心のデボーション6171
「凡そ我にきき 日々わが門の傍にまち わが戸口の柱のわきにたつ人は福ひなり」 箴言8:34 明治元訳聖書
「わたしの言うことを聞き、日々わたしの門のかたわらでうかがい、わたしの戸口の柱のわきで待つ人はさいわいである。」 口語訳聖書
「完熟した実」
「主を畏れることは、知恵に満たされること、人々は、知恵の果実に陶酔し、」(旧約聖書外典ベン=シラの知恵1:16 新共同訳聖書) 「主を畏れる者は知恵に満たされ」、「完熟した知恵の実」に陶酔する。「陶酔するμεθύσκω」は「酒に酔う」の意で、「知恵」は、主を畏れる者の口に甘く、彼を楽しませる。
(μεθύσκω「酒に酔う」別稿別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G3182参照)
(ἀποτελέω 「熟す」別稿別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G658参照)
(心のデボーション6171)
心のデボーション6172
「汝らが遭ひし試煉は人の常ならぬはなし。神は眞實なれば、汝らを耐へ忍ぶこと能はぬほどの試煉に遭はせ給はず。汝らが試煉を耐へ忍ぶことを得んために之と共に遁るべき道を備へ給はん。」 Ⅰコリント10:13 大正文語訳聖書
「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」 口語訳聖書
「脱出の道」
腰痛とカゼが一緒にきたら最悪だ。クシャミをこらえれば息苦しく、うっかりクシャミをすれば激痛が走る。こんな時は、クシャミをしない努力よりも、背中を丸めて「一、二の三」で大きなクシャミをしてしまうのがよいかもしれない。もちろん、クシャミの後は、一刻も早く全身から力を抜かねばならない。痛みには、それが抜けていく道もある。パウロの「脱出の道」は痛みに身を任せながら、それが消えていく道かもしれない。
(ἀσθένεια「痛み」別稿別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G769参照)
(ἔκβασις 「脱出の道」別稿別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G1545参照)
(心のデボーション6172)
心のデボーション6173
「また言ひ給ふ『きく耳ある者は聽くべし』」 マルコ4:9 大正文語訳聖書
「そして言われた、「聞く耳のある者は聞くがよい」。」 口語訳聖書
「聴く耳」
「聞く耳のある者は聞くがよい」。(マルコ4:9) 永井直治訳聖書は「聞くべく耳をもつ者は聞くべし」と訳す。
「聞く耳のある者ὃς ἔχει ὦτα ἀκούειν」とは「聞くべく耳をもつ者」の意である。神に求めて祈る人は、しばしば自分の求めに聞いて、神のことばを聴かない。神は求めに応え給うても、自分の求めに添わない「神の応え」は耳に入れないので、神は祈りに答えてくださらないと嘆く。祈りとは「神への傾聴」である。「聴くἀκούω」は「聴き従う」の意で、幸いなのは従う意思をもって聴く耳である。
(ἀκούω「聴く」別稿別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G191参照)
(οὖς「耳」別稿別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G3775参照)
(心のデボーション6173)
心のデボーション6174
「われ汝らが拜むものを見つつ道を過ぐるほどに「知らざる神に」と記したる一つの祭壇を見出したり。然れば我なんぢらが知らずして拜む所のものを汝らに示さん」 使徒17:23 大正文語訳聖書
「実は、わたしが道を通りながら、あなたがたの拝むいろいろなものを、よく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇もあるのに気がついた。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう。」 口語訳聖書
「知られざる神」
「テレクラなら心にあることをみんな吐き出せる」と少女はいう。電話の向こうにいる「知らない人」にしか本当の自分は出せないのだ。アテネには多くの祭壇に混じって、「知られざる神ἀγνώστῳ θεῶ」と刻まれた祭壇があった。彼女たちはケイタイという「知られざる神」に連絡をとろうとしているのかもしれない。ただ、テレクラに出てくる物分かりの良さそうな大人はみな「偽りの神」である。
(「テレクラ」は「テレフォンクラブ」のこと。1985年ごろから流行した。電話を介して女性との会話を斡旋する店で、男は個室で見知らぬ女性からの電話を待った。)
(ἄγνωστος 「知られざる(神)」別稿別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G57参照)
(心のデボーション61714)
心のデボーション6175
「我は大に喜びて汝らの靈魂のために物を費し、また身をも費さん。我なんぢらを多く愛するによりて、汝ら我を少く愛するか。」 Ⅱコリント12:15 大正文語訳聖書
「そこでわたしは、あなたがたの魂のためには、大いに喜んで費用を使い、また、わたし自身をも使いつくそう。わたしがあなたがたを愛すれば愛するほど、あなたがたからますます愛されなくなるのであろうか。」 口語訳聖書
「身を費し盡さん」
パウロは「教会からむさぼり取っている」と批判する者のいるコリントの教会に対して、「〔私は〕あなたがたの魂のためには、大いに喜んで費用を使い、また、わたし自身をも使いつくそう」と書き送る。(Ⅱコリント12:14-19)「自分自身を使い尽くすἐκδαπανάω」は「使い果たす」で、永井直治訳聖書は「また身を費し盡さん」と訳す。パウロは神のことばを正しく伝達するためには、たとえ、自分を愛さない者のためにも、「喜んで費用を使い」また「〔才能であれ、知識であれ、技術であれ〕自分自身〔にあるものは何でも〕「費やし尽くす」。「すべては、あなたがたを築き上げるため」であった。(Ⅱコリント12:19)
(ἐκδαπανάω「使い尽くす」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G1550参照)
(οἰκοδομέω「築き上げる」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G3618参照)
