心のデボーション626

デボーション1
Generic selectors
完全一致
タイトルから
記事本文から
Post Type Selectors
Filter by Categories

心のデボーション6251

「これ私に入りたる僞兄弟あるに因りてなり。彼らの忍び入りたるは、我らがキリスト・イエスに在りて有てる自由を窺ひ、且われらを奴隷とせん爲なり」 ガラテヤ2:4  大正文語訳聖書

「それは、忍び込んできたにせ兄弟らがいたので――彼らが忍び込んできたのは、キリスト・イエスにあって持っているわたしたちの自由をねらって、わたしたちを奴隷にするためであった。」 口語訳聖書

 「偽兄弟」

ガラテヤの教会には偽兄弟らが忍び込み、信仰を覆す教えを持ち込もうとした。(ガラテヤ2:4) 「忍び込むπαρείσακτος」は「密かに持ち込む、こっそり忍び入る」の意。「偽兄弟」は公然とは入ってこない。真の兄弟たちに紛れ込んで異なる教えを持ち込もうとする。しかし、「福音の真理」が「あなたがたのもとに常にとどまっている」限り、「瞬時も彼らの強要に屈服する」ようなことはない。(ガラテヤ2:5)

(ψευδάδελφος「偽兄弟」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G5569参照)
(παρείσακτος「忍び込む」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G3920参照)

(心のデボーション6251)

心のデボーション6252

「人もし其の親族、殊に己が家族を顧みずば、信仰を棄てたる者にて、不信者よりも更に惡しきなり。」 Ⅰテモテ5:8  

「もしある人が、その親族を、ことに自分の家族をかえりみない場合には、その信仰を捨てたことになるのであって、不信者以上にわるい。」 口語訳聖書

 「握り飯が一つ」

握り飯が一つ、子どもが二人いる。子どもが一人で握り飯を食べれば、その子は助かるが、もう一人は死ぬことになる。二つに割れば二人とも助かるかもしれないし、二人とも死ぬかもしれない。子どもが二人とも自分の子ならば、二つに割るだろう。しかし、一人がわが子で、一人が他人の子ならばどうか? それでも、握り飯を二つに割るというなら、その博愛精神はすばらしい。しかし、そういう親の子は不幸かもしれない。

(ἀναγκή「危機」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G318参照)
(ἐκχέω「迷う」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G1632参照)

(心のデボーション6252)

心のデボーション6253

「ユダヤ人にもギリシヤ人にも、また、神の教會にも躓物となるな」 Ⅰコリント10:32  大正文語訳聖書

「ユダヤ人にもギリシヤ人にも神の教会にも、つまずきになってはいけない。」 口語訳聖書

 「躓きの石」

当時の社会では異教の祭壇に捧げられた犠牲の肉が市場で売られていた。そこで、「これは異教の祭壇の肉だ」と知らせられたら、食べてよいか、食べない方がよいかと議論があった。パウロはこれに対して「ダヤ人にもギリシヤ人にも神の教会にも、つまずきになってはいけない」と答える。(Ⅰコリント10:32主も「わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられ海の深みに沈められる方が、その人の益になる」と言われる。(マタイ18:6) 「躓かせるσκανδαλίζω」「道に邪魔物をおく」の意で、市場で売られる肉は、たとえ異教の祭壇にささげられたものであってもべることに問題はない。しかし、それが「躓きの石」になるのであれば、食べないことが愛である。

(σκανδαλίζω「躓かせる」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G1520参照)

(心のデボーション6253)

心のデボーション6254

「その人は傲慢にして何をも知らず、ただ議論と言爭とにのみ耽るなり、之によりて嫉妬・爭鬪・惡しき念おこり、」 Ⅰテモテ6:4  大正文語訳聖書

「彼は高慢であって、何も知らず、ただ論議と言葉の争いとに病みついている者である。そこから、ねたみ、争い、そしり、さいぎの心が生じ、」 口語訳聖書

 「煙にまかれる」

「高慢」は、しのび足で近づいてくる。そして、実にあつかましく居座る。聖書で「高慢τυφόω」ということばは「煙」からきている。煙が吹き上げると視界が閉ざされ周囲が見えなくなる。つまり、「高慢な人」というのは、煙にまかれて、ものごとが見えなくなった人、視界を曇らされた人のことである。煙はときに人のいのちを奪う。一刻も早く追い払うことである。

(τυφόω「高慢」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G5187参照)
(ὑπερηφανία「高慢」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G5243参照)

(心のデボーション6254)

心のデボーション6255

「我を遣しし父ひき給はずば、誰も我に來ること能はず、我これを終の日に甦へらすべし。」 ヨハネ6:44  大正文語訳聖書

「わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ、だれもわたしに来ることはできない。わたしは、その人々を終りの日によみがえらせるであろう。」 口語訳聖書

