心のデボーション5831
「今くるしみを受れども後には闇なかるべし 昔しはゼブルンの地ナフタリの地をあなどられしめ給ひしかど 後には海にそひたる地ヨルダンの外の地 ことくに人のガリラヤに榮をうけしめ給へり」 イザヤ9:1 明治元訳聖書
「しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。」 口語訳聖書
「苦しみにあった地」
イザヤが「地を見ると、見よ、悩みと暗きと、苦しみのやみとがあり、彼らは暗黒に追いやられ」ていた。(イザヤ8:22) しかし、イザヤは「苦しみにあった地にも、やみがなくなる」「ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる」。と告げる。(イザヤ9:1)「暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た」からである。(イザヤ9:2)
(心のデボーション5831)
心のデボーション5832
「白髮の人の前には起あがるべしまた老人の身を敬ひ汝の神を畏るべし我はヱホバなり」 レビ19:32 明治元訳聖書
「あなたは白髪の人の前では、起立しなければならない。また老人を敬い、あなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。」 口語訳聖書
「老人を敬う」
老人たちが集まって楽しそうに話している。その中心にいる人は仲間が話し出すと、しっかりした大きな声で「そうかい」「そうかい」と相槌を打つ。この人の所に老人たちが集まるのは、彼の「そうかい」を聞きたいからかもしれない。何度同じ話を聞いても、初めて聞く話のように「そうかい」と応じる。「老人を敬う」とは、人の人生を「そうかい」と聞くことだ。人が良く老いるには、自分がいかに生きたかを語る対象が必要なのである。
(心のデボーション5832)
心のデボーション5833
「人の世にあるは影にことならず その思ひなやむことはむなしからざるなし その積蓄ふるものはたが手にをさまるをしらず」 詩篇39:6 明治元訳聖書
「まことに人は影のように、さまよいます。まことに彼らはむなしい事のために/騒ぎまわるのです。彼は積みたくわえるけれども、だれがそれを収めるかを知りません。」 口語訳聖書
「たくわえ」
不安に駆られて、人は「影のように、さまよい」、「むなしい事のために騒ぎまわり」「積みたくわえる」。(詩篇39:6) しかし、彼らの「積み蓄えたもの」は「だれがそれを収める」のだろうか? 「愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか」。(ルカ12:20)
(心のデボーション5833)
心のデボーション5834
「されば凡ての穢と溢るる惡とを捨て、柔和をもて其の植ゑられたる所の靈魂を救ひ得る言を受けよ。」 ヤコブ1:21 大正文語訳聖書
「だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある。」 口語訳聖書
「すなおさ」
私は自分が決して「すなお」ではないと思っている。つい、ものごとを裏から考えてみたくなる。そんな私には「みことばをすなおに受け入れなさい」という聖句は胸に刺さる。そこで調べてみると、「すなお」とは「混ぜものがない」という意味である。「混ぜもの」とは、「ブドー酒を水でうすめる」の意味である。みことばをうすめないで原液のまま味わうのが「すなお」である。つまり、あまり「すなお」でなくてもいいということだろうか。
(心のデボーション5834)
心のデボーション5835
「我キリストに在りて眞をいひ虚僞を言はず、」 ロマ9:1 大正文語訳聖書
「わたしはキリストにあって真実を語る。偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって、わたしにこうあかしをしている。」 口語訳聖書
「ひとりくらいなら」
伊住政和さんの「茶の湯の小窓」にこんなお話がある。村祭りの日にはみなが酒を一升づつもちより、
大甕に入れて捧げ、祭りが終わったらおさがりを飲む習慣だった。ある年のこと、酒盛りがはじまると大甕の酒は水に変わっていた。みなはその理由を知っていた。一人くらいは「水」でも分かるまいと持ち寄ってが、実は全員が水を持ち寄ったのである。(伊住政和「茶の湯の小窓」小池書院1998/7より) ひどく気まずい酒盛りになったことだろう。
(心のデボーション5835)
心のデボーション5836
「嘉名は大なる富にまさり恩寵は銀また金よりも佳し」 箴言22:1 明治元訳聖書
「令名は大いなる富にまさり、恩恵は銀や金よりも良い。」 口語訳聖書
「令名」
「令名は大いなる富にまさり」。(箴言22:1) 「令名」は「よい評判」の意。LXXは「ὄνομα καλὸν美しい名」。名声を得ることは「大いなる富」を得ることにまさる。「令名」は「無名の者」に与えられる名である。
(心のデボーション5836)
心のデボーション5837
「汝また心に念ふべし人のその子を懲戒ごとく汝の神ヱホバも汝を懲戒たまふなり」 申命8:5 明治元訳聖書
「あなたはまた人がその子を訓練するように、あなたの神、主もあなたを訓練されることを心にとめなければならない。」 口語訳聖書
「三年目のバハティ」
鼻のない子象バハティは、誕生から三年目に入った。あと二年もすればバハティは自立して、群れから離れなければならない。自立を前にして母親のエバークリーンはバハティを連れて群れから離れる。バハティに自分で生きる知恵と勇気を学ばせるためである。しかし、それは母親にとっても危険に身をさらす旅になる。子どもが自立する時は、母親もまた、自身の自立を学ぶ時なのかもしれない。(バハティがその後どのように生きたかはわかっていない。)
(心のデボーション5837)
心のデボーション5838
「われ新しき誡命を汝らに與ふ、なんぢら相愛すべし。わが汝らを愛せしごとく、汝らも相愛すべし。」 ヨハネ13:34 大正文語訳聖書
「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」 口語訳聖書
「過保護」
「過保護」は一種の暴力である。無力な子どもたちは親の支配に打ちのめされ、激しい怒りと憎悪を抱きつつ、心に親の嫌なところを取り入れてしまう。自分のすべてを与えようとする愛はあぶない。
(心のデボーション5838)
心のデボーション5839
「神を金・銀・石など人の工(わざ)と思考(かんがへ)とにて刻める物と等しく思ふべきにあらず」使徒17:29 大正文語訳聖書
「このように、われわれは神の子孫なのであるから、神たる者を、人間の技巧や空想で金や銀や石などに彫り付けたものと同じと、見なすべきではない。」 口語訳聖書
「偽りの神」
人の「工(わざ)と思考(かんがえ)」が「偽りの神」を刻み創る。「工 (わざ)τέχνη テクネー」は英語 technology テクノロジーの語源となったギリシャ語で「技術、技」である。「思考(かんがえ)ἐνθύμησις エントユメーシス」は「熟慮」である。人間の「技術 テクノロジー」と「熟慮」が、「物」という現代の神を生み出した。これを操るのは「マモン 富」という偽りの神である。
(心のデボーション5839)
心のデボーション5840
「願くはなんぢの光となんぢの眞理とをはなち我をみちびきてその聖山とその帷幄とにゆかしめたまへ」 詩篇43:3 明治元訳聖書
「あなたの光とまこととを送ってわたしを導き、あなたの聖なる山と、あなたの住まわれる所に/わたしをいたらせてください。」 口語訳聖書
「絶望している時にも」
「神の光とまこと」が私を神の「聖なる山、聖なるみ住い」に至らせる。(詩篇42:3) それゆえ、たとえ私の魂が「絶望している時」にも、「わたしはヨルダンの地から、またヘルモンから、ミザルの山からあなたを思い起す」。(詩篇42:6)
(心のデボーション5840)
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