心のデボーション603

デボーション1
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心のデボーション6021

「ヱホバ神土を以て野の諸の獸と天空の諸の鳥を造りたまひてアダムの之を何と名るかを見んとて之を彼の所に率ゐいたりたまへりアダムが生物に名けたる所は皆其名となりぬ」 創世2:19  明治元訳聖書

「そして主なる神は野のすべての獣と、空のすべての鳥とを土で造り、人のところへ連れてきて、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった。」 口語訳聖書

 「生き物の名」

アダムは、神のつくられた「野のすべての獣と、空のすべての鳥」に名を与え、「人がすべて生き物に与える名は、その名となった」。(創世2:19)名を呼ぶことは、それを見分け、本質を知る行為である。エデンの園でのアダムの仕事はいのちの本質を知ることにあった。

(心のデボーション6021)

心のデボーション6022

「もし誇るべくは、我が弱き所につきて誇らん。」 Ⅱコリント11:30 大正文語訳聖書

「もし誇らねばならないのなら、わたしは自分の弱さを誇ろう。」 口語訳聖書

 「影ふみ」

子どものころ、「影ふみ」はお気に入りの遊びの一つだった。夕方、家に帰る途中、長くなった影をふみながら歩いたものだ。年をとると、また、子どものころのように影と遊びたくなる。影は「もう一人の自分」である。自分に影のあることがうれしく、どこか安心する。影とは私の欠点であり、恥である。影のない人というのは淋しいものだ。

(心のデボーション6022)

心のデボーション6023

「善を行ひて愚なる人の無知の言を止むるは、神の御意なればなり。」 Ⅰペテロ2:15 大正文語訳聖書

「善を行うことによって、愚かな人々の無知な発言を封じるのは、神の御旨なのである。」 口語訳聖書

 「善を行う」

「善を行うἀγαθοποιέω」というギリシャ語は「ἀγαθός善」+「ποιέωなす」からなり、「善を実行する」の意である。「善ἀγαθός(「万物を益とする神の義」ロマ8:28)」は「イエス・キリストによって与えられ、御旨にしたがって善をなすこと」によって知られる。善き人の「ἀγαθοποιέω」は「愚かな人々の無知な発言を封じる」。(Ⅰペテロ2:15)

(心のデボーション6023)

心のデボーション6024

「汝ら心の中に鹽を保ち、かつ互に和ぐべし」 マルコ9:50 大正文語聖書

「あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい」 口語訳聖書

 「塩気」

「塩気をもって和らげ」というのは不思議なことばである。塩は腐敗を防ぐことから、不正を許さない厳しい生き方を意味する。そこで、塩気を含む人は、どうしても人から敬遠される傾向にある。しかし、清潔な生き方がもたらす和らぎというのもある。塩気は自分自身のうちに保つべきものだが、そのとき、ほどよさを知っておく必要があある。強すぎる塩気は味を損なうものだ。

(心のデボーション6024)

心のデボーション6025

「されど主の御言は永遠に保つなり』 汝らに宣傅へたる福音の言は即ちこれなり。」 Ⅰペテロ1:25  大正文語訳聖書

「しかし、主の言葉は、とこしえに残る」。これが、あなたがたに宣べ伝えられた御言葉である。」 口語訳聖書

 「神の語られることば」

「主の言葉は、とこしえに残るτὸ δὲ ῥῆμα κυρίου μένει εἰς τὸν αἰῶνα.」。神の口からでることば「ῥῆμα(語られたことば)」は「とこしえにαἰών(現世、来るべき世に、永遠に)」、「残るμένω(踏みとどまる、生きてる)」。(Ⅰペテロ1:25)

(心のデボーション6025)

心のデボーション6026

「汝の心を敎に用ゐ 汝の耳を知識の言に傾けよ」 箴言23:12  明治元訳聖書

「あなたの心を教訓に用い、あなたの耳を知識の言葉に傾けよ。」 口語訳聖書

 「先ず隗より始めよ」

中国のことわざ「先ず隗より始めよ」にはこんな話がある。郭隗(かくかい)という男が燕の昭王に、「昔、良い馬を求めて大金をもたせた使者をつかわすと、この使者は死んだ名馬の骨を金五百で買ってきた。何故、そのような無駄をするのかと問うと、使者は名馬なら死んだ骨でも金五百と知れば、必ず生きた名馬を売りにくるでしょうと答え、はたしてそのようになった」と話し、昭王に「自分のようなとりえのない者を雇えば、本当にすぐれた人材が集まりますと「先ず隗より始めよ」すすめたよいう。この「隗」は只者ではない。

(心のデボーション6026)

心のデボーション6027

「わが兄弟よ、何事よりも先づ誓ふな、或は天、あるひは地、あるひは其の他のものを指して誓ふな。只なんぢら然りは然り否は否とせよ、罪に定めらるる事なからん爲なり。」 ヤコブ5:12  大正文語訳聖書

「さて、わたしの兄弟たちよ。何はともあれ、誓いをしてはならない。天をさしても、地をさしても、あるいは、そのほかのどんな誓いによっても、いっさい誓ってはならない。むしろ、「しかり」を「しかり」とし、「否」を「否」としなさい。そうしないと、あなたがたは、さばきを受けることになる。」 口語訳聖書

 「はい」を「はい」

「はい」を「はい」、「いいえ」を「いいえ」という、その単純なことがどれほど難しいか。正しくても通らないことがあり、間違っていると思えるのにまかり通ることもある。「否」に反発しないことだ。「自分は正しい、間違っていない」とこぶしを振り上げて、相手を威嚇しているかもしれないからだ。自分の判断を「絶対」とせず、「はい」と答え「いいえ」といいたい。

(心のデボーション6027)

心のデボーション6028

「われをかこみて立かまへたる千萬の人をも我はおそれじ」 詩篇3:6  明治元訳聖書

「わたしを囲んで立ち構えるちよろずの民をもわたしは恐れない。」 口語訳聖書

 「民の射る矢」

「わたしは恐れない」をフランシスコ会訳聖書は「わたしは民の射る矢を恐れない」と訳す。このときダビデは息子アブサロムから追われており、ダビデに矢を射ようと構えるのはアブサロムとその兵士たちである。ダビデは身内の民から矢を射かけられる時にも、主を「わたしを囲む盾、わが栄え、わたしの頭を、もたげてくださるかた」と信頼し、平安を失わなかった。

(心のデボーション6028)

心のデボーション6029

「今日ありて明日爐に投げ入れらるる野の草をも、神はかく裝ひ給へば、まして汝らをや、ああ信仰うすき者よ」 マタイ6:30 大正文語訳聖書

「きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。」 口語訳聖書

 「美しさ」

花は自分の美しさを知らない。人の美しさも自身にはわからない。美しさは「見出される」ものである。「見出す目」をもつ人は美しい。

(心のデボーション6029)

心のデボーション6030

「其右の手には長壽あり その左の手には富と尊貴とあり」 箴言3:16  明治元訳聖書

「その右の手には長寿があり、左の手には富と、誉がある。」 口語訳聖書

 「丹薬」

道教に「丹薬」という不思議なききめのある霊薬があり、不老不死の 妙薬であるという。しかし、不老不死の丹薬は完成せず、むしろいかがわしい丹薬で命を落とす皇帝も少なからず、次第に「外丹」から「内丹」にむかい、「道(タオ)」につながった。長寿を求めることはいつの時代にも変わらない人間の本性か。

(心のデボーション6030)

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