 「白髪となるまで」

父なる神が「引きよせて下さらなければ」、「だれもイエスに来ることはできない」。(ヨハネ6:44) 「引き寄せるἑλκύω」は「引っ張り出す、引きずり出す」の意。私がイエスに導かれたのは、神が私の手をとって「引きずり出された」からである。「生れ出た時から、わたしに負われ、胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、

わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う」。(イザヤ46:3-4)

(ἑλκύω「引き寄せる」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G5243参照)

(心のデボーション6255)

心のデボーション6256

「金もあり眞珠も多くあれど貴き器は知識のくちびるなり」 箴言20:15 明治元訳聖書

「金もあり、価の高い宝石も多くあるが、尊い器は知識のくちびるである。」 口語訳聖書

 「老いの暴走」

論語に「七十にして心の欲する所に従って、矩をこえず」という。「」七十にして欲する所に従って、矩を知らず」は「六十にして耳従わず」だったから、「六十にして耳従わず」は「五十にして天命を知らず」だったから、「「六十にして耳従わず」は「四十にして迷ひ」だったから、「四十にして迷ひ」は「三十にして立つを得ず」だったから、「三十にして立つを得ず」は「十有五にして学をなざず」であったから、ということか。老いの暴走は「十有五にして」始まっている。

(σοφία「智慧」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G4678参照)

(心のデボーション6256)

心のデボーション6257

「我了れるところは唯是のみ 即ち神は人を正直者に造りたまひしに人衆多の計略を案出せしなり」 伝道7:29  明治元訳聖書

「見よ、わたしが得た事は、ただこれだけである。すなわち、神は人を正しい者に造られたけれども、人は多くの計略を考え出した事である。」 口語訳聖書

 「理屈」

新共同訳はこのところを「神は人間をまっすぐに造られたが、人間は複雑な考え方をしたがる」と訳す。ものごとをまっすぐに見られる時には、複雑なことが分かっている。単純なことなのに、あえて複雑に考えるのは、そこから逃げたいからではないか。ものごとをまっすぐに見るには理屈を捜すのを止めることだ。神がそのことをなされたのである。「『無知をもって神の計りごとをおおうこの者はだれか』。それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、みずから知らない、測り難い事を述べました」。(ヨブ42:3)

(συνίημι「悟る」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G4920参照)
(ἀκούω「聴く」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G191参照)

(心のデボーション6257)

心のデボーション6258

「『視よ、處女(おとめ)みごもりて子を生まん。その名はインマヌエルと稱(とな)へられん』之を釋(と)けば、神われらと偕に在すといふ意(こころ)なり』」 マタイ1:23  大正文語訳聖書

「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。」 口語訳聖書

 「神われらと偕に在す」

「インマヌエル᾽Εμμανουήλ神われらと偕に在す」。(マタイ1:23) 「私が神と共に」ではなく「神が私と共に居ます」のである。「われわれは神の近くにあることが「できる」と言わずに、「許される」と言いたい」(ヒルティ「幸福論(第二部)」草間平作・大和邦太郎訳 岩波文庫青638.4 脚注より)。

(᾽Εμμανουήλ「インマヌエル」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G1694参照)

(心のデボーション6258)

心のデボーション6259

「汝ら人を視て審判(さばき)すべからず小き者にも大なる者にも聽(きく)べし人の面(おもて)を懼(おそ)るべからず審判(さばき)は神の事なればなり汝らにおいて斷定(さだめ)がたき事は我に持きたれ我これを聽(きか)ん」 申命記1:17 明治元訳聖書

「あなたがたは、さばきをする時、人を片寄り見てはならない。小さい者にも大いなる者にも聞かなければならない。人の顔を恐れてはならない。さばきは神の事だからである。あなたがたで決めるのにむずかしい事は、わたしのところに持ってこなければならない。わたしはそれを聞くであろう』。」 口語訳聖書

 「断定しがたきこと」

「人の面(おもて)を懼(おそ)れず」、「小き者にも大なる者にも聽(きく)」人だけが裁くことができる。しかし、人を偏り見ることをしない人は、人を裁くこともしない。「斷定(さだめ)がたき事」があれば、神に委ねよ。

(κρίνω「裁く」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G2919参照)
(πρόκριμα「偏見」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G4299参照)

(心のデボーション6259)

心のデボーション6260

「彼は望むべくもあらぬ時になほ望みて信じたり、是なんぢの裔はかくの如くなるべしと言ひ給ひしに隨ひて、多くの國人の父とならん爲なりき」 ロマ4:18 大正文語訳聖書

「彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。そのために、「あなたの子孫はこうなるであろう」と言われているとおり、多くの国民の父となったのである」 口語訳聖書

 「望み得ない望み」

「彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた」。(ロマ4:18) 信仰は「望み得ない」時に、「望みえない」ことを「望み続ける」力である。神は人が「望みえないこと」を人になされる神である。KJVは「Who against hope believed in hope。直訳「彼は希望に反して希望した」)と訳す。

「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」。(へブル11:1) 
(ἐλπίς「希望・望み」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G1680参照)

(心のデボーション6260)

コメント