心のデボーション001

デボーション1
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† 心のデボーション 00001

「アブラム乃(すなは)ちヱホバの自己(おのれ)に言たまひし言に從て出たり ロト彼と共に行りアブラムはハランを出たる時七十五歳なりき」 創世記12:4 明治元訳聖書

「アブラハムは主の仰せになったとおりに出発した」 フランシスコ会訳聖書

 「出発 アブラハムとロト」

アブラハムは「自己(おのれ)に言いたまいし言(こと)に従いて」出発し、ロトは「アブラハムと共に従う」。「自己(おのれ)に言いたまいし言(こと)に従いて出発する」のと、「彼と共に行く」ことでは、根本的な違いがある。

ベン=シラの知恵21:8に「他人の金にて家を建つる人は、おのが墓のために石を集むる人のごとし」とある。

アブラハムの出発はアブラハムの「自己(おのれ)に言いたまいし言(こと)に従いて出でたる」もので、アブラハムだけの出発である。ロトにはロトの「出発」がなければならなかった。

ロトは「他人の金にて家を建つる人」で、その出発は「おのが墓のために石を集むる」にすぎなかった。

小さくても、自分の金にて家は建てたい。貧しくても「私」に語られる神の言葉に従って今日を出発したい。

(†心のデボーション00001)

† 心のデボーション 00002 

「そはヱホバは智慧をあたへ 知識と聰明とその口より出づればなり」 箴言2:6 明治元訳聖書

「知恵を授けるのは主。主の口は知識と英知を与える」 新共同訳聖書

「われ量りをもて教えを分かち与え、確かなる知識を告げん」 ベン=シラの知恵16:25 日本聖公会訳

 「悩みと智慧」

主の御手には「はかり」があり、一方の皿には「悩み」が載せられ、もう一方には「智慧」が載せられる。

神は悩みに見合うだだけの「智慧」を量り与え給う。深い悩みには同量の「智慧」が量り与えられ、軽ろき悩みには同量の「智慧」が量り与えられよう。

「軽ろき悩み」に「深い智慧」は不必要なのではなく、「深い悩み」に「浅き智慧」は意味がないのでもない。「深い悩み」を「浅き智慧」が解決することも、「軽ろき悩み」に「深い智慧」を必要とすることもある。神はその「悩み」に見合った「智慧」をくださる。

深くても軽くても現在の「悩み」を解決してくれるのが神からの「智慧」だ。

「智慧」を量り与えられるには、悩む力を失ってはいけない。 

(†心のデボーション00002)

† 心のデボーション 00003

「妻を得るものは美物を得るなり 且ヱホバより恩寵をあたへらる」 箴言18:22 明治元訳聖書

「良い妻を見つける者はしあわせを見つけ、主からの恵みをいただく」 新改訳聖書

 「割れ鍋にとじぶた」

割れ鍋にとじぶたの、どちらが歪に合わせるかといえば、それはとじぶただろう。

始めから割れ鍋にピッタリのとじぶたなどあるはずもない。鍋の歪に、とじぶたは身を捩り、少しでもすき間を埋めようとしたのだ。そうやって、長い間連れそううちに、とじぶたに鍋の歪が移され、それが少しも不自然に感じられなくなったのだ。

私としては、とじぶたに深く感謝したい。

(†心のデボーション00003)

† 心のデボーション 00004

「汝猝禅(にわか)なる恐懼(おそれ)をおそれず」 箴言3:25 明治元訳聖書

「にわかにおこる恐慌」口語訳  「突然襲う恐怖」新共同訳  「にわかにおこる恐怖」新改訳

「不意に起こる恐怖」フランシスコ会訳  「突如としてくる恐怖」バロバロ訳

 「にわかに起こる恐怖」

江戸時代から明治時代にかけて、宴席や路上などで行われた即興の芝居を「俄狂言(にわかきょうげん)」といった。素人が路上や座敷で突然はじめる即興の狂言で「いきなり始まる」ことを「俄」と呼ぶようになった。

「にわか雨」など、一時的な雲行きであり、軒下に逃げれば、じきに通りすぎる。

しかし、「にわかに起こる恐怖」はそうはいかない。突如として、それも原因もわからないままに始まり、いつまでも身に張りつくことがある。

「にわかに起こる恐怖」は「にわか雨」と心得て、近くに恰好な軒を見つけてやり過ごすのもよい。雨上がりを待つ間に、「主がわたしの傍らにいます」(箴言3:26)を取り戻せばさらによい。

「軒の下」は一刻身を寄せ、雨を避けるだけの仮の場所で、いつまでも居るところではない。例えばカウンセリングがそれである。 

(†心のデボーション00004)

† 心のデボーション 00005

「われ汝の行爲を知る、なんぢは冷かにもあらず熱きにもあらず、我はむしろ汝が冷かならんか、熱からんかを願ふ」 黙示3:15 明治元訳聖書

「あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい」 新改訳聖書

「お前は冷たくもかく熱くもない。むしろ、熱いか冷たいか、いずれかであればよいものを」 フランシスコ会訳聖書

 「初心」

「初心忘れるべからず」は、始めの下手な芸位を捨てずに取っておくの意である。高い芸位に達した者が初心の芸を演じる。名人はその道の極意を尽くして、修行していない普通の人と同じところに立つ。そこに新しい初心が始まるという。

