† 心のデボーション 00031
「あゝ美(うるは)しきかな、わが佳耦(とも)よ」 雅歌4:1 明治元訳聖書
「わたしの愛する人。あなたは何と美しいことか」 フランシスコ会訳聖書
「わが佳耦(とも)よ」
モンテーニュは「空腹の人間がご馳走よりも美しい着物を得ようとするのは実にばかげている」と言うが、現代は「美しい着物を得ようとして、空腹をこらえる娘」が増えている。実にばかげている。
「佳耦(とも)」の「佳」は「美しい」、「耦」は「並んで耕す」で「美しきつれあい」の意味。「わがつれあい」は並んで畑を耕す美しい人のことである。
(†心のデボーション00031)
† 心のデボーション 00032
「エホバよ、なんじの大路をわれにしめし、なんじの徑(みち)をわれにおしへたまへ」 詩篇25:4 明治元訳聖書
「主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください」 新改訳聖書
「主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください」 新共同訳聖書
「花徑(ホアジン)」
「大路」は死海の東を南北に走る「王の道」で、大海沿いの「海の道」があり貿易の荷車が行き交い兵の馬の疾走する幹線道路である。
「徑」は小道で、杜甫の詩には「花徑(ホアジン)」という言葉がある。狭いが脇を小川が流れ、野の花の咲く道である。
神の道には大路あり、小道あり。神よ、私に「大路」をしめし、「花徑」(神に従う道)を教え給え。
大路に道あり、小道に道あり。小道、大路に導き。大路、小道に隠れ居る。
(†心のデボーション00032)
† 心のデボーション 00033
「我心を盡し知慧をもちひて天が下に行わるる諸の事を尋ねかつ考覈(しらべ)たり、此苦しき事件(わざ)は神が世の人にさづけて之に身を労せしめ給ふ者なり」 伝道1:13 明治元訳聖書
「わたしは、天の下で行われるすべてのことについて、知恵を用い探り究めようと志した。これはつらい務めであり、神が人の子に与えた労役である」 フランシスコ会訳聖書
「尋ねかつ考覈(しらべ)たり」
「覈(かく)」は「事実を明らかにすること」で「考覈(こうかく)」は「考え調べること」である。
「天が下」の出来事の諸々を「考覈(しらべ)」ることは神が与えた「苦しき事件(わざ)」だと箴言はいう。
「覈」には「危言覈論 きげんかくろん(危険を顧みずに直言し、激しく議論を戦わせる)」、「検覈 けんかく
(きびしく調べる)」、「研覈 けんかく(事実を詳しく調べる)」「推覈 すいかく(罪を取り調べる)」、「精覈 せいかく(詳しく調べ、明らかにする)」などあり、いずれも神が人に与えた「苦しき事件(わざ)」「つらい務め」である。
だがソロモンは「知恵のとの交わりには、つらきことなし」(ソロモンの知恵8:16)という。
「天が下に行わるる諸の事を尋ねかつ考覈(しらべ)る」はつらいが虚しくはない。
(†心のデボーション00033)
† 心のデボーション 00034
「たとひ戦いおこりて我をせむるとも我になほ恃(たのみ)あり」 詩篇27:3 明治元訳聖書
「軍勢がわたしに対して陣を敷いても、わたしの心は恐れない。わたしに対する戦いが起ころうとも、わたしは信頼を失わない」 フランシスコ会訳聖書
「我になお恃(たのみ)あり」
「私に対する戦い」が起こった。軍勢が陣を敷き、ひとり私に向かって備えた。
しかし、詩人は「我になお恃(たのみ)あり」という。「今、この私の(所に)恃(たのみ)あり」という。
戦いがあり、私ひとりを目指して押し寄せる兵の姿が見えるその場に、恃(たのみ)ありという。
(†心のデボーション00034)
† 心のデボーション 00035
「斯(か)く凡ての事に汝らを煩わすまじと慎み」 Ⅱコリント11:9 大正文語訳聖書
