心のデボーション6281
「汝もし此等のことを兄弟に教へば、信仰と汝の從ひたる善き教との言にて養はるる所のキリスト・イエスの良き役者たるべし。」 Ⅰテモテ4:6 大正文語訳聖書
「これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたは、信仰の言葉とあなたの従ってきた良い教の言葉とに養われて、キリスト・イエスのよい奉仕者になるであろう。」 口語訳聖書
「信仰の養い」
「信仰の養い」は「神の御言葉」による。(Ⅰテモテ4:6) 「養われてἐντρέφω」は「養われ続けて」と行為の継続をあらわす言葉である。この語は「ἐν~の中に」+「τρέφω育てる、養う、栄養を与える」からなり、「養い」は「栄養を与える」から来ている。神の御言葉は信仰に「栄養を与え続け」、主の御心にかなう信仰を「養い続ける」。
関連ギリシャ語
(ντρέφω「養い」G1789)
(心のデボーション6281)
心のデボーション6282
「ヱホバまたモーセに言たまひけるは我この民を觀たり視よ是は項の強き民なり」 出エジプト32:9 明治元訳聖書訳
「主はまたモーセに言われた、「わたしはこの民を見た。これはかたくなな民である。」 口語訳聖書
「うなじのこわい民」
旧約聖書でイスラエルの民は繰り返し「うなじのこわい民」と呼ばれた。「うなじがこわい」はヘブル語で「首を固くする」である。手綱を右に引いても、左に引いても、馬が首を立てて御者のいうことを聞かないところからきた表現である。首を固くして、従うことを拒み、意地を張る。哀しいまでの強情さに、自分でも手を焼く。これもまた、「私」である。ギリシャ語πώρωσιςは「かたくな」を意味するが、これは「石のようにかたい心」で、「たこが出来て硬化した様」をあらわず。心にたこができて無感覚になったのだ。
関連ギリシャ語
(πώρωσις「かたくな」G4457)
(心のデボーション6282)
心のデボーション6283
「また神の榮光の勢威に隨ひて賜ふもろもろの力によりて強くなり、凡ての事よろこびて忍び、かつ耐へ、」 コロサイ1:11 大正文語訳聖書
「更にまた祈るのは、あなたがたが、神の栄光の勢いにしたがって賜わるすべての力によって強くされ、何事も喜んで耐えかつ忍び、」 口語訳聖書
「柳に風折れなし」
「柳に風折れなし」という。柳の枝は細くて、弱そうに見えるが大風にも耐える。ただし、強風の中の柳は大変だ。「髪振り乱す鬼女のごとし」で、近寄ることもできない。弱さのなかにも、この強さがあるのかもしれない。
関連ギリシャ語
(ἐκλύω「弱り果てる」G1595)
(δοκιμή「試練」G1382)
(δυναμόω「強くされ」G1412)
(心のデボーション6283)
心のデボーション6284
「われ霊魂をなんぢの手にゆだぬ ヱホバまことの神よなんぢはわれを贖ひたまへり」 詩篇31:5 明治元訳聖書
「わたしは、わが魂をみ手にゆだねます。主、まことの神よ、あなたはわたしをあがなわれました。」 口語訳聖書
「主にゆだねる」
自分のたましいを主にゆだねた詩人は、続いて、主が「たましいの苦しみを知っておられた」と告白する。「たましい」とは「いのちの力」「いのちの息」を意味する。たましいの「息」と「力」を主に渡すとき、心は平安に満たされる。この世で知ったたましいの苦しみのすべてを「主は知り、あがない出して」くださる。
関連ギリシャ語
(ψυχή「魂、いのち」G5590)
(διατίθεμαι「委ねる」G1303)
(心のデボーション6284)
心のデボーション6285
「それは主のことば汝等より出でて、啻にマケドニヤ及びアカヤに響きしのみならず、神に對する汝らの信仰のことは諸方に弘りたるなり。されば之に就きては何をも語るに及ばず」 Ⅰテサロニケ1:8 大正文語訳聖書
「すなわち、主の言葉はあなたがたから出て、ただマケドニヤとアカヤとに響きわたっているばかりではなく、至るところで、神に対するあなたがたの信仰のことが言いひろめられたので、これについては何も述べる必要はないほどである。」 口語訳聖書
「語られた主のことば」
語られた「主のことば」は「マケドニヤとアカヤとに響きわたった」。(Ⅰテサロニケ1:8) 「響き渡るἐξηχέομαι」は「遠くまで鳴り響く」の意。ἐξηχέομαιは「ἐκ外へ、~から」+「ἠχέω響く、音を出す」からなる語で、「ἠχέω響く」は英語の echo(エコー) の語源でもある。語り告ぐ「主の言葉」は口から出て、「はるか遠く山々まで鳴り響いて仕事をし」、木霊となって戻ってくる。語られた主の言葉は、想像もできない所で、主の業を成し遂げる。
関連ギリシャ語
(ἐξηχέομαι「響き渡る」G1837)
(心のデボーション6285)
心のデボーション6286
