心のデボーション006

デボーション1
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† 心のデボーション 00051

「幸福なるかな、義に飢ゑ渇く者。その人は飽くことを得ん」 マタイ5:6 大正文語訳聖書

「饑渴(うゑかわく)ごとく義を慕者は福(さいはひ)なり其人は飽ことを得べければ也」 明治元訳聖書

「義に飢えかわく人は幸いである、その人は満たされるであろう」 フランシスコ会訳聖書

 「渇く」

「渇く」を明治元訳聖書は「饑渴(うゑかわく)」と訳す。「飢餓」の渇きである。

犬養道子さんが砂漠で水だけでなく塩が足りなくなって困った時に、ポケットから飛行機の機内食についてくる2グラム入りの塩の小袋を開けたところ、はるかかなたにいたラクダの群れが猛烈な勢いで駆け寄ってきたという。(犬養道子『こころの座標軸』)

「渇く人」は、水の気配を感じたら、ただちに「駆け寄る」人である。渇いているのに駆け寄ることをしないのは、「渇く」ことにも躓いたのだろうか。

(†心のデボーション00051)

† 心のデボーション 00052

「斯(かく)てエホバ彼を外に携出して言い給ひけるは天を望みて星を數へ得るかを見よと」 創世記15:5 明治元訳聖書

「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい」 新改訳聖書

 「星を數へ得るかを見よ」

天には「數へ得ぬもの」がある。「數へ得ぬもの」のあることが私には嬉しい。

ペテロは「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と不漁の海に網を入れた。(ルカ5:5) アブラハムはこの時から、夜空を見上げる毎に、星を数えたのではないだろうか。数えてみることもせずに「すごい夜空だ」と言うのはやめようと思う。夥しい数の困難と、それと同量の祝福を、疲れて目を閉じるまで、一つ一つ数えながら眠りにつきたい。

(†心のデボーション00052)

† 心のデボーション 00053

「爾(なんじ)は遐齡(よきよわい)に達(いた)りて葬らるべし」 創世記15:15 明治元訳聖書

「おまえ自身は平和のうちに先祖のもとに行くだろう。しあわせに年をとり、そして葬られる」 バルバロ訳聖書

 「遐齡(よきよわい)に達(いた)り」

「遐」は「遠い、永い」を意味し、「遐齡(かれい)」は「高齢」をあらわす。

「遐」+「想」で「遐想(思いをはせる)」となり、「遐」+「思」で「遐思(思いにひたる」となる。

「遐齡(よきよわい)に達(いた)る」は、遠くに思いをはせ、思いにひたる年齢のことかもしれない。年寄りはただの高齢者ではない。年齢を重ねさえすればなれるものでもないらしい。

(†心のデボーション00053)

† 心のデボーション 00054

「爾(なんじ)は遐齡(よきよわい)に達(いた)りて葬らるべし」 創世記15:15 明治元訳聖書

「おまえ自身は平和のうちに先祖のもとに行くだろう。しあわせに年をとり、そして葬られる」 バルバロ訳聖書

 「遐齡(よきよわい)」

早すぎる死も、延ばされた死もない。神が私を召される、その日が「遐齡(よきよわい)」である。

(†心のデボーション00054)

† 心のデボーション 00055

「彼處にて彼ヱホバに壇を築きヱホバの名を龥(よべ)り」 創世記12:8 明治元訳聖書

「そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ」 新共同訳聖書

 「神との親しき和らぎ」

アブラハムはベテルの東の山に移り、そこにも石の壇を築き、神の名を呼んだ。文語訳は「龥(よべ)り」の字をあてる。「龥 ヤク」は「呼ぶ」「和らぐ」の意味である。祈りは神との親しき和らぎである。どこにても、その在るところで神との和らぎの祭壇を築け。

昔、天子や貴族の車の前にある横木に付けられた鈴を「和(鸞 ラン)」といった。そこから「和」は「声で応じる」「演奏にあわせて歌う」の意味になった。

「神と和らぐ」は神と声を合わせて歌うことである。

(†心のデボーション00055)

† 心のデボーション 00056

「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系圖(けいず)」 マタイ1:1 大正文語訳聖書

「イエス・キリスト<メシヤ、油そそがれたかた>の家系の書<系図>」 詳訳聖書

 「ビブロス」

「書  βίβλος ビブロス」はエジプト産の葦「パプロス πάπυρος」の茎の繊維で作られた長い巻物であった。

ラテン語 liber は、もともと「樹皮」を意味したことばであったが、やがて「本」をあらわすようになった。

英語の Bibleはラテン語 biblia「書物」からきている。

16世紀フランスの愛書家ジャン・グロリエは8000の蔵書を金箔押しの幾何学的な文様で装飾された皮装丁本とし、表紙下方にはラテン語で「IO. GROLIERII ET AMICORUM(ジャン・グロリエとその友人たちのもの)」という銘を金箔で入れたという。

