心のデボーション620

デボーション1
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心のデボーション6191

「我は一人にてはこの總體の民をわが任として負ことあたはず是は我には重きに過ればなり」 民数11:14  明治元訳聖書

「わたしひとりでは、このすべての民を負うことができません。それはわたしには重過ぎます。」 口語訳聖書

 「神の器」

モーセがイスラエルの民に神のことばを伝えても、民は従わず、不平を言い、叶わぬと泣き叫んだ。そこでモーセは神に「わたしひとりでは、このすべての民を負うことができません」と訴えた。(民数11:7-15) 人は「己が民の愚かさ」を負うに耐え得るだろうか? 自身をすら負い切れぬ者に何ができようか? 神に「それはわたしには重過ぎます」と申し上げるしかない。しかし、神はモーセからその重荷を取り去ろうとはなさらない。やがて、神は「一人の人の子」を起こされ、「民の愚かさ」を身に負い、新しい「神の民」となさるからである。神は人を、どんなに小さくても、イエス・キリストにあって「民の重荷を負う器」として選ばれる。そして、その人の負うのは「己が愚かさ」である。

(φορτίζω「重荷を負う」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G5412参照)
(βαστάζω「負う」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G941参照)

(心のデボーション6191)

心のデボーション6192

「われ汝らに告ぐ、不義の富をもて、己がために友をつくれ。さらば富の失する時、その友なんぢらを永遠の住居に迎へん。」 ルカ16:9  大正文語訳聖書

「またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう。」 口語訳聖書

 「不正の富」

「不正の富などドブに捨ててしまえ」というのは潔く勇ましい。しかし、聖書は「それで、自分のために友をつくりなさい」と語る。(ルカ16:9) 富というものが何らかの不正とかかわりやすく、しかも、そうして得た富は、じきに「失われる」運命にあることを見抜いてのことである。不正の富ほど収まりの悪いものはない。「不正の富を用いてでも」は「友をつくる」ことへのたとえであろう。「不正の富」でつくる「友」ほど当てにならないものはないからである。ザアカイは「不正の富」で金持ちになったが、イエスに出会って、「自分の財産の半分を貧民に施し、不正な取立てを四倍にして返した」。(ルカ19:1-10) ザアカイはそれによって「友」を得た。

(ἀδικία「不正の」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G93参照)
(μαμμωνᾶς「富」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G3126参照)

(心のデボーション6192)

心のデボーション6193

「これ我を愛する者に貨財をえさせ 又その庫を充しめん爲なり」 箴言8:21  明治元訳聖書

「わたしを愛する者に宝を得させ、またその倉を満ちさせる。」 口語訳聖書

 「その倉を満ちさせる」

「知恵は人の望むものをもって家全体を満たし、その収穫をもって、彼らの倉を満たす」。(旧約聖書外典ベン=シラの知恵1:17  フランシスコ会訳聖書) 人はみな、「自分の倉」をもっていて、望むものを満たしている。その人の「倉」を開ければ、「その人の望むもの」が何であるか、そして、その人の持つ「知恵」が分かる。この倉は、外に出して働かせることによて満ちる倉である。

(ἀποθήκη「倉」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G596参照)
(μαμμωνᾶς「富」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G3126参照)

(心のデボーション6193)

心のデボーション6194

「善く己が家を理め、謹嚴にして子女を從順ならしむる者たるべし。」 Ⅰテモテ3:4  大正文語訳聖書

「自分の家をよく治め、謹厳であって、子供たちを従順な者に育てている人でなければならない。」 口語訳聖書

 「前に立つ」

この人は「暴力をふるわず、争わず、温和」で「家庭をよく治め」る。その秘訣は「治める」という言葉に示されている。聖書の「治めるπροΐστημι」は「前に立つ」という意味である。問題の前に立ち、自分をそこに向ける。「前に立つ」だけで、解決される問題も少なくない。すぐに解決されなくても、「暴力をふるわず、争わず、温和に」立ちつくすのである。

(προΐστημι「治める」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G4291参照)
(εἰρήνη「穏やかに」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G1515参照)

(心のデボーション6194)

心のデボーション6195

「汝らは仇を愛し、善をなし、何をも求めずして貸せ、さらば、その報は大ならん。かつ至高者の子たるべし。至高者は、恩を知らぬもの惡しき者にも、仁慈あるなり。」 ルカ6:35  大正文語訳聖書

「しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。」 口語訳聖書

 「人によくしてやりなさい」

あなたがたは、「敵を愛し、人によくして」やりなさい。(ルカ6:35) 「人によくする」は「ἀγαθοποιέω」で、この語は「ἀγαθός良い、善良な」+「ποιέω行う、作る」からなり、「善を行う、親切を為す」の意である。人を愛するとは、その人に対して「善をつくる(作り出す)」ことである。善を無視した愛は「愛」ではない。

(ἀγαθός「親切」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G4291参照)
(ἀγαθός「善」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G18参照)
(ἀγαπητός「愛」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G27参照)

(心のデボーション6195)

心のデボーション6196

「愛する者よ、惡に效ふな、善にならへ。善をおこなふ者は神より出で、惡をおこなふ者は未だ神を見ざるなり。」 Ⅲヨハネ1:11  大正文語訳聖書

「愛する者よ。悪にならわないで、善にならいなさい。善を行う者は神から出た者であり、悪を行う者は神を見たことのない者である。」 口語訳聖書

 「善を行う者」

「善を行う者ἀγαθοποιός」は「ἀγαθός善、良い」+「ποιός行う者、作る者」からなり、「〔善のないところに〕善を作り出す者」である。「善」は、形通りのものではなく、その場、その場に新たに作り出されるべきものであり、その意味で、きわめて創造的業である。愛と善は一つであり、神から来る。

(ἀγαθοποιός「善を行う者」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G17参照)

(心のデボーション6196)

心のデボーション6197

「また子に告ぐるごとく汝らに告げ給ひし勸言を忘れたり。曰く 『わが子よ、主の懲戒を輕んずるなかれ、 主に戒めらるるとき倦むなかれ。」 へブル12:5  大正文語訳聖書

「また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。」 口語訳聖書

 「忘れる」

あながたが「弱り果てて意気そそうしている」のは「あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている」からである。(へブル12:3-6) 「忘れるἐκλανθάνομαι」は「全く忘れる。忘れ果てる」の意である。霊的な疲労から心が緩み、決意が消え、忍耐が消え失せたのである。「気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい」。(へブル12:15)

(ἐκλανθάνομαι「忘れる」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G1585参照)
(ἐκλύω「弱り果てる」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G1595参照)

(心のデボーション6197)

心のデボーション6198

「時に世神のまへに亂れて暴虐世に滿盈ちたりき」 創世6:11  明治元訳聖書

「時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。」 口語訳聖書

 「乱れ」

ノアの時代に「神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた」。(創世6:11) 漢字「乱」は会意文字で「乱れた糸」+「おさえる」から、「糸のもつれ」を「両手であしらう」さまをあらわす。もはや、その乱れは両手を使っても解きようのないほどに「もつれた」のである。「乱れる」のヘブル語は「שׁחת」で「堕落、腐敗、滅び」をあらわす。人類は常に社会にこの「堕落」すなわち「罪のもつれ」を見てきた。しかし、もつれを解く手を引いてはなるまい。

(σύγχυσις「混乱」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G4799参照)

(心のデボーション6198)

心のデボーション6199

「この故に明日のことを思ひ煩ふな、明日は明日みづから思ひ煩はん。一日の苦勞は一日にて足れり」 マタイ6:34 大正文語訳聖書

「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」 口語訳聖書

 「今日をよく生きる」

今日をよく生きることは、今日をよく死ぬことである。死ぬこともなく日が終わることをこそ恥じる。死は生の完成であって、その日を生き切る者のみが死ぬことができる。

今日という日を生きるということは、生と死の、はじめと終わりの、全行程をその日に刻むということである。その日の労苦はその日にしか訪れない。その日に現れるものを捕えることができたら「よく死ぬ」ことができるのではないか。

(ἀναστροφή「生存、生き方」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G391参照)

(心のデボーション6199)

心のデボーション6200

「彼は汝らを終まで堅うして、我らの主イエス・キリストの日に責むべき所なからしめ給はん」 Ⅰコリント1:8 大正文語訳聖書

「主もまた、あなたがたを最後まで堅くささえて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、責められるところのない者にして下さるであろう。」 口語訳聖書

 「最後まで堅く支え」

主は「あなたがたを最後まで堅くささえて」くださる。(Ⅰコリント1:8) 「堅く支えるβεβαιόω」は「確かであることを証明する」の意で、この語は「強力にする、満たす、実行する、実現する」の意を含む。主はあなたを「強くし、満たされ」「主イエス・キリストの日に、責められるところのない者」にして下さる。

(βεβαιόω「支える」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G950参照)

(心のデボーション6200)

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