心のデボーション5961
「金を愛することなく、有てるものを以て足れりとせよ。主みづから『わたれ更に汝を去らず、汝を捨てじ』と言ひ給ひたればなり。」 へブル13:5 大正文語訳聖書
「金銭を愛することをしないで、自分の持っているもので満足しなさい。主は、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた。」 口語訳聖書
「金を愛することなく」
「金を愛することなくἀφιλάργυρος」は「ἀ否定+ἵστημιἵστημι立つ+φιλάργυρος金銭を愛する」からなるギリシャ語で「金銭的愛着がない、金銭に潔白な、金銭をむさぼらない」の意。彼は「有てるもの」が「主からのもの」と信じ、「満足する」。神と共にあることを以て足れりとする。
(心のデボーション5961)
心のデボーション5962
「斯るがゆゑに我かれを誘ひて荒野にみちびきいり終にかれの心をなぐさめ」 ホセア2:14 明治元訳聖書
「それゆえ、見よ、わたしは彼女をいざなって、荒野に導いて行き、ねんごろに彼女に語ろう。」 口語訳聖書
「優しいことば」
不思議だ。神は夫と子どもを捨てて姦通する女を荒野にいざない、「優しく彼女に語る」という。新共同訳は「その心に語りかけよう」と訳し、文語訳は「終にかれの心をなぐさめ」と訳す。 人は荒野で心に深く語りかけられる「優しいことば」に、「終にその心をなぐさめられる」のである。神は楽園でも人に語りかけられるが、そこでは、人は心を閉ざし、「恐れて、身を隠す」のである。本当に不思議ではないか。
(心のデボーション5962)
心のデボーション5963
「汝らは世の光なり。山の上にある町は隱るることなし。」 マタイ5:14 大正文語訳聖書
「あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない」 口語訳聖書
「灯台もと暗し」
ことわざに「灯台もと暗し」という。世間のことはよくわかるのに、身近なことが疎んじられることへの戒めである。それはよいが、このことわざから「灯台の光」を蔑む理由は全くない。「灯台のもと」を照らすには「灯台の光」は必要なく、懐中電灯一本あればすむ。主イエスが語られた「世の光」は「夜の闇をてらす燭台の光」であって、「世を照らす」のは「灯台の光」ではなく、「手元や足元を照らす灯火皿の光」である。
(心のデボーション5963)
心のデボーション5964
「然ど第七年には地に安息をなさしむべし是ヱホバにむかひてする安息なり汝その田野に種播べからずまたその菓園の物を剪伐べからず」 レビ25:4 明治元訳聖書
「しかし、七年目には、地に全き休みの安息を与えなければならない。これは、主に向かって守る安息である。あなたは畑に種をまいてはならない。また、ぶどう畑の枝を刈り込んではならない。」 口語訳聖書
「安息の年」
六年間は畑に種を蒔き、七年目は「安息の年」として、種も蒔かず刈り入れもしないのが、聖書の定めであった。「安息の年」を七回数えてその次の年、つまり五十年目は、「ヨベル(解放)の年」と呼ばれた。ヨベルの年にはすべての奴隷は解放され、手離された土地は元の地主に返された。七年目には種も蒔かず刈り入れもせず、ひたすら自分を休ませ解放する「安息の年」を宣言するとよいかもしれない。
(心のデボーション5964)
心のデボーション5965
「昔の日を憶え過にし世代の年を念へよ汝の父に問べし彼汝に示さん汝の中の年老に問べし彼ら汝に語らん」 申命記32:7 明治元訳聖書
「いにしえの日を覚え、代々の年を思え。あなたの父に問え、彼はあなたに告げるであろう。長老たちに問え、彼らはあなたに語るであろう。」 口語訳聖書
「歴史」
「わたしの国では、分別のない人間を指して、彼は記憶をもたないと言うのである」。モンテーニュ(モンテーニュ「エセー」原二郎訳 筑摩書房昭和43年より) 正しい歴史を知る者は今を知る。歴史を記憶しなければ未来にたいする分別を損なう。
(心のデボーション5965)