(心のデボーション6175)
心のデボーション6176
「飽足る者は食のために身を傭はせ饑たる者は憩へり石女は七人を生み多くの子を有る者は衰ふるにいたる」 Ⅰサムエル2:5 明治元訳聖書
「飽き足りた者は食のために雇われ、飢えたものは、もはや飢えることがない。うまずめは七人の子を産み、多くの子をもつ女は孤独となる。」 口語訳聖書
「うまずめの七人の子」
ハンナは「うまずめは七人の子を産み、多くの子をもつ女は孤独となる」と祈る。(Ⅰサムエル2:5) 子のない女が7人の子を産み、多くの子をもつ女が、子のない女のように、もはや子を産むことがないようになる。子がいなくても深い慰めに支えられる人がおり、多くの子がいても慰めにならない「孤独な人」もいる。主はあれをなさり、これをなさるのである。(Ⅰサムエル2:6-8)
(παρακαλέω「慰める」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G3870参照)
(πεινάω「飢え渇く」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G3983参照)
(心のデボーション6176)
心のデボーション6177
「其人いひけるは汝の名は重てヤコブととなふべからずイスラエルととなふべし其は汝神と人とに力をあらそひて勝たればなりと」 創世32:28 明治元訳聖書
「その人は言った、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」 口語訳聖書
「和解」
兄エソウとの和解を前にして、ヤコブは主の御使いと格闘する。人との間に争いがあると、人は神とも争っているのかもしれない。それとも、神との間に争いがあるので、人は人と争うのだろうか。格闘は激しく、夜明けまで続くが、腿のつがいがはずされ、ヤコブは敗れる。しかし、負けたはずのヤコブが「神と戦い、人と戦って、勝った」といわれる。和解をめぐる格闘では、負けた者が勝利する。
(καταλλαγή「和解」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G2643参照)
(ἄμαχος「争い」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G269参照)
(ἐρίζω「争い」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G2051参照)
(ἰσχύω「勝つ」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G2485参照)
(νικάω「勝つ」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G3528参照)
(ὑπερνικάω「勝つ」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G5245参照)
(心のデボーション6177)
心のデボーション6178
「然ながら智慧は何處よりか覓め得ん 明哲の在る所は何處ぞや」 ヨブ28:12 明治元訳聖書
「しかし知恵はどこに見いだされるか。悟りのある所はどこか。」 口語訳聖書
「ピンボケ」
「アウトフォーカス(out of focus)」といえば「ピンボケ」であろう。しかし」、物事は常に焦点を合わせる必要はない。あえて、ぼんやりさせてみる。だいたいのところが掴めればよい。焦点を合わせすぎると、むしろ的外れになることがある。ヨブ記は「見よ、主を恐れることは知恵である、悪を離れることは悟りである」と告げる。(ヨブ28:28)
(εὐλάβεια「恐れかしこむ」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G2124参照)
(心のデボーション6178)
心のデボーション6179
「この故に明日のことを思ひ煩ふな、明日は明日みづから思ひ煩はん。一日の苦勞は一日にて足れり」 マタイ6:34 大正文語訳聖書
「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」 口語訳聖書
「今朝の風」
「明日αὔριον」は「αὔρα朝風」から来た言葉で、「空気の流れ」を意味する。朝風とともに明日がくる。明日には明日吹く「朝風」がある。涼やかなこともあれば、烈風もある。だが、明日吹く風に思い悩むな。昨日の風は今朝の風とは違う、明日の風とも違う。「今朝の風」は「今朝」にしか吹かない。「今朝の風」をとらえて生きよ。今日の風は今日のうちに、通り過ぎてゆく。
(αὔριον「明日」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G839参照)
(πνεῦμα「聖霊、風」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G4151参照)
(心のデボーション6179)
心のデボーション6180
「朽つることなき神の榮光を易へて、朽つべき人および禽獸・匍ふ物に似たる像となす。」 ロマ1:23 大正文語訳聖書
「不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。」 口語訳聖書
「似せる」
「偶像礼拝」とは、それと「似せたもの」を礼拝することである。「似せるἀλλάσσω」は「別のもう一つに変えること」である。「神の御言葉」をそれとは別の「もう一つに変える」ことは偶像礼拝である。信仰深い人は、しばしば、この誘惑に晒される。
(ἀλλάσσω「似せる」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G236参照)
(τύπος「偶像」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G5179参照)
(εἴδωλον「偶像」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G1497参照)
(εἰδωλολατρεία「偶像礼拝」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G1495参照)
(心のデボーション6180)
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