心のデボーション005

デボーション1
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† 心のデボーション 00041

「『また「たれか底なき所に下らん」と言ふなかれ』と。是キリストを死人の中より引上げんとするなり」 ロマ10:7 大正文語訳聖書

「また、『だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない』それはキリストを死者の中から引き上げることです」 新改訳聖書

 「底なき所 ἄβυσσος」

「底なき所 ἄβυσσος  アブスソス」は「βσσός 底なしの、海の深み、底」から来た言葉で「死者の住む所、黄泉、地獄」を意味する。

人は「地獄」を覗き見たがる。しかし、「いざ、そこに下りて、我ら見るべし」と言ってはならない。そこは「汚れし霊」でさえも行くことをためらうほどの「底なしの深淵」である。

後ろを振り向いて「塩の柱」になったロトの妻のこともある。

(†心のデボーション00041)

† 心のデボーション 00042

「死よ、なんじの勝は何虚(いずこ)にかある」 Ⅰコリント15:55 大正文語訳聖書

「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか」 新改訳聖書

 「しつこい借金取立人」

死はしつこい借金取立人のようだ。こちらが忘れようとしても、むこうは忘れることなどなく、いきなりやって来て戸を叩く。しかし、それは「死」そのものというよりも、「死への恐れ」だ。

「死」は穏やかに来るもので、恐れと一緒には来ない。

(†心のデボーション00042)

† 心のデボーション 00043

「汝かろがろしく出でて争ふことなかれ、恐らくは終にいたりて汝の鄰(となり)に辱められん。その時汝如何になさんとするか」 箴言25:8 明治元訳聖書

「軽々しく法廷に持ち出すな。さもないと、隣人が、お前に恥をかかせた時に、お前はどうすればよいか、分からなくなる」 フランシスコ会訳聖書

 「かろがろしく争う」

友よ、老いた日のためにこの箴言を覚えておこう。何故に我らが「かろがろしく争う」のか、その訳は誰にも分からないことも含めて。

(†心のデボーション00043)

† 心のデボーション 00044

「外にて汝の工(わざ)をととのえ田圃(はたけ)にてこれを自己(おのれ)のためにそなへ、然るのち汝の家を建てよ」 箴言24:27 明治元訳聖書

「お前の外での仕事をよく果たし、お前の畑をよく耕作し、その後で、お前の家を建てよ」 フランシスコ会訳聖書

 「然るのち汝の家を建てよ」

現代この箴言は「汝まず家を建てよ。しかる後、汝の工(わざ)をととのえ田圃(はたけ)に出で行き、ローンを支払え」と読むのが普通になった。そのため、我々は家に家の喜びなく、工(わざ)に工の悦びが消えようとしているのではないか。

(†心のデボーション00044)

† 心のデボーション 00045

「長(おさ)たる者は善き業の懼れ(おそれ)にあらず、悪しき業の懼れなり」 ロマ13:3 大正文語訳聖書

「実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です」 新共同訳聖書

 「長(おさ)たる者」

「善き業」をなす者は支配者を恐れず、「悪しき業」をなす者は身を隠す。

「長(おさ)たる者」が求めるのは「善き業」でも「悪しき業」でもなく、自分に都合の良い「業」である。

「善き業」であれ「悪しき業」であれ「長(おさ)たる者」に都合に悪いものはすべて「悪しきもの」となる。そのとき、迫害を受けるのは、身を隠すことを知らない「善き業」である。

「善き業」をなす者は、「悪しき業」をなす者の「身を隠す」知恵を学ぶべきか。

(†心のデボーション00045)

† 心のデボーション 00046

「若(もし)汝ら信ぜずば立つことを得じ」 イザヤ7:9 明治元訳聖書

「もし、あなたがたが信じなければ、長く立つことはできない」 新改訳聖書

 「信ぜずば知ることを得じ」

LXX 七十人訳は「ἐὰν μὴ πιστεύσητε οὐδὲ μὴ συνῆτε  汝ら信ぜずば知ることを得じ」となっている。

「信じる」は一つの「理解」である。「信じる」から始まる「理解」であり、「理解する」は「立つこと」である。「理解」が即「立つ」であるような「信」は神からくる。

信じなければ決して知ることの出来ないものがある。信じることに始まるのは、一つ一つの新しい事実であり、一つ一つの「立」である。

「なんじ我をたふさじとわが足をまもり」 詩篇56:13 明治元訳聖書

(†心のデボーション00046)

† 心のデボーション 00047

「ヨセフ寐(ねむり)より起き、主の使いの命ぜし如くして妻を納(い)れたり」 マタイ1:24 大正文語訳聖書

「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ」 新共同訳聖書

 「腹に抱える」

「妻を納(い)れる παραλαμβάνω  パラランバノー」は、彼女を「掴み、腹に抱える」こと。結婚は彼女に属するものを「主の命ぜし如く」引き継ぎ、己が腹に抱え込むことである。

夫たる者よ、「妻」の信じること、またその人間関係を丸ごと「腹に抱え」よ。

(†心のデボーション00047)

† 心のデボーション 00048

「汝は平康(やすき)にやすきをもて心志(こころざし)かたき者をまもり給ふ」 イザヤ26:3 明治元訳聖書

「志の堅固な国民を、あなたは全き平和のうちに守られます」 フランシスコ会訳聖書

 「シャローム、シャローム」

「心志(こころざし)かたき者」は七十人訳(LXX)では、「ἀντιλαμβανόμενος ἀληθείας  真実を捉えこれを掴む者」となっている。神はこれを「平康(やすき)にやすきをもて」守られる。(ヘブル語で「שׁלוֹם שָׁלוֹם シャローム、シャローム」は「全き平和」の意味である)

「平康(やすき)」は「畏れ」とともにある。

(†心のデボーション00048)

† 心のデボーション 00049

「また約束し給ひし者は忠實(ちゅうじつ)なれば、我ら言ひあらはす所の望を動かさずして堅く守り」 へブル10:23 大正文語訳聖書

「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようてはありませんか」 新改訳聖書

 「神の忠実」

私に約束してくださったのは、「忠実 πιστός  ピストス(信仰)なお方」である。神の「忠実 πιστός ピストス(信仰)」が私に入り、私は「我が言ひあらはす所の望を動かさずと信じた(πιστός ピストス)」のである。

言いあらわす所の希望揺らぐことなし。

(†心のデボーション00049)

† 心のデボーション 00050

「さらば悔改に相應(ふさは)しき果を結べ」 マタイ3:8 大正文語訳聖書

「それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい」 新改訳聖書

 「悔い改めに値する実」

永井訳は「この故に悔い改めに値する実を出だせ」である。「悔い改め」と同じ量と質の「実」を「出だせ」と訳す。どのような「悔い改め」にも「相應(ふさは)しき果」は、すでに来ている。ただ、この「実」は「出だす」意志がなければ育たない。

(†心のデボーション00050)

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