「わたしは何事においてもあなたがたに負担をかけないようにしてきたし、これからもそうするつもりです」 新共同訳聖書
「汝らを煩わすまじ」
パウロは自分のことでコリントの信徒をいささかも「煩わすまい」と思う。「煩わすまじ ἀβαρής アバレース」は「ἀ 否定 + βάρος (重さ)」で、「目方がない、軽い」から「重くない、めんどうをかけない」の意味である。老いたる者の思いと覚悟も同じである。身重き者であるが、自分でそれを負いたいのである。
(†心のデボーション00035)
† 心のデボーション 00036
「汝の口の言葉を大風のごとくするや」 ヨブ8:2 明治元訳聖書
「いつまで、そんなことを言っているのか。あなたの口の言葉は激しい風のようだ」 新共同訳聖書
「ポストに嫌われる」
サッカーの選手が放ったシュートがゴールポストに当たって外にはじかれると、アナウンサーが「ポスト(バー)に嫌われましたね」と残念そうに叫ぶ。
「ゴールポスト」は円柱で、ボールが当たると、どこに飛ぶかわからない。そこで、ボールがゴールすれば「ポストに好かれた」のであり、外にはじかれれば「ポストに嫌われた」になる。
狙い澄ました「言葉」もポストに嫌われれば、「大風(「荒い風」口語訳)」になる。
(†心のデボーション00036)
† 心のデボーション 00037
「勝を得る者には我かくれたるマナを與へん」 黙示2:17 大正文語訳聖書
「勝利を得る者には隠されていたマンナを与えよう」 新共同訳聖書
「未だ味わいし事なき美味」
「イエス・キリストの御生涯に就いて深く黙想を凝らすこと、之を私共の最高要務とすべきである。誰でもその御霊をもつ者は、その中に「隠れる霊的食物(マナ)を見出す筈である」(アケンピス『基督のまねび』より)
我に隠されしマナあり。未だ味わいし事なき美味、隠しあり。
(†心のデボーション00037)
† 心のデボーション 00038
「神よねがはくはわれ老て頭髮しろくなるとも我がなんぢの力を次代にのべつたへ なんぢの大能を世にうまれいづる凡のものに宣傳ふるまで我をはなれ給ふなかれ」 詩篇71:18 明治元訳聖書
「わたしが老いて白髪になっても、神よ、どうか捨てないでください」 新共同訳聖書
「人にとりては、さとき心こそ白髪にして、汚れなき生涯こそ、まどかなる老年なれ」 ソロモンの知恵4:9 日本聖公会訳
「まどかなる老年」
老いて白髪にこそなったが、「さとき心」に遥か遠く、自分の汚れが見えてくる。それだけ「まどかなる老年」に近づいたということか。
(†心のデボーション00038)
† 心のデボーション 00039
「アブラハムの裔(こ)」 マタイ1:1 大正文語訳聖書
「亞伯拉罕(アブラハム)の裔」 漢訳聖書
「アブラハムの裔(こ)」
漢訳聖書、明治元訳聖書は、「子」に「裔(こ)」の字をあてる。「裔(こ)」は「衣服のふち、へり、すそ」を意味する言葉で、後代の子孫をさす。「裔孫」といえば「遠い子孫」である。
人は「衣服のふち、へり、すそ」までを含めての「私」である。「私」は自身の内に「遠い子孫のいのちとなるであろう信仰」を見出さなければいけない。
(†心のデボーション00039)
† 心のデボーション 00040
「今我一の願を汝に求む請ふわが面を黜くるなかれバテシバかれにいひけるは言されよ」 Ⅰ列王2:16 明治元訳聖書
「お願いを一つ申し上げます。断らないでください」 新共同訳聖書
「お願い」
元気すぎてママにしかられてばかりいる男の子がお祈りをしている。
「もっといい子になれるように神さまにお願いしたの?」
「ううん、ママがもっと辛抱強くなるようにお願いしたの」
(「ユーモア大百科」より)
神さまは男の子のお祈りにどうお答えになるのだろうか。
大抵の場合、反省すべきは子どもよりもママにある。いいママになりますように。
(†心のデボーション00040)
コメント