心のデボーション5981
「そは此の世の智慧は神の前に愚なればなり。録して『彼は智者をその惡巧によりて捕へ給ふ」 Ⅰコリント3:19 大正文語訳聖書
「なぜなら、この世の知恵は、神の前では愚かなものだからである。「神は、知者たちをその悪知恵によって捕える」と書いてあり、」 口語訳聖書
「知者の悪知恵」
「神は、知者たちをその悪知恵によって捕える」。(Ⅰコリント3:19 ヨブ5:13「彼は賢い者を、彼ら自身の悪巧みによって捕え、曲った者の計りごとをくつがえされる」) 「捕らえるδράσσομαι」は「しっかり手で掴む」の意。神は、この世の知者がいかに悪知恵を働かそうとも、その「悪知恵」そのものが彼らを「しっかり手で掴む」。「つまり、人は自分の「知恵」によって倒れるのです」。(リビングバイブル いのちのことば社)
(心のデボーション5981)
心のデボーション5982
「試錬に耐ふる者は幸福なり、之を善しとせらるる時は、主のおのれを愛する者に、約束し給ひし生命の冠冕を受くべければなり。」 ヤコブ1:12 大正文語訳聖書
「試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。」 口語訳聖書
「耐え抜く」
漢字で「耐」は「かまど」に「寸」と書いて「耐える」となる。かまどの一寸先に顔を近づけて、その熱さをじっとがまんすることの意である。聖書で「耐えるὑπομένω」は「後に留まる」で、逃げないで踏みとどまる、そこを自分の場とすることで持ちこたえるの意である。耐え抜いた人には「いのちの冠」が与えられる。それは「いのちでできた冠」のことで、耐え抜いた人によく似合う。
(心のデボーション5982)
心のデボーション5983
「惡をなすものの故をもて心をなやめ 不義をおこなふ者にむかひて嫉をおこすなかれ」 詩篇37:1 明治元訳聖書
「悪をなす者のゆえに、心を悩ますな。不義を行う者のゆえに、ねたみを起すな。」 口語訳聖書
「悪への妬み」
「悪をなす者のゆえに、心を悩ますな。不義を行う者のゆえに、ねたみを起すな」。「心を悩ますな*אַל־תִּתְחַר*」は「怒りに心を燃え上がらせるな」、「妬みを起こすな*אַל־תְּקַנֵּא*」は「うらやむな」の意。悪を為す者への「激しい怒り」には「悪と不義を自由に行う者」への「妬み」が隠されていることがある。「主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め。怒りをやめ、憤りを捨てよ。心を悩ますな、これはただ悪を行うに至るのみだ」。(詩篇37:7-8)
(心のデボーション5983)
心のデボーション5984
「斯してヨセフを祝していふわが父アブラハム、イサクの事へし神わが生れてより今日まで我をやしなひたまひし神」 創世48:15 明治元訳聖書
「そしてヨセフを祝福して言った、/「わが先祖アブラハムとイサクの仕えた神、/生れてからきょうまでわたしを養われた神、」 口語訳聖書
「私の羊飼い」
ニュージーランドではインコが羊を襲うそうことがあるという。インコは羊の背中に舞い降りて、その鋭いくちばしで羊の皮膚を食い破り、肉や脂肪を食べる。羊はインコにさえ襲われる弱い動物ある。ヤコブは生涯の終わりに、「きょうのこの日まで、ずっと」神は「私の羊飼い」であられたと告白する。私が羊のように弱いことが問題なのではなく、「私の羊飼い」を知らない羊であることが問題なのである。
(心のデボーション5984)
心のデボーション5985
「兄弟よ、汝らに勸む、妄なる者を訓戒し、落膽せし者を勵まし、弱き者を扶け、凡ての人に對して寛容なれ。」 Ⅰテサロニケ5:14 大正文語訳聖書
「兄弟たちよ。あなたがたにお勧めする。怠惰な者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。」 口語訳聖書
「空なる憂愁」
