心のデボーション595

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心のデボーション5941

「主の言この地に徧く弘りたり。」 使徒13:49  大正文語訳聖書

「こうして、主の御言はこの地方全体にひろまって行った。」 口語訳聖書

 「御言葉を持ち運ぶ」

パウロとバルナバはピシデヤのアンテオケに行き、ユダヤ人の会堂で説教し、多くの信者を獲得した。(使徒13:14-52)。しかし、「ユダヤ人たちは、その群衆を見てねたましく思い、パウロの語ることに口ぎたなく反対した」。そこでパウロは「わたしたちはこれから方向をかえて、異邦人たちの方に行く」と告げ、「こうして、主の御言はこの地方全体にひろまって行った」。(使徒13:43-48) 「広まって行くδιαφέρω」は「持ち運ばれていった」の意。宣教とは「神の御言葉を持ち運ぶ」ことであり、宣教者とは「御言葉を持ち運ぶ器」のことである。

(心のデボーション5941)

心のデボーション5942

「イスラエルよヱホバによりて望をいだけ そはヱホバにあはれみあり またゆたかなる救贖あり」 詩篇130:7  明治元訳聖書

「イスラエルよ、主によって望みをいだけ。主には、いつくしみがあり、また豊かなあがないがあるからです。」 口語訳聖書

 「星影の井戸」

「星影の井戸」と呼ばれる古い井戸がある。硬い岩をくりぬいた深い井戸である。岩盤の底に豊かな水脈があるかどうかは、わからない。途中、もうあきらめようとして上を見上げると星が見える。深い井戸が光の乱射を吸収して、昼でも空に星が見えたのである。それに励まされて、再び岩にノミを当て、次の一振りが水脈をあてたことからこの名がある。疲れたら、星を見上げることです。次の一振りが「豊かな贖いの水」を掘りあてるかもしれない。

(心のデボーション5942)

心のデボーション5943

「なんぢ生命の道をわれに示したまはん なんぢの前には充足るよろこびあり なんぢの右にはもろもろの快樂とこしへにあり」 詩篇16:11  明治元訳聖書

「あなたはいのちの道をわたしに示される。あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある。」 口語訳聖書

 「いのちの道」

「いのちの道」は「正義の道(「義しき道」明治元訳聖書)」である。「正義の道にはいのちがある。その道筋には死がない」(新改訳聖書)、「この道を踏む人に死はない」(新共同訳聖書)。(箴言12:28) 「いのちの道」には「満ちあふれる喜び」がある。「いのちの泉はあなたのもとにあり、われらはあなたの光によって光を見る」。(詩篇36:9)

(心のデボーション5943)

心のデボーション5944

「老たる者の中には智慧あり 壽長者の中には穎悟(さとり)あり」 ヨブ12:12  明治元訳聖書

「老いた者に知恵があり、年のたけた者に英知があるのか。」 口語訳聖書

 「手遅れ」

ある個人銀行の経営者が二人の息子に「いつか自分も老いて判断力が衰えるだろう。そのときがきたら引退するように説得してほしい」と頼んだ。月日が経ち、ついに二人の息子は父との約束を果たそうとしました。すると老いた経営者は書類の山からおどけた笑みをうかべながら、「もう手遅れじゃ」といったという。これは笑い話というよりも、老いることに失敗した父と息子の悲劇というべきかもしれない。

(心のデボーション5944)

心のデボーション5945

「汝らの心の眼を明かにし、神の召にかかはる望と、聖徒にある神の嗣業の榮光の富と、」 エペソ1:18  大正文語訳聖書

「あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、」 口語訳聖書

 「目に光を」

「あなたがたの心の目を明らかにして」、「あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と」、祈りなさい。(エペソ1:18-19) 「心の目を明らかにπεφωτισμένους τοὺς ὀφθαλμοὺς τῆς καρδίας」、「明らかにφωτίζω」は「光を与えて、光を投げかけて、明るみに出して」の意。「神の召の望み、神の国の栄光、神の力強い働く力いかに絶大なものであるかを、知るに至るために」、「わたしの目に光を投げかけてください」と祈る。

(心のデボーション5945)

心のデボーション5946

「我は卑賤にをる道を知り、富にをる道を知る。また飽くことにも、飢うることにも、富むことにも、乏しき事にも、一切の秘訣を得たり」 ピリピ4:12  大正文語訳聖書

「わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。」 口語訳聖書

 「身を低くする」

パウロは「貧に処する道を知り、富におる道も知り、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘訣を心得ては」という。その「秘訣」は「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」というものであった。(ピリピ4:13) 「貧に処する」にも「富に処する」にも「力」がいる。この「力」は「ありとあらゆる境遇に処することのできる力」である。「処するταπεινόω」は「身を低くする」の意から「謙遜になる」の意味を持つギリシャ語である。「貧にも、富にも」、「あらゆる境遇に」身を低くすることができるのが信仰の力である。

(心のデボーション5946)

心のデボーション5947

「我がキリストに效ふ者なる如く、なんぢら我に效ふ者となれ」 Ⅰコリント11:1  大正文語訳聖書

「わたしがキリストにならう者であるように、あなたがたもわたしにならう者になりなさい。」 口語訳聖書

 「大根役者」

「見ならうμιμητής」は「演じる」である。パウロは俳優の舞台で演じるように、キリストを演じなさいとすすめる。信仰は「キリストのまねび」である。まず、キリストが私を見るのと同じ視線で自分を見、人を見ることからはじめたい。それができないままにキリストを演じるのは「大根役者」というべきか。これを「くさい芝居」といい、大変に評判の悪いもので、本人にそれがわかっていないのが特徴である。ちなみに、なぜ「大根役者」かについては、大根の色の白いことから素人 (しろうと)に寄せていったもの、下手なた役者を意味する「馬の脚」から「足」から連想していったもの、大根はどのように食べても腹を壊さないので、「下手」は「当たらない」の意、など諸説がある。

(心のデボーション5947)

心のデボーション5948

「すべての操守べき物よりもまさりて汝の心を守れ そは生命の流これより出ればなり」 箴言4:23 明治元訳聖書

「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。」 口語訳聖書

 「いのちの泉」

人生に守るべきものは多い。しかし、何にもまして「心」を守れ。「心」から「命の泉が湧き出る」からである。「命の泉」とは生命を「維持し、命を与え、命に回復させ、成長させ、リバイブし、目覚めさせる」いのちの根源のことである。

「我を信ずる者は、聖書に云へるごとく、その腹より活ける水、川となりて流れ出づべし」 ヨハネ7:38 大正文語訳聖書

(心のデボーション5948)

心のデボーション5949

「汝らの中でだれが思い煩いて身の長一尺を加え得んや」マタイ6:27 大正文語訳聖書

「あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。」 口語訳聖書

 「変えることのできないもの」

「私」はわずかでも変えることのできないもので出来ている。「わずかでも変えることのできないもの」によっても、人は真の存在に近づく。

(心のデボーション5949)

心のデボーション5950

「さらば死は我等のうちに働き、生命は汝等のうちに働くなり。」 Ⅱコリント4:12  大正文語訳聖書

「こうして、死、はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである。」 口語訳聖書

 「いのちはあなたがたのうちに」

イエス・キリストの十字架の死によって、イエスのいのちが信じる者にもたらされたように、イエスに従う者の負う死の苦しみは人々にキリストのいのちとして働く。「働く」のギリシャ語「ἐνεργέω」は「結果を出す」の意である。キリストの苦しみは、いのちに結果を出さずにはおかない。

(心のデボーション5950)

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