心のデボーション604

デボーション1
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心のデボーション6031

「ペテロ答ふ『なんぢら悔改めて、おのおの罪の赦を得んために、イエス・キリストの名によりてバプテスマを受けよ、然らば聖靈の賜物を受けん。」 使徒2:38  大正文語訳聖書

「すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。」 口語訳聖書

 「賜物としての聖霊」

「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい」、「そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろうκαὶ λήμψεσθε τὴν δωρεὰν τοῦ ἁγίου πνεύματος·」。(使徒2:38) 「あなたがたは聖霊の賜物を受ける」は新共同訳聖書、新改訳聖書、フランシスコ会訳聖書「賜物として聖霊を受けるでしょう」と訳す。「聖霊」は悔い改めとともに「賜物」として与えられる。「賜物δωρεά」は「無償として、条件なしに」の意である。「光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった」者となりなさい。(へブル6:4-6)

(心のデボーション6031)

心のデボーション6032

「イエス涙をながし給ふ。」 ヨハネ11:35  大正文語訳聖書

「イエスは涙を流された。」 口語訳聖書

 「木を植えた男」

ジョン・ジオノの「木を植えた男」は、息子と妻に先立たれた初老の男の小説である。男はそれから荒れた大地に木を植えることをはじめる。傷ついたのは彼の心だけではなく、大地もまた、傷ついていたのだ。三十年間、男はくる日もくる日も木を植え続けた。イエス・キリストは、きっと、シャベルを手に彼についていき、黙って一緒に穴を掘られるだろう。人はみな癒すべき大地を心にもっている。

(心のデボーション6032)

心のデボーション6033

「マグダラのマリヤ往きて弟子たちに『われは主を見たり』と告げ、また云々の事を言ひ給ひしと告げたり。」 ヨハネ20:18  大正文語訳聖書

「マグダラのマリヤは弟子たちのところに行って、自分が主に会ったこと、またイエスがこれこれのことを自分に仰せになったことを、報告した。」 口語訳聖書

 「主」

十字架から復活されたイエスに最初に出会ったのはマグダラのマリヤであった。マリヤはただちに弟子たちのところに走り、「われは主を見たりἑώρακα τὸν κύριον」と告げた。(ヨハネ20:18) 聖書翻訳者は力ある支配をあらわすギリシャ語κύριοςに「主」ということばをあてた。漢字の「主」は燭台のじっと燃える燈心の形から、じっと一つ所に止まるものの象形表記である。マリヤが出会ったのは「十字架に死して甦り、自身の目の前に静かに立ち給ういのちの主」であった。

(心のデボーション6033)

心のデボーション6034

「また吝むことなく互に懇ろに待せ。また吝むことなく互に懇ろに待せ。」 Ⅰペテロ4:9  大正文語訳聖書

「不平を言わずに、互にもてなし合いなさい。」 口語訳聖書

 「つぶやかないで」

結論を出したがるのが男の欠点で、あいまいにしておきたがるのが女の欠点だという。そういう傾向の強い男と女が出会えば、いさかいが絶えないのも当然かもしれない。しかし、自分の欠点を補うものはその相手が持っている。それに気づくのなら、この人たちはすばらしい出会いをしているのである。すばらしい出会いになるか否かは紙一重ということか。その人の長所は欠点の中に含まれているのである。

(心のデボーション6034)

心のデボーション6035

「死よ、なんぢの勝は何處にかある。死よ、なんぢの刺は何處にかある」 Ⅰコリント15:55  大正文語訳聖書

「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」 口語訳聖書

 「隅田川に」

永井荷風は晩年に、夜の闇にまぎれて自作の戯曲数編の草稿を隅田川に捨てたという。日記によれば、その理由は「いずれも死後、人に見らるるを憚るものなり」とのことであった。(岩波文庫「断腸亭日乗」より) 文豪にして出来ることであって、真似はできない。

(心のデボーション6035)

心のデボーション6036

「それ人のことは己が中にある靈のほかに誰か知る人あらん、斯くのごとく神のことは神の御靈のほかに知る者なし。」 Ⅰコリント2:11  大正文語訳聖書

「いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。」 口語訳聖書

 「神の思い」

神のことばはすべての人に与えられている。しかし、「神の思い」は「神の御霊以外には、知るものはない」。(Ⅰコリント2:11) 「霊のこと」は「霊によって」解釈されるのである。(Ⅰコリント2:13) 信じる者に神は御霊を与えて限りがない。(使徒2:38)

(心のデボーション6036)

心のデボーション6037

「鐵の鈍くなれるあらんにその刃を磨ざれば力を多く之にもちひざるを得ず 智慧は功を成に益あるなり」 伝道10:10  明治元訳聖書

「鉄が鈍くなったとき、人がその刃をみがかなければ、力を多くこれに用いねばならない。しかし、知恵は人を助けてなし遂げさせる。」 口語訳聖書

 「肥後守」

子どものころ、ものをけずるのは肥後守という小刀だった。今日のカッターのようなものだ。カッターと違うのは、切れ味が落ちたら研ぐ必要があり、折ればすむカッターのようにはいかない。「とがないと、もっと力がいる」というのは刃物だけではない。鈍くなったものは折って捨てるカッターではなく、研ぐとで切れ味を回復する肥後守でいく手もある。そろそろ、研ぎ時ではないか?

(心のデボーション6037)

心のデボーション6038

「今は神キリストの肉の體をもて、其の死により汝等をして己と和がしめ、潔く瑕なく責むべき所なくして、己の前に立たしめんし給ふなり」 コロサイ1:22  大正文語訳聖書

「しかし今では、御子はその肉のからだにより、その死をとおして、あなたがたを神と和解させ、あなたがたを聖なる、傷のない、責められるところのない者として、みまえに立たせて下さったのである。」 口語訳聖書

 「責められるところのない者」

人は誰よりも厳しく自身を「訴えるἐγκαλέω(告訴する)」。しかし、神は終わりの日まで、イエス・キリストにおいて、私たちを「責められるところのない者ἀνέγκλητος(咎めようのない者、非の打ちどころのない者)」と立たせてくださる。神が「責められるところのない者ἀνέγκλητος(咎めようのない者、非の打ちどころのない者)」とされた者を「咎める者」は誰か?

(心のデボーション6038)

心のデボーション6039

「今日ありて明日爐に投げ入れらるる野の草をも、神はかく裝ひ給へば、まして汝らをや、ああ信仰うすき者よ」 マタイ6:30 大正文語訳聖書

「きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。」 口語訳聖書

 「美しき装い」

「主は、ご自身の民を愛し、救いをもって貧しい者を飾られる」(詩篇149:4) 「救い」は「貧しき者」を美しく装う。

(心のデボーション6039)

心のデボーション6040

「神の言を汝らに語りて汝らを導きし者どもを思へ、その行状の終を見てその信仰に效へ。」 へブル13:7  大正文語訳聖書

「神の言をあなたがたに語った指導者たちのことを、いつも思い起しなさい。彼らの生活の最後を見て、その信仰にならいなさい。」 口語訳聖書

 「生活の最後」

「神の言をあなたがたに語った指導者たち」の「生活の最後を見なさい」。もし、その最後に「みならうべき信仰」が見出せるなら、その指導者は本物である。指導者は「生活(信仰)の最後」を全うする責任がある。「生活の最後τὴν ἔκβασιν τῆς ἀναστροφῆς」とは「τῆς ἀναστροφῆς(生存、生き方)」の「τὴν ἔκβασιν(脱出の道、のがれの道)」である。

(心のデボーション6040)

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