心のデボーション581

デボーション1
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心のデボーション5801

「キリストとその復活の力とを知り、又その死に效ひて彼の苦難にあづかり、」 ピリピ3:10  大正文語訳聖書

「すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、」 口語訳聖書

 「キリストのうちに自分を見いだす」

自分を知るということは「自分を引き受ける」ということである。「キリストを知る」ということは、「キリストのうちに自分を見いだす」ことである。すなわち、「キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、死人のうちからの復活に達した」自分を引き受けることである。(ピリピ3:9-11)

(心のデボーション5801)

心のデボーション5802

「忠信なる人は多くの幸福をえ 速かに富を得んとする者は罪を免れず」 箴言28:20  大正文語訳聖書

「忠実な人は多くの祝福を得る、急いで富を得ようとする者は罰を免れない。」 口語訳聖書

 「終わりのない作業」

サンフランシスコのゴールデン・ゲート・ブリッジは数人の職人が橋の端からペンキを塗りはじめると、対岸に到達するころは、最初に戻って、次のペンキを塗るのにちょうど良い時期になっているそうである。大勢の職人で一気に塗るよりも、この方が効率よく仕上がるという。いつでも、どこかで小さく修理していく方が、大がかりで完全な修理よりも効果的である場合も少なくない。ただ、この場合「この作業は終わりがない」と納得する必要がある。

(心のデボーション5802)

心のデボーション5803

「我すべての事に於て例を示せり、即ち汝らも斯く働きて、弱き者を助け、また主イエスの自ら言ひ給ひし『與ふるは受くるよりも幸福なり』との御言を記憶すべきなり」 使徒20:35  大正文語訳聖書

「わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである」 口語訳聖書

 「ひっ捕まえる」

「受けるよりは与える方が、さいわいである」。(使徒20:35) 「受けるλαμβάνω」は「手に取る、握る、ひっ捕まえる」の意味である。手に取り、握りしめ、捕獲し、持ち去ること。欲しがる人は何でも持ってゆく。

(心のデボーション5803)

心のデボーション5804

「イエスその臥し居るを見、かつその病の久しきを知り、之に『なんぢ癒えんことを願ふか』と言ひ給へば、」 ヨハネ5:6  大正文語訳聖書

「イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。」 口語訳聖書

 「よくなりたいのか」

「成功のまさにその瞬間に、破滅への道を自ら選び取る人々」がいる。意識は成功を望んでいるのですが、無意識には失敗を選んでいる。自分の幸せを信じることができず、いつも自分を被害者に見る。そして、成功しないのは自分にチャンスを与えてくれない世間が悪いと考える。イエスは、長年、病気で床に伏せっている男に、「よくなりたいのかὑγιής」と尋ねられた。自分が本当には何を望んでいるのかを知るところから、主の業がはじまる。

(心のデボーション5804)

心のデボーション5805

「心の安穩なるは身のいのちなり 娼嫉は骨の腐なり」 箴言14:30 明治元訳聖書

「穏やかな心は身の命である、しかし興奮は骨を腐らせる。」 口語訳聖書

 「妬み」

「しかし興奮は骨を腐らせる」。(箴言14:30) 新改訳聖書「激しい思いは骨をむしばむ」。リビングバイブル日本語訳(いのちのことば社)「嫉妬深いと寿命を縮めます」。ヘブル語「激しい思い」は「赤」からくることばで、「赤い炎」から「妬み」にも用いられる。「妬み」は骨をむしばみ、人の支えとなる力を腐らせる。

(心のデボーション5805)

心のデボーション5806

「神の靈われを造り 全能者の氣息われを活しむ」 ヨブ記33:4 明治元訳聖書

「神の霊はわたしを造り、全能者の息はわたしを生かす」 口語訳聖書

 「全能者の息」

「神の霊」によって造られ、「全能者の息」に生かされる人のくちびるは、「真実をもってその知識を語る」。(ヨブ33:4) そのちびるから語られる「ことば(全能者の息נ‏ְשׁ‏ָמ‏ָה)」が聞く者にいのちを与える。

(心のデボーション5806)

心のデボーション5807

「なんぢら多く得んと望みたりしに反て少かりき 又汝等これを家に携へ歸りしとき我これを吹はらへり 萬軍のヱホバいひたまふ 是何故ぞや 是は我が殿破壞をるに汝等おのおの己の室に走り至ればなり」 ハガイ1:9  明治元訳聖書

「あなたがたは多くを望んだが、見よ、それは少なかった。あなたがたが家に持ってきたとき、わたしはそれを吹き払った。これは何ゆえであるかと、万軍の主は言われる。これはわたしの家が荒れはてているのに、あなたがたは、おのおの自分の家の事だけに、忙しくしている。」 口語訳聖書

 「でぇだらぼっち」

尾張の昔話に「でぇだらぼっち」という、とてつもない大男がいる。子どもをさずかった夫婦に「一日一回、笹の葉二枚を入れたおフロに入れなさい」と告げられて、夫婦は早く大きくしたくて一日に何回もおフロに入れたので、子どもは雲つく大男に育ってしまったのが「でぇだらぼっち」である。母親の期待に、自我がふくらみすぎて、仲間に入れてもらえないのが、現代の「でぇだらぼっち」かもしれない。子どもは「一日一回、笹の葉二枚」くらいの成長が好ましい。だが、その休みない成長は素晴らしいものだ。

(心のデボーション5807)

心のデボーション5808

「ヱホバいにしへ其御わざをなしそめたまへる前に その道の始として我をつくりたまひき」 箴言8:22  明治元訳聖書

「主が昔そのわざをなし始められるとき、そのわざの初めとして、わたしを造られた。」 口語訳聖書

 「御業」

私が存在するということは、「神が御業をし始められる」ということである。リビングバイブル日本語版(いのちのことば社)は「神様は創造のみわざを始める前に、まず私をおつくりになった」と訳す。人はいつ、どこにおいても、神が私によってし始めようとなさる御業を知るべきである。神がし始めようとなさる御業は「私」という存在の内にある。

(心のデボーション5808)

心のデボーション5809

「人は二人の主に兼ね事ふること能はず、或はこれを憎み彼を愛し、或はこれに親しみ彼を輕しむべければなり。汝ら神と富とに兼ね事ふること能はず」 マタイ6:24 大正文語訳聖書

「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」 口語訳聖書 

 「神に仕える」

「仕えるδουλεύω」は「奴隷となって仕える」という意味である。「マモン(富)」が存在のすべてとなるとき、人はもはや「奴隷」である。しかし、「神仕える」ことが「すべて」自分を見失うなら、それもまた「奴隷」である。共に神を主とすることではない。人はマモンにも神にも「奴隷」であってはならない。

(心のデボーション5809)

心のデボーション5810

「されど我らには神これを御靈によりて顯し給へり。御靈はすべての事を究め、神の深き所まで究むればなり。」 Ⅰコリント2:10  大正文語訳聖書

「そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。」 口語訳聖書

 「神の深みまでも」

神の御業は「いかに大いなること」か、その「もろもろの思いは、いとも深く、鈍い者は知ることができず、愚かな者はこれを悟ることができない」。(詩篇92:5-6) しかし、それを神は、「御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである」。(Ⅰコリント2:10)

(心のデボーション5810)

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