「また『視よ、此處に在り」「彼處に在り」と人々言はざるべし。視よ、神の國は汝らの中に在るなり』」 ルカ17:21 大正文語訳聖書
「また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」 口語訳聖書
「神の国」
「神の国」は「ここ」でなく、「あそこ」でもなく、「実にあなたがたのただ中にあるἡ βασιλεία τοῦ θεοῦ ἐντὸς ὑμῶν ἐστιν」。(ルカ17:21) 「ただ中にἐντός」は「内側に」の意。「神の国」は「存在の内側に」、そして「ここ」でなく、「あそこ」でもなく、「存在の内側に神の国を持つ人々」の間にある。「神の国ἡ βασιλεία τοῦ θεοῦ」は「神の御支配、王権、王国」である。
関連ギリシャ語
(βασιλεία「主権、王国」G932)
(ἐντός「只中に」G1787)
(心のデボーション6286)
心のデボーション6287
「人を審くな、さらば汝らも審かるる事あらじ。人を罪に定むな、さらば、汝らも罪に定めらるる事あらじ。人を赦せ、さらば汝らも赦されん。」 ルカ6:37 大正文語訳聖書
「人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。」 口語訳聖書
「不完全な私」
相手の不完全さは許せても、自分の不完全さを許すのは難しいものだ。「許すἀπολύω」は「そのままにしておく」という意味がある。それをあてはめれば、「相手をそのままにしておきなさい。そうすればあなたもそのままです」と読むことができる。自分をいじらないで、不完全なままにしておく。主は私の不完全さをかまわないで、そのままを受け入れてくださった最初の方である。
関連ギリシャ語
(ἀπολύω「許す」G630)
(心のデボーション6287)
心のデボーション6288
「未だ神を見し者なし、ただ父の懷裡にいます獨子の神のみ之を顯し給へり。」 ヨハネ1:18 大正文語訳聖書
「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。」 口語訳聖書
「神をあらわす」
「神を見た者はまだひとりもいないθεὸν οὐδεὶς ἑώρακεν πώποτε·」。(ヨハネ1:18) 「見るἑώρακεν」はὁράω(見る)の完了形で、過去の行為結果が現在まで続いていることを示す。神を見たという者は過去に、一人もいなかったし、現在もいない。ただ、「父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわす」のである。「あらわすἐξηγέομαιは「詳しく述べる」の意で、主イエスの御言葉のみが「神」について詳しく述べ、神をあらわされる。「あらわしたἐξηγήσατο」はアオリスト形で、行為が完了し、現在に及んでいることを示す。主イエスによる神についての啓示は完全であり、それに付け加えるものは何一つとしてない。
関連ギリシャ語
(ὁράω「見る」G3708)
(ἐξηγέομαι「あらわす」G1834)
(心のデボーション6288)
心のデボーション6289
「己がさばく審判(さばき)にて己もさばかれ、己がはかる量(はかり)にて己も量(はか)らるべし」 マタイ7:2 大正文語訳聖書
「あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。」 口語訳聖書
「あなたの裁く裁きで」
人から裁かれたら、自分も同様に相手を裁いていなか確かめてみる必要がある。人から「ばかにされる」のは、こちらにその人をばかにした態度が隠されているのかもしれない。
「あなたの裁く裁きで裁かれ、量る量りで量られる」。(マタイ7:2)
関連ギリシャ語
(μετρέω「量り与える」G3354)
(προνοέω「はかる」G4308)
(心のデボーション6289)
心のデボーション6290
「我等をしてみな信仰と神の子を知る知識とに一致せしめ、全き人、すなはちキリストの滿ち足れるほどに至らせ、」 エペソ4:13 大正文語訳聖書
「わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。」 口語訳聖書
「全き人」
「全き人」とは「神の子を信じる信仰の一致」と「神の子を知る知識の一致」に「到達した人」である。「一致」という言葉は「結ばれる」という概念を反映する。「全き人τέλειος」は完全な人ではなく、キリストに結ばれ、キリストに結ばれた人々と結ばれることに成熟した人の意である。
関連ギリシャ語
(τέλειος「全き人」G5046)
(心のデボーション6290)

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