4:8 大正文語訳聖書
「我等四方(しはう)より患難(くわんなん)を受くれども、窮(きゆう)せず、險(けは)しき境(さかひ)に處(お)れども、望(のぞみ)を失はず」 日本正教会訳聖書
「希望(のぞみ)を失はず」
「爲(せ)ん方つくれども希望(のぞみ)を失はず」を永井訳は「險(けは)しき境(さかひ)に處(お)れども」と訳す。
パウロは、もはや自分に為すべきことがないという状況を信仰の出発点にする。それは「イエスの死を我らの身に負う」ことで、「イエスの生命(いのち)の我らの死ぬべき肉體(にくたい)にあらはれん爲」(Ⅱコリント4:10~11)と言うのである。
(†心のデボーション00070)
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