心のデボーション002

デボーション1
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† 心のデボーション 00011

「汝の少(わか)き日に汝の造主を記えよ 即ち惡き日の來り年のよりて我は早何も樂むところ無しと言にいたらざる先  また日や光明や月や星の暗くならざる先 雨の後に雲の返らざる中に汝然せよ」 伝道12:1~2 明治元訳聖書

「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」 新改訳聖書

「若き日になんじ何ものをも集めざりき。いかで老いたるときにこれを見だし得んや」 ベン=シラの知恵25:3 日本聖公会訳

 「集め損ねたもの」

私も若き日に集めることをしなかった。しかし、老いた日に集まり来るものもある。そうであるならば、若き日に集めるべきと思うものと、老いた日になって若き日に集め損ねたと思うものは別物かもしれない。

私は若き日の未熟な日々を悔いない。その日でさえも知らずして集めることをしていたのだ。私の集めた若き日の悩みを尊しと思える老いた日の来るを喜ぶ。 

(†心のデボーション00011)

† 心のデボーション 00012

「アダム其妻エバを知る彼孕みてカインを生みて言けるは我ヱホバによりて一個の人を得たりと」 創世記4:1 明治元訳聖書

「わたしは主によって、ひとりの人を得た」 口語訳聖書

 「一個(ひとり)の人」

カインが誕生したとき、アダムは「我エホバによりて一個(ひとり)の人を得たり」と言った。アダムにとって赤子の誕生は「一個の人」を得ることであった。地平のかなたから出現する旅人のように、礼をもって子どもを「一個の人」として迎えたのである。

子どもは未熟な大人ではなく、「子どもという一個の人間」である。 

(†心のデボーション00012)

† 心のデボーション 00013

「智慧と權能(ちから)は神に在り 智謀(ちぼう)と穎悟(さとり)も彼に屬す」 ヨブ12:13 明治元訳聖書

「知恵と力とは神とともにあり、思慮と英知は神のものだ」 新改訳聖書

「賢からざる者は教えられじ。されど苦しみを増す賢さもあり」 ベン=シラの知恵21:12 日本聖公会訳

 「真実を知る」

真実を知ることは必ずしも良きことばかりではない。それを知ることによって「苦しみを増す」こともある。しかし、たとえ心が痛むことになっても真実に蓋をすることはするまい。苦しみもまた「賢さ」の一部だ。

ただ、真実が自ら蓋をしているときに、力で無理やりこじ開けようとしてはいけない。そんなことをすれば「真実」が壊れてしまう。傷ついた真実は癒し難い。 

(†心のデボーション00013)

† 心のデボーション 00014

「價たかき眞珠一つを見出さば、往きて有てる物をことごとく賣りて、之を買ふなり」 マタイ13:46 大正文語訳聖書

「高価な真珠を一つ見出すと、商人は自分の持ち物をことごとく売りに行き、それを買った」 フランシスコ会訳聖書

 「ときめき片づけの魔法」

2015年4月16日、米誌タイム(電子版)が毎年恒例の「世界で最も影響力のある100人」を発表し、日本人から作家の村上春樹さんと片づけコンサルタントの近藤麻理恵さんの二人が選ばれた。近藤さんの「人生がときめく片づけの魔法」の英語版が米国で話題になっているという。

近藤さんの「片づけの魔法」は不必要なものを棄てるのではなく、「ときめき」を感じる物を残すやり方だ。

物を持ちすぎた人が整理を真剣に考える時代に入った。「持てるものをことごとく捨てる」のが整理ではなく、「値高き真珠一つ」を見出すことが真の整理になる。

しかし、持ち物の中で「ときめき」を感じるモノは、「値高き真珠一つ」と同様に、めったなことで見い出せるものでもない。

(†心のデボーション00014)

† 心のデボーション 00015

「地は芽をいだし畑はまけるものを生ずるがごとく 主ヱホバは義と譽とをもろもろの國のまへに生ぜしめ給ふべし」 イザヤ61:11 明治元訳聖書

「まことに、地がその芽を萌え出てさせるように、園が蒔かれたその種を芽生えさせるように、主なる神は、すべての国の前で、正義と賛美を芽生えさせる」 フランシスコ会訳聖書

 「ジャガイモの芽」

ジャガイモは地を押し上げて芽を出す。神は「義と誉」をもろもろの国の地を割って生ぜしめ給う。いかなる力も、これを押さえ込むことはできまい。

神はこの国の前に「私」を生ぜしめ給うか。

(†心のデボーション00015)