信仰が冷たくもなく熱くもないというのは、若い頃の未熟を捨ててしまったからではないか。信仰も又、極めるほどに下手が大切になる。

(†心のデボーション00005)

† 心のデボーション 00006

「ヱホバ神の造りたまひし野の生物の中に蛇最も狡猾(さが)し蛇婦に言ひけるは神眞に汝等園の諸の樹の果は食ふべからずと言たまひしや」 創世記3:1  明治元訳聖書

「さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった」 口語訳聖書

「へびよりのがるるごとく罪よりのがれよ、これに近づかば罪なんじをかまん」 ベン=シラの知恵21:2 日本聖公会訳

 「噛みつく蛇」

罪は「噛みつく蛇」である。迂闊に手を出せば毒の牙を向ける。しかし、エバは蛇に驚かないばかりか、親しげに言葉を交わす。(創世記3:1) 蛇が「野の生き物のうちで最も賢い」といわれるのは、「毒の牙」を「目に美麗しく」見せることによる。噛まれた者は自らを「賢い」とさえ感じてしまう。

「蛇」を見たら直ちに「逃れ」よ。「その傷」は「癒すすべがない」(ベン=シラの知恵21:3)。

だが、それができるだろうか? 人にとって蛇は「野の生き物のうちで最も魅力的」な話し相手なのだ。 

(†心のデボーション00006)

† 心のデボーション 00007 

「彼を尊べ さらば彼なんぢを高く擧げん もし彼を懐かば彼汝を尊榮(たふと)からしめん」 箴言4:8 明治元訳聖書

「それを尊べ。そうすれば、それはあなたを高めてくれる。それを抱きしめると、それはあなたに誉れを与える」 新改訳聖書

 「知恵を抱きしめる」

文中の「彼」は「智慧」であり、「智慧を尊べ、智慧を懐かば」である。 新改訳聖書は「知恵を抱きしめる」とする。

「智慧」は「卵」のようで、外に置いては何も始まらない。雌鶏が卵を抱くように、懐深くに抱きしめ、しばらく身の温もりを伝えなければならない。時満ちていのちが生まれ出る。

智慧を温め、それが孵化するのを待つ。やがて、抱かれているのはこちらであることが判る。智慧が私を懐深く抱き、「私」を孵化し、いのちを生もうとしている。 

(†心のデボーション00007)

† 心のデボーション 00008

「ヱホバかくイスラエルの家に言たまふ 汝ら我を求めよ さらば生べし」 アモス5:4 明治元訳聖書   

「わたしを求めて生きよ」 新改訳聖書

「わたしを求めよ、そして生きよ」 新共同訳聖書

「わたしを求めよ、そうすればお前たちは生きる」 フランシスコ会訳聖書

 「求めて生きよ」

「求めて生きよ」は「求めよ、そうすれば生きる」とも読める。アモスは「神を求めて生きよ」と奨めるのである。自分を知り、人を知って、それに仕えるために、「神」に来なければならない。

神を忘れるとき、私は愛することを忘れている。ありふれたことの中に神が在すことを忘れている。「意味のないありふれたこと」など一つもない。

(†心のデボーション00008)

† 心のデボーション 00009

「人もし汝に悪を為さずば、故なく之と争うことなかれ」 箴言3:30 明治元訳聖書

「理由もなく人と争うな」 新改訳聖書

「ゆえなく、これと争ってはならない」 口語訳聖書

 「故なき争い」

「故なき争い」というものがある。どうしてこれ程怒れるのかというほどの憤りだが、その「故」がはっきりとは見えない。「故なき争い」は褒められたことではない。しかしそれを恥じても問題は解決しない。「故」は自分の内に隠れている。それを引きずり出すしかない。

相手が「悪を為さない」ことに苛立って「争いごと」をしかけることもある。そのとりすました顔の下にある別の顔を暴いてやりたいと思うのだろうが、実は自分の中に暴き出されるべきものが隠されていることも少なくない。

「故もなく חִנָּ֑ם」は「いたずらに」の意味であるが、「いたずらに」扱うべきことではない。 

(†心のデボーション00009)

† 心のデボーション 00010

「事の終はその始よりも善し 容忍(しのぶ)心ある者は傲慢(ほこる)心ある者に勝る」 伝道7:8 明治元訳聖書

「事の終わりは始めにまさる」 新共同訳聖書

「始めの人、全くは知恵を知らざりしごとく、終わりの人もまた、その深さを量ることあたわじ」 ベン=シラの知恵24:28 日本聖公会訳

 「始めと終り」

私の中には常に「始め」と「終り」がある。それを「始めの人」と「終りの人」としよう。

「智慧の始め」に私は「自分は全く智慧を知らない」と認識するが、「容忍(しのぶ)心」があるならば、「智慧の終わり」に「自分は全く智慧を知らない」と思うほどに智慧を知る。「始め」の私と「終り」の私は同じではない。

「終り」を目指して歩み出した人は、実は「始まり」に向かうのである。 

(†心のデボーション00010)

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