「書」は友人と共有するべきものであった。共有すべき「書」を見出す喜びがここにある。

(†心のデボーション00056)

† 心のデボーション 00057

「彼見て天幕の入口より趨(はし)り行て之を迎へ」 創世記18:2 明治元訳聖書

「彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした」 新改訳聖書

 「アブラハム趨(はし)る」

アブラハム九十九歳、趨(はし)る! 老衰(おとろ)えし背を丸め、転ぶように趨(はし)る。

それにて神は、「我為さんとする事をアブラハムに隠すべけんや」と言われる。

友よ、我らアブラハムの天幕にて際会せん。そのときは共に趨(はし)りて主を迎えいでようではないか。

(†心のデボーション00057)

† 心のデボーション 00058

「かれらは神をおのが前におかざりき」 詩篇54:3 明治元訳聖書

「彼らは自分の前に神を置こうとしないのです」 新共同訳聖書(詩篇54:5)

「自ら奇妙なる恐れに襲われて病みたればなり」 ソロモンの知恵17:8

 「奇妙なる恐れ」

ある所に自分の魂から一切の恐れと悩みを追い出すことを誓った男がいた。その結果、魂を悩まし、恐れを生じるものは何もなくなった。しかし、間もなくその男は「奇妙な恐れ」に襲われ、その魂は病んだ。「獣の過ぎ行く音」と「蛇の声」に怯えるというもので、やがて男は、「見えざるを得ぬ大気」におののきながら死んでしまった。(ベン=シラの知恵17:8~10)

ふとした瞬間に、自分に忍び寄るその「音」を聞かなかった者がいるだろうか?

(†心のデボーション00058)

† 心のデボーション 00059

「斯るがゆゑにヱホバの言かれらにくだりて 誡命にいましめをくはへ誡命にいましめをくはへ 度にのりをくはへ度にのりをくはへ 此にもすこしく彼にも少しくをしへん 之によりて彼等すすみてうしろに仆れそこなはれ罟にかかりて捕へらるべし」 イザヤ28:13 明治元訳聖書

「戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し」 新改訳聖書

 「何を言っているのかわからぬ言葉」

神は民の指導者に、「此(こ)は安息(やすみ)なり、此(こ)は安慰(なぐさめ)なり」と民に伝えるように語られた。しかし、民の指導者は「疲困者(つかれたるもの)たち」に、「ツァウ・ラ・ツァウ、ツァウ・ラ・ツァウ(命令に命令、命令に命令)」「カウ・ラ・カウ、カウ・ラ・カウ(規則に規則)」と言い続け、民の魂を休ませなかった。イザヤ28:10~13

同じ間違いは現代の教会にも見られる。指導者が「ツァウ・ラ・ツァウ、ツァウ・ラ・ツァウ(命令に命令、命令に命令)」「カウ・ラ・カウ、カウ・ラ・カウ(規則に規則)」と言い始めたら、つまり、何を言っているのかわからぬ言葉を口にするなら、神が何を言われたかを自分で調べなければならない。

(†心のデボーション00059)

† 心のデボーション 00060

「其名はバベル(淆亂)と呼ばるる」 創世記11:9 明治元訳聖書

「こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである」 新共同訳聖書

 「一つの民、一つの言葉」

バベルの塔(ヘブライ語:מגדל בבל‎、英語:Tower of Babel)

「バベル בָּבֶל 」は「‎בּלל 混ざる、混乱する」から来た言葉で、「淆亂(こうらん) みだれ」である。

「淆(こう)」は「まじる」、「亂(らん)」は「みだれる、みだす」を意味する。

このとき、地は「一つの民」であり、「一つの言葉」を用いていた。やがて人々は、天にまでとどく「邑と塔」を築きはじめたので、神は言葉を「混ぜられ」た。

それ以来、「一つの民」「一つの言葉」は人の心に深く眠り、時々目覚めては恐ろしいエネルギーを吐き出すようになった。

「一つの民以外は民にあらず」「一つの言葉以外に言葉なし」という世界を何よりも恐れる。

(†心のデボーション00060)

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