心のデボーション596

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心のデボーション5951

「神はわれらの避所また力なり なやめるときの最ちかき助なり」 詩篇46:1 明治元訳聖書

「神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。」 口語訳聖書

 「避け所」

「逃げる」という選択肢をもたない人は意外と脆いものだ。自分がどれほど追い詰められているかに気づかず、限界まで自分を追い詰めてしまう。「避けどころ*מַח‏ְסֶה*」は「逃げ道、隠れ場」の意味である。作者は「神が私の避け所」と告白し、悩める時にはそこに逃げ込む。

(心のデボーション5951)

心のデボーション5952

「夜半ごろパウロとシラスと祈りて神を讃美する囚人ら聞きゐたるに、」 使徒16:25  大正文語訳聖書

「真夜中ごろ、パウロとシラスとは、神に祈り、さんびを歌いつづけたが、囚人たちは耳をすまして聞きいっていた。」 口語訳聖書

 「真夜中の賛美」

パウロとシラスは「町をかき乱した」という理由で捕らえられ、ムチ打たれ、奥の牢に収監される。しかし、真夜中に彼らは神に祈りつつ、賛美の歌を歌うのである。夜の暗闇から聞こえてくる、不思議な歌声に囚人たちは聞き入る。教会がいつの時代にも歌ってきた「霊の歌」とは、この時の「感謝にあふれて心から神に向かって歌う」賛美である。(コロサイ3:16) この不思議な歌声を聞きたいものだ。 

(心のデボーション5952)

心のデボーション5953

「なんぢのわが心にあたへたまひし歓喜はかれらの穀物と酒との豊かなる時にまさりき」 詩篇4:7  明治元訳聖書

「あなたがわたしの心にお与えになった喜びは、穀物と、ぶどう酒の豊かな時の喜びに/まさるものでした。」 口語訳聖書

 「燃え尽き症候群」

「燃え尽き症候群burnout」はアメリカの精神分析学者ハーバート・フロイデンバーガーHerbert J.Freudenbergerが提唱した言葉で、それまで熱心だった人が、ある時を境に急にやる気を失い、抜殻のようになってしまう。それが原因で死に至ることもある病である。燃え尽きる前はk輝きを増すので、ストレスがそこまで高まっていることが、本人も周囲の人もわからない。自分の内的力がどれほどかを量り、疲れたら休むことだ。それもまた内的力である。

(心のデボーション5953)

心のデボーション5954

「彼ら悲泣來らん我かれらをして祈禱をもて來らしめ直くして蹶かざる途より水の流に歩みいたらしめん我はイスラエルの父にしてエフライムは我長子なればなり」 エレミヤ31:9  明治元訳聖書

「彼らは泣き悲しんで帰ってくる。わたしは慰めながら彼らを導き帰る。彼らがつまずかないように、まっすぐな道により、水の流れのそばを通らせる。それは、わたしがイスラエルの父であり、エフライムはわたしの長子だからである。」 口語訳聖書

 「小川のせせらぎ」

自然の中で最も好ましいのは「小川のせせらぎ」だそうである。そういえば、保育園の子どもは水道の栓をひねって、流れる水を手に受けるのが大好きだ。そうやって、「小川のせせらぎ」を聴いているのかもしれない。「川の流れのほとり」には神の「慰め」がある。気に入った「流れ」をさがすためにだけ野山を歩くのもいい。(ヨハネ7:38)

(心のデボーション5954)

心のデボーション5955

「凡ての苦・憤恚・怒・喧噪・誹謗、および凡ての惡意を汝等より棄てよ。」 エペソ4:31  大正文語訳聖書

「すべての無慈悲、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、また、いっさいの悪意を。」 口語訳聖書

 「悪意」

罠にかかって尾を失ったイソップの狐は、尾のないことを恥じて、仲間をあつめ、「尾なんかくっつけておくなんて余計な重荷だ」と自分とおなじように切り捨てるようにと促す。だが、仲間の狐は「自分の利益のことしか考えないお前のことをだれが信じるか」と言う。本当の好意からでなければ人はいうことをきかない。(「イソップ寓話集」41 山本光雄訳 岩波書店1942/2より)

(心のデボーション5955)

心のデボーション5956

「人は終日しきりに慾を圖る されど義者は與へて吝まず」 箴言21:26 明治元訳聖書

「悪しき者はひねもす人の物をむさぼる、正しい者は与えて惜しまない。」 口語訳聖書

 「貪り」

「有(も)つて正しくないものは、汝之を有たうと貪るな。汝を妨害し、又は内的の自由を奪はうとする如きもの、汝之を有たうとするな」。(トマス・アケンピス「基督のまねび」内村達三郎訳 昭和21/2より) 持つに意味のないものや内的自由を損なうものを持とうとするのは「貪りἐπιθυμητής」である。

(心のデボーション5956)

心のデボーション5957

「爰にヱホバ、アブラムに言たまひけるは汝の國を出で汝の親族に別れ汝の父の家を離れて我が汝に示さん其地に至れ」 創世12:1  明治元訳聖書

「時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。」 口語訳聖書

 「出発」

神はアブラハムに生まれ故郷、父の家を「出て」、神の示す地に「行きなさい」と命じられた。「行きなさい」ということばは、直訳すると「あなた自身に向かって」となる。神がアブラハムに命じられたのは、自分が依存する世界から出て、自分自身に向かって出発することであった。私たちは、自分がしがみついているもの、安らげるものを放さなければ、本当の自分に向かうことはできない。自分から出なければ自分に到達しないのである。

(心のデボーション5957)

心のデボーション5958

「人々みな汝につきて聞きたることの虚僞にして、」 使徒21:24  大正文語訳聖書

「あなたについて、うわさされていることは、根も葉もないことで、」 口語訳聖書

 「根も葉もないうわさ」

「愚か者は、噂によって産みの苦しみを味わう。あたかも子を産む女が陣痛に苦しむように。」(旧約聖書外典ベン=シラの知恵19:11  新共同訳聖書) 愚か者は「噂」を「胸に秘めておく」ことができす、腹に宿してしまう。やがて「噂」は腹に成長し、「産みの苦しみ」と共に子を産み落とす。

(心のデボーション5958)

心のデボーション5959

「汝らの中でだれが思い煩いて身の長一尺を加え得んや」マタイ6:27 大正文語訳聖書

「あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。」 口語訳聖書

 「今を生きる」

人間はそのときが来たら死ぬ。その時までは死なない。その時のことを思うのは、「今」を思うことである。「今」は生きている、それがすべてである。死はいのちのなかにある。

(心のデボーション5959)

心のデボーション5960

「イエスその心の爭論を知りて、幼兒をとり御側に置きて言ひ給ふ、」 ルカ9:27  大正文語訳聖書

「イエスは彼らの心の思いを見抜き、ひとりの幼な子を取りあげて自分のそばに立たせ、彼らに言われた、」 口語訳聖書

 「洞察力のある人」

「洞察力のある人に出会ったら/朝早くから彼のもとに通い/その戸口の敷居をお前の足ですり減らせ」。(旧約聖書外典ベン=シラの知恵6:36新共同訳聖書) 現代はAIが「洞察力のある人」の地位につきつつある。誰も、「彼のもとに通い、その戸口の敷居をお前の足ですり減らす」必要がなくなった。しかし、AIといえども、彼から洞察力を得、それをものにするには「彼のもとに通いつめ、その戸口の敷居を擦り減らず」ほどの「訪れ」が求められるのではないか?

(心のデボーション5960)

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