心のデボーション619

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心のデボーション6181

「神はわれらの避所また力なり なやめるときの最ちかき助なり」 詩篇46:1 明治元訳聖書

「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。」 口語訳聖書

 「霊的シェルター」

「ラブリ」は1948年、スイスに移住したシェーファー一家によって、1955年設立された。「ラブリL’Abri」はフランス語「abri避難所、隠れ家、避ける場所」+「l’その」で、「その避難所、避け所」の意味である。L’Abriは「必要としているあらゆる人々にとっての霊的な避け所(心の避け所、霊的シェルター)」である。深く求める人の避け所であり、魂の再生の場でもあった。

「神はわれらの避け所(מַחֲסֶה)」(詩篇46:1)、ヘブル語* מַחֲסֶה *は「避け所、逃げ場」で、この語は「シェルター」と訳されることもある。神の居ますところはどこでも、われらの「避け所」、「魂のシェルター」である。

(εἰρηνεύω「和らぐ」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G1514参照)
(ἀναπαύω「安ませる」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G373参照)

(心のデボーション6181)

心のデボーション6182

「晝のごとく正しく歩みて宴樂・醉酒に、淫樂・好色に、爭鬪・嫉妬に歩むべきに非ず。」 ロマ13:13  大正文語訳聖書

「そして、宴楽と泥酔、淫乱と好色、争いとねたみを捨てて、昼歩くように、つつましく歩こうではないか。」 口語訳聖書

 「上品な生き方」

パウロのすすめる「正しい生き方」は「上品な生き方」のことである。新共同訳聖書は「品位をもって歩もうではありませんか」と訳す。「上品で、優美な生き方」に反対する理由はないが、どこか身が引ける。ギリシャ語で「上品εὐσχημόνως」は「形よい」で、外の美しさを指す。外はどうでもよいという内的な成熟はないのかもしれない。外も内も「かっこよく生きる」のが、「主イエス・キリストを着る」ことなのであろう。少し、外にこだわってみようかと思うが…、できそうにない…。

(εὐσχημόνως「上品に」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G2156参照)

(心のデボーション6182)

心のデボーション6183

「往て人の是非をいふ者は密事を洩し 心の忠信なる者は事を隱す」 箴言11:13  明治元訳聖書

「人のよしあしを言いあるく者は秘密をもらす、心の忠信なる者は事を隠す。」 口語訳聖書

 「秘密」

大カトーは「自分は生涯に三度後悔した。一度は妻に秘密を打ち明けたとき、一度は歩いてゆけるところを船で行ったとき、一度は無為に一日を過ごしたとき」と言ったという。誰にも心当たりがある3つであろう。特に「秘密」は、主に打ち上げた後は、妻はおろか自分にさえも打ち明けないがよい。そのようにして「秘密」を負うがよい。

(ἀπόκρυφος「秘密」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G614参照)
(κρυπτός「秘密」「秘密」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G2927参照)

(心のデボーション6183)

心のデボーション6184

「何ゆゑ兄弟の目にある塵を見て、己が目にある梁木を認めぬか。」 ルカ6:41  大正文語訳聖書

「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。」 口語訳聖書

 「目に見えない梁」

人の目にある「ちり」が見えるのに、自分の目にある「梁」が見えない。自分の目の梁で注意したいのは、人にはそれも「ちり」にしか見えていないことである。それを「梁」だと気づくのは自分でなければならない。障害になっているものが外にではなく自分の内にあると気づくところから問題の解決がはじまる。

(κάρφος「ちり」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G2595参照)
(δοκός「梁」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G1385参照)

(心のデボーション6184)

心のデボーション6185

「我また汝等をして我が世を去らん後にも、常に此等のことを思ひ出させんと勉むべし。」 Ⅱペテロ1:15  大正文語訳聖書

「わたしが世を去った後にも、これらのことを、あなたがたにいつも思い出させるように努めよう。」 口語訳聖書

  「永遠の国に入る恵み」

ペテロはネロの迫害により、十字架に処刑されたといわれている。ペテロはいつかくる迫害の死を思い、自分が「世を去った後にも、信徒が「主また救主イエス・キリストの永遠の国に入る恵み」について「いつも思い出させるように努めよう」と書き送る。(Ⅱペテロ1:15) 「いつもἑκάστοτε」は「あらゆる場合に、その都度」の意。ペテロは、たとえ、殉教の死の時でも、「救主イエス・キリストの永遠の国に入る恵み」の中に生きようとした。

(ἑκάστοτε「いつも」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G1539参照)
(διωγμός「迫害」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G1375参照)

(心のデボーション6185)