「なぜ空なる憂愁をもつて心を労するか、なぜ余計な煩悶をもつて気を疲らすか」。(アケンピス「基督のまねび」内村達三郎訳 春秋社昭和21/ 2より) わけもなく憂愁に心が閉ざされる時がある。だが、それに浸りきるのはよくない。余計なことで、魂を疲れさせるだけだ。
(心のデボーション5985)
心のデボーション5986
「そはいのちの泉はなんぢに在り われらはなんぢの光によりて光をみん」 詩篇36:9 明治元訳聖書
「いのちの泉はあなたのもとにあり、われらはあなたの光によって光を見る。」 口語訳聖書
「神の光」
「われらはあなたの光によって光を見る」。(詩篇36:9) 新改訳聖書「あなたの光に、わたしたちは光を見る」。「見る*ראה*」は「分かる、理解する」の意。人は「神の光」に照らされて、「光」を理解する。「神のいのち」の中に「いのち」が分かる。
(心のデボーション5986)
心のデボーション5987
「たれかおのれの過失をしりえんや ねがはくは我をかくれたる愆より解放ちたまへ」 詩篇19:12 明治元訳聖書
「だれが自分のあやまちを知ることができましようか。どうか、わたしを隠れたとがから解き放ってください。」 口語訳聖書
「人間のすばらしさ」
自分は常に正しいと主張する人ほど、低い自己イメージにとらわれているものである。本当は自分をみじめな人間と感じているのに、人に対しては自分を高く評価させようとする。低い自己イメージを高めるには、自分は間違っているかもしれないというところからはじめるとよい。自分にも間違いがあり、それを認めることによって、自分の間違いを正していける、それが人間のすばらしさであろう。自己イメージを変えるのはゆっくりとした営みである。
(心のデボーション5987)
心のデボーション5988
「なんぢら拙者のつたなきを愛し 嘲笑者のあざけりを樂しみ 愚なる者の知識を惡むは幾時までぞや」 箴言1:22 明治元訳聖書
「思慮のない者たちよ、あなたがたは、いつまで/思慮のないことを好むのか。あざける者は、いつまで、あざけり楽しみ、愚かな者は、いつまで、知識を憎むのか。」 口語訳聖書
「あざける者」
「あざける者は、いつまで、あざけり楽しみ」。(箴言1:22) 「楽しむ*חמד*」は「欲しがる、切望する」の意。「高ぶり」が「あざけり」を生み、とことん相手を蔑むことを楽しむ。楽しんでいる間は、嘲られた者の哀しみに気づくこともない。「思慮のない者*פֶּתִי*」の罪は深い。
(心のデボーション5988)
心のデボーション5989
「されど我なんぢらに告ぐ、榮華を極めたるソロモンだに、その服裝この花の一つにも及かざりき」 マタイ6:29 大正文語訳聖書
「しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」 口語訳聖書
「野の百合」
ソロモンの名声を聞いてやってきたシェバの女王は、ソロモンの知恵と、宮殿でのきらびやかなもてなしに「息も止まる思い」をした。(列王上10章) しかし、その栄華も、野に咲く一本の百合の花の装いの美しさにかなわない。そのシェバの女王も来る道すがら、道端に咲いていた野の百合(アネモネ)を見たが、一瞥をくれることもなかった。
(心のデボーション5989)
心のデボーション5990
「アハジアもまたアハブの家の道に歩めり其母かれを敎へて惡をなさしめたるなり」 Ⅱ歴代誌22:3
「アハジヤもまたアハブの家の道に歩んだ。その母が彼の相談相手となって悪を行わせたからである。」 口語訳聖書
「相談相手」
ユダの王ヨラムの子アハズヤはユダの王となったが、母アタルヤの助言(σύμβουλος)を受けて父ヨラムの悪政を継承した。アハズヤがユダの王に即位したのは、彼が43歳になった時であったが、依然として母の支配下にあって、その影響力を排除することができなかった。母親の悪しき影響を強く受けた子どもは、何歳になっても「悪しき事柄」につてい母親に相談する。たとえ、母親が老いて助言する力をうしなっても、彼はその習慣を止めない。
(心のデボーション5990)
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