心のデボーション5966
「完全者はその正義によりてその途を直くせられ 惡者はその惡によりて跌るべし」 箴言11:5 明治元訳聖書
「誠実な者は、その正義によって、その道をまっすぐにせられ、悪しき者は、その悪によって倒れる。」 口語訳聖書
「悪しき者」
「悪しき者は、その悪によって倒れる」。(箴言11:5) 「倒れる* יִפֹּ֥ל (yip·pōl)*」は未完了形で、行為が「継続中・反復的・将来的」であることを示し、「彼は(必ず)倒れ、倒れ続けるだろう」の意。「悪しき者」は、外的地からによらず、その為せる悪そのものによって、必ず自ら倒れ、倒れ続けるだろう。LXX「πίπτουσιν」は現在形で「その悪による転落が現在進行中であることを示す。
(心のデボーション5966)
心のデボーション5967
「かへつて我がすべての勸告をすて我が督斥を受ざりしに由り」 箴言1:25 明治元訳聖書
「かえって、あなたがたはわたしのすべての勧めを捨て、わたしの戒めを受けなかったので、」 口語訳聖書
「こころぞえ」
ほとんどの「忠告ἐλέγχω」は無視されるか、ドブに捨てられる運命にある。それどころか、「的を射た忠告」は、相手の怒りをさそいかねない。わかりきっていることを、ことさらに「忠告」されたので怒るのだ。「忠告」は「こころぞえ」である。その「忠告」にどんな心が添えられているかが問題なのだ。「忠告」はことばでなされるとは限らない。心を添えながら黙っているという「忠告」もある。
(心のデボーション5967)
心のデボーション5968
「罪を犯せる靈魂は死べし子は父の惡を負ず父は子の惡を負ざるなり義人の義はその人に歸し惡人の惡はその人に歸すべし」 エゼキエル18:20 明治元訳聖書
「罪を犯す魂は死ぬ。子は父の悪を負わない。父は子の悪を負わない。義人の義はその人に帰し、悪人の悪はその人に帰する。」 口語訳聖書
「悪人の悪」
「悪人の悪はその人に帰する」。(エゼキエル18:20) 「悪人の悪」はその人の上に「*היה*起こる」。悪しき人のなす「悪」はそれを為す者に帰し、子は父の悪を負わない。子は自らの「悪」によって父の「悪」をを引き継ぐのである。
(心のデボーション5968)
心のデボーション5969
「そのとき二人の男畑にをらんに、一人は取られ一人は遺されん。」 マタイ24:40 大正文語訳聖書
「そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。」 口語訳聖書
「主の日」
主に従う者は「家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑(ἀγρός)を捨てた者」である。(マタイ19:29 マルコ10:29,30 ルカ14:18) 主の日が来るとき、畑(ἀγρός)にいる者は上着を取りに家に戻ってはならない。畑の一人はとられ、一人は残される。(マタイ24:18,40) 主の日まで、耕す者は畑(ἀγρός)を耕せ、しかし、その日にはすべてを置いて主に従うのである。
(心のデボーション5969)
心のデボーション5970
「その時汝らは更にまた義者と惡きものと神に服事るものと事へざる者との區別をしらん」 マラキ3:18 明治元訳聖書
「その時あなたがたは、再び義人と悪人、神に仕える者と、仕えない者との区別を知るようになる。」 口語訳聖書
「事を行われる日」
ある者は「悪を行う者は栄えるばかりでなく、神を試みても罰せられない」ではないかと嘆く。(マラキ3:15)しかし、神は「あなたがたは、再いび義人と悪人、神に仕える者と、仕えない者との区別を知るようになる」と語られる。(マラキ3:18) 義をなしても報われず、悪をなしても栄えることがあっても、「いつまでも」ではない。神が「事を行われる日」(マラキ3:17)は必ず来る。
(心のデボーション5970)
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