心のデボーション6186

「我らの主なる神よ、榮光と尊崇と能力とを 受け給ふは宜なり。汝は萬物を造りたまひ、 萬物は御意によりて存し、かつ造られたり」 黙示4:11  大正文語訳聖書

「われらの主なる神よ、あなたこそは、栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかた。あなたは万物を造られました。御旨によって、万物は存在し、また造られたのであります」。口語訳聖書

 「御旨のゆえに」

万物は「御旨によって存在し、また造られた」。(黙示4:11) 「御心によってδιὰ τὸ θέλημά σου」、「διὰ」は「~の故に、~の為に」の意。すべては神の御旨のゆえに存在し、御旨の為に造られ、神の御旨をあらしめる。

(πᾶς「万物」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G3956参照)
(θέλημα「御旨」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G2307参照)
(βουλή 「御旨」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G1012参照)
(γνώμη「御旨」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G1106参照)

(心のデボーション6186)

心のデボーション6187

「ああ美はしきかな わが佳耦よ ああうるはしきかな なんぢの目は鴿のごとし」 雅歌1:15  明治元訳聖書

「わが愛する者よ、見よ、あなたは美しい、見よ、あなたは美しい、あなたの目ははとのようだ。」 口語訳聖書

 「その目は鳩のよう」

恋する人が相手の美しさを賛美したいのはわかる。しかし、目の美しい人は心もきれいだろうか? 人は空腹だと目が輝くという。美しい目と見えたのは、おなかがすいていたのかもしれないではないか。顔かたちからその人の人格をはかるのは危険である。目つきの悪い人が意外に心の優しい人だったりする。恋するなら人の心の美しさに恋して欲しい。鳩のような「素直さ」を美しいと感じて欲しいものだ。

(περιστερά「鳩」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G4058参照)
(ἀστεῖος「美しい」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G791参照)
(εὔσπλαγχνος「心の優しい人」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G2155参照)

(心のデボーション6187)

心のデボーション6188

「默すに時あり語るに時あり」 伝道3:7  明治元訳聖書

「黙るに時があり、語るに時があり」 口語訳聖書

 「阿吽」

寺門の左右に立つ金剛力士像はに口を開く阿形像と口を閉じる吽形像で、「阿吽の呼吸」を伝える。口を開く時と口を閉じるべき時を教える。それがぴったり合えばよいが、合わないと、とんでもないことになる。ちなみに、阿形像と吽形像の置かれる左右の位置は、時代と背景によって違い、どちらが正しいというものではないようである。口を開くのが先か、閉じるのが先かにこだわる必要はないということか? 聖書の「沈黙σιγάω」は「平和を保つ」の意である。

(σιγάω「沈黙」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G4601参照)

(心のデボーション6188)

心のデボーション6189

「この故に明日のことを思ひ煩ふな、明日は明日みづから思ひ煩はん。一日の苦勞は一日にて足れり」 マタイ6:34 大正文語訳聖書

「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」 口語訳聖書

 「ケ・セラ・セラ」

「ケ・セラ・セラ」はヒッチコック監督のアメリカ映画『知りすぎた男』で女優であり歌手のドリス・ディが歌った「ケ・セラ・セラ」から、「なるようになる」という流行語になった。

When I was just a little girl          私がまだ小さな子どものころ
I asked my mother what will I be?       ママに聞いた 私は何になるの?
Will I be pretty, will I be rich?         綺麗になるの? お金持ちになるの?
That’s what she said to me:          そしてママはこういった

Que sera, sera. What ever will be will be    ケ・セラ・セラ なるようになる
the future’s not ours to see.          先のことなどわからない
Que sera, sera. What will be, will be.      ケ・セラ・セラ わからない

だが、立教大学チャプレン八木正言先生によると、スペイン語「ケ・セラ・セラ」は「明日は明日の神が守る」という意味だという。(2006年1月30日 チャペルより) 先のことはわからなくても、「今には今の神が居ます」と知れば、それが明日を守ってくれる。

(μεριμνάω「思い煩い」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G3308参照)

(心のデボーション6189)

心のデボーション6190

「イエス言ひ給ふ『娘よ、なんぢの信仰なんぢを救へり、安らかに往け、病いえて健かになれ』」 マルコ5:34  大正文語訳聖書

「イエスはその女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」 口語訳聖書

 「阿迦陀」

阿迦陀(阿掲陀)はあらゆる病を癒す霊薬で「不死薬」であるという。愛知県尾張津島市にはその名の菓子があるそうな。そんな丸薬があれば欲しいものだ。しかし、阿迦陀(あかだ)を手に入れた人は必ず幸せだろうか?

主イエスは女の病を癒され「安心して行きなさいὕπαγε εἰς εἰρήνην(平和のうちに行け)」と言われた。それが「すっかり治る」ことである。

(μάστιξ「病に悩む人」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G3148参照)
(εἰρήνη「安心して」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G1515参照)
(ὑγιής「すっかり治って」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G5199参照)

(心のデボーション6190)

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