心のデボーション617

デボーション1
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心のデボーション6161

「萬の物は彼によりて造らる、天に在るもの、地に在るもの、見ゆるもの、見えぬもの、或は位、あるひは支配、あるひは政治、あるひは權威、みな彼によりて造られ、彼のために造られたればなり。」 コロサイ1:16  大正文語訳聖書

「万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。」 口語訳聖書

 「意味のわからぬこと」

あらゆる「見ゆるもの、見えぬもの」は「神によって」、「御子のために」造られた。「見えるものὁρατός」は「目に見える者」の意で、「見えぬものἀόρατος」はその否定である。この語の動詞形ὁράω「見る」には「知る」の意味もあることから、「見ゆるもの、見えぬもの」は「知ることの出来るもの、知ることの出来ぬもの」と読むこともできる。意味のわからぬものも、「神によって」、「御子のために」つくられている。

(ὁρατός「見えるもの」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G3707参照)
(ἀόρατος「見えぬもの」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G517参照)

(心のデボーション6161)

心のデボーション6162

「凡そ事忍び、おほよそ事信じ、おほよそ事望み、おほよそ事耐ふるなり」 Ⅰコリ13:7 大正文語訳聖書

「そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」 口語訳聖書

 「手助け」

愛する人に問題を感じると、どうしてもその解決の手助けをしたくなる。しかし、相手は自分でその問題を解決できると信じて、何もしないのも愛である。問題を解決してあげようとすればするほど、相手は変わらず、むしろ争いが生まれてくることもある。愛といいながら、相手を管理し、「解決」を押し付けて、自分の自由にしようとしているのかもしれない。相手を変えようとするのでなく、相手が幸せになることを願いつつ、寄り添うがよい。

(συναντιλαμβάνομαι「手を貸す」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G4878参照)

(心のデボーション6162)

心のデボーション6163

「汝ら心の中に鹽を保ち、かつ互に和ぐべし」 マルコ9:50 大正文語聖書

「あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい」 口語訳聖書

 「心に塩をもって」

自分の内に「塩」を持ち、「互いに和らぎなさい」。(マルコ9:50) 「互に和らぎなさいεἰρηνεύω」は「平和を保ちなさい」の意。互いの間に「腐敗」があっては「平和」は保てない。まず、自身の心の内に塩を持って身を清め、清らかな思いをもって、互いに和らぎなさい。

「あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。」(ロマ12:18) 

(εἰρηνεύω「和らぐ」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G1514参照)

(心のデボーション6163)

心のデボーション6164

「これ預言者イザヤによりて、斯く云はれし人なり、曰く 『荒野に呼はる者の聲す 「主の道を備へ、 その路すぢを直くせよ」 マタイ3:3  大正文語訳聖書

「預言者イザヤによって、「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」と言われたのは、この人のことである。」 口語訳聖書

 「直なる道」

バプテスマのヨハネの生涯は荒野に「主の道筋」をつけることだった。ここで用いられる「まっすぐにする」というギリシャ語εὐθύςは「船の舵をとる」という意味を含んでいる。「主の道」は荒野をブルドーザーでならして作る強引な「直なる道」ではない。隠れて見えない岩礁などの障害があれば、巧みに舵をとり、道筋を見つけていく「直なる道」である。「主」が私の舵をとってくださる。私は安全に難所を越えていく。

(εὐθύς「真直ぐにする」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G2117参照)

(心のデボーション6164)

心のデボーション6165

「この福音は神その預言者たちにより、聖書の中に預じめ御子に就きて約し給ひしものなり。」 ロマ1:2 大正文語訳聖書

「この福音は、神が、預言者たちにより、聖書の中で、あらかじめ約束されたものであって、」 口語訳聖書

 「聖書」

神の約束は「聖なる書」(ἐν γραφαῖς ἁγίαις)、すなわち「聖書」として書き留められている。これは付け加えることも間引くこともできない。聖書は神からの「手紙」である。神のことばは、魂に直接語り掛ける。

(γραφή「聖書」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G1124参照)

(心のデボーション6165)

心のデボーション6166

「幸福なるかな、憐憫ある者。その人は憐憫を得ん。」 マタイ5:7  大正文語訳聖書

「あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。」 口語訳聖書

 「憐れみ深い人」

「あわれみ深い人」とは「責めるよりもまづ赦さうとする人」(藤井武「信仰生活」より)である。その人はまず神から赦しを受ける。それで、彼は「まづ赦す」のである。ヘブル語の「憐れみ」は「chesed ケセド」で「他人の心の中にまで入って、その人の立場でものを見、考え、感じること、一緒に経験する」ことである。(バークレー) 「憐れみ深い人ἔλεος」は「心の優しい人εὔσπλαγχνος」である。