† 心のデボーション 00016

「心の苦みは心みづから知る其よろこびには他人あづからず 」 箴言14:10 明治元訳聖書

「心がその人自身の苦しみを知っている。その喜びにもほかの者はあずからない」 新改訳聖書

「心の傷にあらずば、いかなる傷にてもよし」 ベン=シラの知恵25:13 日本聖公会訳

 「心の傷」

ベン=シラの知恵25:13は、心の傷にくらべれば身体の傷の痛みは耐えやすいという意味ではないと思う。身体の痛みは一旦それが始まれば、心は萎えて、心の痛みも忘れるのである。ただ、心の傷は癒され難いという点で、いつかは収まるかもしれぬ「身体の傷」の方が「よし」と言えるかもしれない。

人はだれでもみな心の傷をもっている。その傷の深さの中に「私」はある。傷を受けた者だけが、癒しの喜びを知る。不幸なのは心の傷などないというほどに深く傷つけられた人である。 

(†心のデボーション00016)

† 心のデボーション 00017

「萬軍のヱホバかく宣へり云く正義き審判を行ひ互に相愛しみ相憐め」 ゼカリヤ7:9 明治元訳聖書

「互いに心の中で悪をたくらむな」 新改訳聖書

「妻の悪にあらずば、いなかる悪にてもよし」 ベン=シラの知恵25:13 日本聖公会訳

 「愛の悪」

「妻の悪」というものがある。その中でも辛いのは「愛の悪」であろう。いかなる悪をも凌ぐ激しい愛である。そして、さらに辛いのは、妻に「愛の悪」を犯させてしまう夫の無力である。 

(†心のデボーション00017)

† 心のデボーション 00018

「彼らはクレメンス其のほか生命の書に名を録されたる我が同勞者と同じく、福音のために我とともに勤めたり」 ピリピ4:3 大正文語訳聖書

「いのちの書に名のしるされているクレメンス」 新改訳聖書

 「私のはじめ」

新約聖書の冒頭の言葉は「Βίβλος γενέσεως ᾽Ιησοῦ Χριστοῦ υἱοῦ Δαυὶδ υἱοῦ ᾽Αβραάμ.」であり、旧約聖書の第一書「創世記」は ‎רֵאשִׁית  Genesis と呼ばれる。LXXにおいて「創世記」は「ΓΕΝΕΣΙΣ  ゲネシス Genesis」であり、創世記5:1「系図の書」は「Βίβλος γενέσεως」と表現される。

「創世記 Genesis」は「Book of beginnings  始源の書」であり、「系図の書 Βίβλος γενέσεως」 は「Record of beginnings」である。創世記は「私」の「はじめ」について語り、マタイは「私」の救いの「はじめ」について語る。共に「いのちの書 βίβλος ζωή」である。

私たちは「いのちの書 βίβλος ζωή」(ヒィリピ4:3、黙示3:5)に、自分の名の刻まれたのを知る。しかし、私は聖書のどこに、「私のはじめと終わり」が、そしてどのように「私の存在の名」が刻まれてあるのを見出すのだろうか?

(†心のデボーション00018)

† 心のデボーション 00019

「人の仇はその家の者なるべし」 マタイ10:36 大正文語訳聖書

「自分の家族の者は敵となる」 フランシスコ会訳聖書

「憎む者よりの攻撃にあらずば、いかなる攻撃にてもよし」 ベン=シラの知恵25:13 日本聖公会訳

 「愛する者よりの攻撃」

「憎む者よりの攻撃」には何とか耐えたとしても、「愛する者よりの攻撃」あらばなんとする?

(†心のデボーション00019)

† 心のデボーション 00020

「之を作り終(あ)ぐべし」 創世記6:16 明治元訳聖書

「仕上げよ」 フランシスコ会訳

 「作り終(あ)ぐ」

これまでどれほど多くを試しながら、「作り終(あ)ぐ」ことが出来なかったことだろうか。

「方舟」はノアの「作り終(あ)ぐ」べきものだった。

私にも自分の手で是非とも「作り終(あ)ぐ」べき「方舟」がある。

「方舟」は常住するところではない。襲いくる怒りの海を航海し、いつかは地に私を戻す舟である。

(†心のデボーション00020)

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