心のデボーション6091
「ただ衣食あらば足れりとせん。」 Ⅰテモテ6:8 大正文語訳聖書
「ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである。」 口語訳聖書
「ただ衣食があれば」
「ただ衣食があれば、それで足れりとすべきである」。(Ⅰテモテ6:8) 「衣食」と訳されるギリシャ語「διατροφή」は「生活を支えるもの」の意であり、衣服、食糧に限らず、「いのちを維持するために必要なもの」であろう。「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」(マタイ4:4)からは、「神の口から出る一つ一つの言」を含む「衣食」であろう。
(心のデボーション6091)
心のデボーション6092
「昔の今にまさるは何故ぞやと汝言なかれ 汝の斯る問をなすは是智慧よりいづる者にあらざるなり」 伝道7:10 明治元訳聖書
「昔が今よりもよかったのはなぜか」と言うな。あなたがこれを問うのは知恵から出るのではない。」 口語訳聖書
「昔はよかった」
「昔はよかった」という思いには、今の不運が引き金になっていることが多いものだ。今の自分に意味を見いだせないことへのいら立ちが「事の終り」に目を注ぐことを妨げ、耐える力を失わせるのかもしれない。善し悪しは「事の終り」にまでいかなければ分からない。そして、終りまでいくと善し悪しはもう消えているかもしれない。信じたいのは、「事の終りは、そのはじめよりも良い」という神のみことばである。
(心のデボーション6092)
心のデボーション6093
「わが愛する兄弟よ、自ら欺くな。」 ヤコブ1:16 大正文語訳聖書
「愛する兄弟たちよ。思い違いをしてはいけない。」 口語訳聖書
「思い違い」
試練の中で罪の誘惑を受けて、「神が私を誘惑した」などと、「思い違い」をしてはならない。(ヤコブ1:12) 「思い違いをするπλανάω」は「横道にそれる、道を外れる、迷う」の意。「思い込み」の多くは「思い違い」で、真実ではない。神の道に立ち戻ることが「思い違い」からあなたを守る。
(心のデボーション6093)
心のデボーション6094
「ここにおいて神レヒに在るくぼめる所を裂きたまひしかば水そこより流れいでしがサムソン之を飮たれば精神舊に返りてふたたび爽になりぬ故に其名をエンハッコレ(呼はれるものの泉)と呼ぶ是今日にいたるまでレヒに在り」 士師15:19 明治元訳聖書
「そこで神はレヒにあるくぼんだ所を裂かれたので、そこから水が流れ出た。サムソンがそれを飲むと彼の霊はもとにかえって元気づいた。それでその名を「呼ばわった者の泉」と呼んだ。これは今日までレヒにある。」 口語訳聖書
「魂の渇きサムソン」
サムソンはロバのあご骨で千人を打ち殺した後、自分がひどく渇いていることに気づいた。いのちの源が干上がってしまったのである。それは、神に呼び求める以外にいやされることのない、存在の渇きでもあった。そこでサムソンは、エン・ハコレ「祈る者の泉」に下っていった。渇くことの苦しみよりも、渇くことを知らない苦しみの方がずっとつらいかもしれない。心揺さぶられるような経験も祈りもない人生だからである。
(心のデボーション6094)
心のデボーション6095
「イエス・キリストの誕生は左のごとし。その母マリヤ、ヨセフと許嫁(いいなづけ)したるのみにて、未だ偕にならざりしに、聖靈によりて孕(みごも)り、その孕(みごも)りたること顯れたり。」 マタイ1:18 大正文語訳聖書
「イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。」 口語訳聖書
「聖霊によって」
マリヤは「まだ〔ヨセフと〕一緒にならない前に、聖霊によって身重になった(妊娠した)」。(マタイ1:18) マリヤの経験はすべての女性の妊娠に共有されるのではないか? すべての「いのちの宿り」は聖霊による神聖な経験であることに違いないからである。
(心のデボーション6095)
心のデボーション6096
「そは汝くるしめる民をすくひたまへど高ぶる目をひくくしたまふ可ればなり」 詩篇18:27 明治元訳聖書
「あなたは苦しんでいる民を救われますが、高ぶる目をひくくされるのです。」 口語訳聖書
「高ぶる者の目」
「高ぶる者の目」、「目*עיִן*」は「目、目心の目、泉」を意味する。神は「心の目(心の源)の高ぶる者」を「引き下げられる*שׁפל *(低くする、卑しめられる)」。「高ぶ高慢る者の目」からは、湧きあがる泉のように、次々に高慢が湧き出る。それでいて、本人には「高ぶり」が見えない。「愛は高ぶらない」。(Ⅰコリント13:4)
(心のデボーション6096)
心のデボーション6097
「我らは皆しばしば躓く者なり、人もし言に蹉跌なくば、これ全き人にして全身に轡を著け得るなり。」 ヤコブ3:2 大正文語訳聖書
「わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。」 口語訳聖書
「失敗から学ぶ」
失敗しそうなことには、はじめから手を出さない人がいる。失敗を恐れるというよりも、失敗によって自分の内に何もないと認めるのが嫌だからである。みじめな思いをしたくないから注意深いだけかもしれない。失敗したら挫折感を十分に味わえば良い。逃げないで、とことんつき合ってみれば、一つの失敗から自分の知らない一面も見えてくる。成功よりも失敗から学ぶことの方が多いと思う。
(心のデボーション6097)
心のデボーション6098
「この故に、なんぢら心の腰に帶し、愼みてイエス・キリストの現れ給ふときに、與へられんとする恩惠を疑はずして望め。」 Ⅰペテロ1:13 大正文語訳聖書
「それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。」 口語訳聖書
「イエス・キリストの現れの時」
「イエス・キリストの現れる時ἐν ἀποκαλύψει ἰησοῦ χριστοῦ」。(Ⅰペテロ1:13) 「現れるἀποκαλύπτω」は「覆いをとる、啓示される、明らかにされる」の意。イエス・キリストが私に「覆いをとって、現れ給う時」はいつでも「現れの時」である。そのとき、必ず、ものごとが新しい意味をもって啓示され、それまでの事態が変わる。
(心のデボーション6098)
心のデボーション6099
「さらば何を食ひ、何を飮み、何を著んとて思ひ煩ふな」 マタイ6:31 大正文語訳聖書
「だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。」 口語訳聖書
「衣食住」
信仰は「食べること、飲むこと、着ること」とも深く関わる。「心の問題」に限定されない。いのちの生きかた、その全体にかかわる。衣食住は極めて心的なものとかかわっている。衣食住に根ざさない信仰こそが問題である。しかし、また衣食住に限定される信仰も問題である。「だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである」。(Ⅰコリント10:31)
(心のデボーション6099)
心のデボーション6100
「この故にキリスト世に來るとき言ひ給ふ 『なんぢ犧牲と供物とを欲せず、 唯わが爲に體を備へたまへり。』」 ヘブル10:5 大正文語訳聖書
「それだから、キリストがこの世にこられたとき、次のように言われた、/「あなたは、いけにえやささげ物を望まれないで、/わたしのために、からだを備えて下さった。」 口語訳聖書
「おのれをむなしうして」
神はイエス・キリストを世に遣わされるために、「からだを備え」、御子を人間とされた。「備えるκαταρτίζω」は「修繕する、直す、完全にする」の意で、神は「神の子イエス」を「人間イエス」に完全に繕われた。人間の罪を贖うためであった。「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」。(ピリピ2:6-8)
(心のデボーション6100)
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