(ἔλεος「憐れみ」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G1656参照)
(εὔσπλαγχνος「心の優しい人」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G2155参照)

(心のデボーション6166)

心のデボーション6167

「然るに取税人は遙に立ちて、目を天に向くる事だにせず、胸を打ちて言ふ「神よ、罪人なる我を憫みたまへ」ルカ18:13 大正文語訳聖書

「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と」 口語訳聖書

 「一緒に万引きしよう」

加藤諦三さんは、子どもが万引きをしたら、「今度はお母さんと一緒に万引きしよう」と言えば、子どもは母親がつかまえられたくないから万引きをやめると書いている。もし子どもが「うん、行こう」と答えたら、覚悟を決めて万引きに行く方法もある。そして、成功したら、子どもと一緒に「実は、万引きをしました」と名乗り出る。そして、言い訳は一切しないで、ひたすらあやまる。

(ἁμαρτωλός「罪人」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G268参照)

(心のデボーション6167)

心のデボーション6168

「かくて相語りつつ内に入り、多くの人の集れるを見て、ペテロ之に言ふ、」 使徒10:27  大正文語訳聖書

「それから共に話しながら、へやにはいって行くと、そこには、すでに大ぜいの人が集まっていた。」 口語訳聖書

 「共に話しながら」

コルネリオは聖霊に導かれて三人の僕をペテロに遣わし、ペテロは聖霊に導かれてコルネリオの招きに応じ、二人は出会うと、「共に話しながら、へやにはいっていった」。(使徒10:27) 福音がユダヤ教から異邦人に開かれた瞬間であった。「共に話し合うσυνομιλέω」は「σύν 共に」+「ὁμιλέω語る」で、「交わり」を意味する。二人は出会いの瞬間から深い交わりに入っている。「互いに深く語り合う」ことの祝福は聖霊によるものである。

(συνομιλέω「共に語り合う」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G4926参照)

(心のデボーション6168)

心のデボーション6169

「まづ神の國と神の義とを求めよ、さらば凡てこれらの物は汝らに加へらるべし」 マタイ6:33 大正文語訳聖書

「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」 口語訳聖書

 「デウス」

司馬遼太郎さんとの対談の中でドナルド・キーンさんがザヴィエルが日本人に「神」をどう訳したらよいかで思案したことを紹介している。ザヴィエルは大いに迷い、「大日」と訳そうとしたがうまくゆかず、ポルトガル語の「デウス」を使うことにしたが、その発音が「ダイウソ」に聞こえ、日本人はみな笑ったということである(司馬遼太郎・ドナルド・キーン『日本人と日本文化』より) 日本人が自身の精神の中に「神」と「神の国」を求め、容れるのは、翻訳以上に難しい。

(θεός「神」別稿別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G2316参照)

(心のデボーション6169)

心のデボーション6170

「彼らは汝らと共に宴席に與り、その愛餐の暗礁たり、憚らずして自己をやしなふ牧者、風に逐はるる水なき雲、枯れて又かれ、根より拔かれたる果なき秋の木、」 ユダ1:12  大正文語訳聖書

「彼らは、あなたがたの愛餐に加わるが、それを汚し、無遠慮に宴会に同席して、自分の腹を肥やしている。彼らは、いわば、風に吹きまわされる水なき雲、実らない枯れ果てて、抜き捨てられた秋の木、」 口語訳聖書

 「愛餐の暗礁」

「愛餐」は初代教会の聖餐式の前か後に、集まった信徒に会食としてだされる食事であった。「愛餐」はギリシャ語の「ἀγάπη」で「神の愛」を意味することばである。その場にも「無遠慮に宴会に同席して、自分の腹を肥やしている者」もおり、彼らは「愛餐の暗礁ὑμῶν σπιλάδες」と言われた。大正文語訳聖書は「暗礁」と訳したが、σπιλάは「しみ、汚点、よごれ」である。「愛餐の汚れ」であるが、それ以上に「隠れた暗礁」で船を転覆させかねない。彼等には「まっくらなやみが永久に用意されている」。(ユダ1:13)

(「愛餐」別稿「聖書の食べ物」001愛さん参照)
(ἀγάπη「愛、愛餐」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G26参照)
(σπιλάς「しみ、汚れ」別稿「聖書ギリシャ語原典研究集成―いのちに至る水(ヨハネ4:14)―」G4694参照)

(心のデボーション6170)

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