心のデボーション003

デボーション1
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† 心のデボーション 00021

「また言ひ給ふ『この故に、天國のことを教へられたる凡ての學者は、新しき物と舊き物とをその倉より出す家主のごとし』」 マタイ13:52 大正文語訳聖書

「自分の倉から新しいものと古いものを取り出す」 新共同訳聖書

 「自分の倉」

人は皆「自分の倉」をもっている。そこには大量の古い記憶が保管されている。問題はその量ではなく、いかにして、それを倉から取り出して、仕事をさせるかにある。

今を新しくするのは、倉に仕舞われた「古いもの」である。

古いものはそのままでは役に立たない。取り出す度に新しいものに変容するものこそ、倉に置くにふさわしい。

自分の倉を、常に「古きもの」と「新しきもの」を取り出せる倉にしておきたい。

(†心のデボーション00021) 

† 心のデボーション 00022

「汝らの新田を耕せ。荊棘(いばら)の中に種(ま)くなかれ」 エレミヤ4:3 明治元訳聖書

「耕地を開拓せよ。いばらの中に種を蒔くな」 新改訳聖書

「自分たちで休閑地を耕せ。茨の中に種を蒔くな」 フランシスコ会訳聖書

 「新田を耕せ」

新田は荊棘(いばら)のしげる、石くれの混じる荒地である。荊棘(いばら)は手を傷つけ、石は鍬を拒む。

荒れた地よ、お前はわたしの新田、神のゆずりの地。岩も砕けば土になろう。荊棘(いばら)も埋めれば堆肥の足しにもなろう。

「貧しき者の新田にはおほくの糧あり」 箴言13:23 明治元訳聖書

(†心のデボーション00022)

† 心のデボーション 00023

「言語(ことば)を出して時に適うはいかに善(よ)からずや」 箴言15:23 明治元訳聖書

「時宜にかなったことばは、いかにも麗しい」 新改訳聖書

「時を失したる戒めあり。沈黙を守りて賢き人あり」 ベンーシラの知恵20:1 日本聖公会訳

 「時に適う言葉」

「時に適う言葉」は善い。時を失した言葉ほどむなしいものはない。むしろ、沈黙すべきなのだ。しかし、私はいつもいらぬことを口にしてしまう。何がその時に「適う言葉」かは、ほとんどわからないからだ。だから沈黙だけはしないと心に決めている。

(†心のデボーション00023)

† 心のデボーション 00024

「キリストの系圖(けいず)」 マタイ1:1 大正文語訳聖書

「イエス・キリスト<メシヤ、油そそがれたかた>の家系の書<系図>」 詳訳聖書

 「いのちの鎖」

マタイの福音書の冒頭で、アブラハムからイエスまで、我々は沢山の人の名を読むことになる。その名の数だけの固有ないのちがある。異なるいのちは繋がれて1本の鎖となる。

人間は多様である。しかし、その一つも「失われてよい」いのちはない。

「私」の内には、人間によって生きられたいのちが全体として宿っている。そこから「私」への歩みが始まる。

(†心のデボーション00024)

† 心のデボーション 00025

「心の苦みは心みづから知る其よろこびには他人あづからず」 箴言14:10 明治元訳聖書

「心がその人自身の苦しみを知っている。その喜びにもほかの者はあずからない」 新改訳聖書

 「苦しみの素顔」

苦しみは常に姿を変え、めったに素顔を現さない。しかし、今や他人にはあらわさない苦しみがその素顔を私に伝えてきた。本性をあらわさない苦しみがその姿を伝えてきたこと自体は歓迎したい。己に来るものを余すところなく知ることが心の求めるところだからである。

私の苦しみは人にはわからない。そして私の喜びもまた人にはわからない。ただ、私の苦しみを私の心が知り、私の喜びを私の心が知る。それだけで充分なのだ。

私の心が私の苦しみを知らず、私の喜びを知らない。そのことが何よりもつらい。

(†心のデボーション00025)

† 心のデボーション 00026 

「かれ老て身重かりければなり」 Ⅰサムエル4:18 明治元訳聖書

「思いわずらいは、年に先立ちて人を老いしむ」ベン=シラの知恵30:24 日本聖公会訳

 「年に先立ちて老いる」

老いた人に「あなたは何ゆえに思い煩うのか」と尋ねよ。「思い煩いなき娘、息子のゆえに」(イザヤ32:9)と答えるだろう。この思い煩いが「年に先立ちて人を老いしむ」のだ。

祭司エリは城門の上からあおむけに落ちて、首を折って死んだ。それは「老いてからだが重たかったから」と説明されているが、ただ「太っていた」だけではあるまい。(Ⅰサムエル4:18) 痩せていても年寄りの身体は重いのである。

(†心のデボーション00026)

† 心のデボーション 00027

「盗人の穿ちて盗むところなる地に、財を蓄うるなかれ」 マタイ6:19 大正文語訳聖書

「汝等のために蠹(しみ)と錆(さび)との損ふところ、また盗人の穿ちて盗む處なる地に、財を蓄うる勿れ」 永井直治訳聖書

 「盗人の穿ちて盗む」

ユダヤの家は土でかためられており、「盗人」は夜の闇にまぎれて家に穴をあけて押し入った。

モンテーニュに「錠前は泥棒を誘う。押し入り強盗は戸の開いた家の前を素通りする」というゴマラ「インド通史」3-30からの引用がある。

盗まれまいとして壁を厚くするのもよいが、戸に鍵をしないという裏ワザもある

(†心のデボーション00027)

† 心のデボーション 00028

「なんじら既に飽(あ)き、既に富めり」 Ⅰコリント4:8 大正文語訳聖書

「あなたがたは、もう満ち足りています。もう豊かになっています」 新改訳聖書

 「既に飽き」

満ち足りて豊かというのではない。あたかも飽きた者のごとく、富める者のごとくであるというのだ。私は器が小さければわずかで満ちると思っていた。ささやかに「満ち足りる」と。

だが、小さいなりに富者の「既に飽き」の奢りがある。器の容積の問題ではない。

(†心のデボーション00028)

† 心のデボーション 00029

「ヨブ土瓦(やきもの)の碎片(くだけ)を取り其をもて身を掻き灰の中に座りぬ」 ヨブ2:8 明治元訳聖書

「ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった」 新共同訳聖書

 「灰の山」

エルサレムの城門の外にヒンノムの谷(ヘブライ語ゲーヒンノーム(גי(א)-הינום  )があり、そのギリシャ語からゲヘナ(英語 Gehenna)と呼ばれた。ごみの焼却場で、火が燃え続け、処刑された罪人の身体や、家畜の死骸が焼か、悪臭が漂い、それらが堆積して「灰の山」になった。

ヨブは人々から離れ、一人ゲヘナの「灰の山」に座り、頭から灰をかぶり、土瓦(やきもの)の碎片(くだけ)で身を掻いた。

心のどこかに「灰の山」をもたぬ人はいない。悲しみの涙を流す嘆きの場である。

(†心のデボーション00029)

† 心のデボーション 00030

「愛を追求むる者は人の過失(あやまち)をおほふ」 箴言17:9 明治元訳聖書

「愛を求める人は罪を覆う」 新共同訳聖書

 「愛は過ちをおおう」

愛は人の過ちをおおう。人の目からだけでなく、自分の目からも隠す。愛が求めるのは「人の過失」ではなく「ゆるし」である。

「覆う」は母鳥が雛を抱えるように「抱きしめる」の意味である。愛は「罪」を「抱きしめ」、いのちを生み出す。

(†心のデボーション00030)

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