心のデボーション5991
「然れど今は罪より解放されて神の僕となりたれば、潔にいたる實を得たり、その極は永遠の生命なり。」 ロマ6:22 大正文語訳聖書
「しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである。」 口語訳聖書
「神に従う者」
「しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え」。(ロマ6:22) 「罪から解放されるἐλευθερόω」は「罪の捕らわれから自由にする(解放する)」の意。「神に仕えるδουλόω」は「神に従う(奴隷になる、服従する)」の意。罪に捕らわれ、従うしかなかった者がキリストによって「開放され」、今や自由の身として「神に全面的に従う者(神の恵みに捕らわれた者)」となった。この二つは同時に実現し、切り離すことはできない。
(心のデボーション5991)
心のデボーション5992
「ここにイエスを賣りしユダ、その死に定められ給ひしを見て悔い、祭司長・長老らに、かの三十の銀をかへして言ふ、」 マタイ25:3 大正文語訳聖書
「そのとき、イエスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して」 口語訳聖書
「後悔と悔い改め」
銀貨三十枚でイエスを売ったユダは、イエスが十字架に定められたと知って、激しく「後悔」した。「後悔μεταμέλομαι」は「気になるところを変える」ことを意味する。イエスを裏切ったという後ろめたさから、それまでの感情を変えたのだ。しかし、「後悔μεταμέλομαι」は「悔い改め」ではない。「悔い改めμετανοέω」は「思いを変える」である。心と理性を変えることが「悔い改め」である。ユダはイエスを裏切ったことを「後悔したμεταμέλομαι」が「悔い改めμετανοέω」なかった。
(心のデボーション5992)
心のデボーション5993
「兄弟よ、われ汝らに勸む、おほよそ汝らの學びし教に背きて分離を生じ、顛躓をおこす者に心して之に遠ざかれ」 ロマ16:17 大正文語訳聖書
「さて兄弟たちよ。あなたがたに勧告する。あなたがたが学んだ教にそむいて分裂を引き起し、つまずきを与える人々を警戒し、かつ彼らから遠ざかるがよい。」 口語訳聖書
「慣れを知る」
イソップの狐は、それまで見たことのなかったライオンと出会って、最初は「死ぬほど驚いた」、次に出会うと「畏れたが、以前ほどではなかった」、三度目のときには「ライオンに近寄って話をするほどになった」。「慣れを知ると物事の怖さが薄らぐ」。だが、それこそが怖いことだ。(「イソップ寓話集」 山本光雄訳 岩波書店1942/2より)
(心のデボーション5993)
心のデボーション5994
「我ここに於て汝に對するわが怒を息め汝にかかはるわが嫉妬を去り心をやすんじて復怒らざらん」 エゼキエル16:42 明治元訳聖書
「そしてあなたに対するわが憤りをしずめ、わがねたみをあなたから離し、わたしは心を安んじて、再び怒ることをしない。」 口語訳聖書
「死の静寂」
愛する人から「もう二度と怒らない」といわれたら、別れが近づいたしるしかもしれない。憤りもねたみも「離れ」て、心はそれ以上働くのを止めた、だから「二度と怒るまい」と神はいわれる。しかしそれは、死の静寂である。怒ることも、ねたむことも、悲しむこともない、その静けさがこわいと思う。
(心のデボーション5994)
心のデボーション5995
「斯るがゆゑに地にありて己のために福祉をねがふものは眞實の神にむかひて福祉をもとめ 地にありて誓ふものは眞實の神をさして誓ふべし さきの困難は忘れられてわが目よりかくれ失たるに因る」 イザヤ65:16 明治元訳聖書
「それゆえ、地にあって/おのれのために祝福を求める者は、真実の神によっておのれの祝福を求め、地にあって誓う者は、真実の神をさして誓う。さきの悩みは忘れられて、わが目から隠れうせるからである。」 口語訳聖書
「他人からうけた侮辱」
「さきの悩みは忘れられて、わが目から隠れうせる」。(イザヤ65:16) 「先に受けた悩み」のなかでも「他人から受けた侮辱」(モンテーニュ)は、いち早く「忘れて、わが目から隠れうせて」欲しいものだ。「先の悩み」を「わが目から隠される」のは「真実の神」による。
(心のデボーション5995)
心のデボーション5996
「かつまた我目は憂愁によりて昏み 肢體は凡て影のごとし」 ヨブ17:7 明治元訳聖書
「わが目は憂いによってかすみ、/わがからだはすべて影のようだ。」 口語訳聖書
「患者」
「患者」の「患」は「串+心」からなり、「串」は「一本の線で二つのものを貫く」の意。「患」は「心」が「貫かれた」状態をあらわす。「患者」は、肉体だけでなく心も「病」に深く貫かれた人である。
(心のデボーション5996)
心のデボーション5997
「されど我なんぢらに告ぐ、榮華を極めたるソロモンだに、その服裝この花の一つにも及かざりき」 マタイ6:29 大正文語訳聖書
「しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」 口語訳聖書
「ブルーポピー」
花を描き続けた日本画家の堀文子さんは81歳の時、幻の高山植物のブルーポピーを求めてヒマラヤに旅をし、酸素吸入をしながら、標高4500メートルのガレ場の岩陰に草丈20センチほどの青い花のブルーポピーを見つけた。「生きものの生存を拒否されたような環境の中で咲くこの花は、氷河期の生物か宇宙からの使者のように思え、易々と描く気にはなれませんでした」と書いている。(堀文子「命といふもの」より)
ヒマラヤの高山に咲く幻の花を求めて旅するところに、それとの出会いに感動は深まろう。しかし、堀文子さんは「いつでも見られるものに興味を持たない」人ではない。路傍のなんでもない一輪の花の美しさを知るがゆえに、ヒマラヤのプルーポピーにそれほどの感動を感じるのだ。シェバの女王が見過ごした「百合の花」も堀文子さんがヒマラヤで見た「ブルーポピー」も同じ「野の花」である。
(心のデボーション5997)
心のデボーション5998
「準繩はわがために樂しき地におちたり 宜われよき嗣業をえたるかな」 詩篇16:6 明治元訳聖書
「測りなわは、わたしのために好ましい所に落ちた。まことにわたしは良い嗣業を得た。」 口語訳聖書
「まこと良き嗣業」
詩篇16:5-8から本詩篇の作者をレビ族とみることもできる。レビ族は神に選ばれ、神に仕える祭司の種族であり、領地を持たなかった。彼らの「はかり縄」は「まことに楽しき地におち、「良き嗣業」を得た。この喜びは、レビ族に限らず、全イスラエルのそれぞれが得た嗣業にまさる信仰の「まこと良き嗣業」である。
(心のデボーション5998)
心のデボーション5999
「されど我なんぢらに告ぐ、榮華を極めたるソロモンだに、その服裝この花の一つにも及かざりき」 マタイ6:29 大正文語訳聖書
「しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」 口語訳聖書
「ミダス王」
昔、ミダス王は触れるものがみな「黄金」に変わる能力を得た。ミダス王は狂喜し、眼に映るものをことごとく触れて「黄金」にした。しかし、やがて空腹を感じ、食事を口にしようとすると、それも「黄金」に変わり、最愛の娘も「黄金の彫像」に変わり、ミダス王はこの賜物が「破滅のもと」であることを悟る。すべてのものに美しさを感じようとするのも、触れるもの全てを「黄金」にすることにならないか? 「感動」は常におこるのではなく、ある瞬間に訪れ、そしてすぐに去って行く。去らせておけば、感動はいつでも必要な時に、ちゃんと現れる。
(心のデボーション5999)
心のデボーション6000
「心の安穩なるは身のいのちなり 娼嫉は骨の腐なり」 箴言14:30 明治元訳聖書
「穏やかな心は身の命である、しかし興奮は骨を腐らせる。」 口語訳聖書
「穏やかな心」
「穏やかな心(מַרְפֵּא)マルペ」は「癒され、落ち着いた心」、LXX「πραΰθυμος ἀνὴρ 優しい人」。「穏やかな心(מַרְפֵּא)マルペ」は身体と魂を健全にする。「穏やかな心」は大きな罪から人を守ってくれる。 「温順は大いなるとがを和らげる」。(伝道10:4)
(心のデボーション6000)
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