心のデボーション569

デボーション1
Generic selectors
完全一致
タイトルから
記事本文から
Post Type Selectors
Filter by Categories

心のデボーション5681

「われ更に汝ら聽くものに告ぐ、なんじらの仇を愛し、汝らを憎む者を善くし、」 ルカ6:27  大正文語訳聖書

「しかし、聞いているあなたがたに言う。敵を愛し、憎む者に親切にせよ。」 口語訳聖書

 「不倶戴天」

「不倶戴天」は「礼記‐曲礼上」の「父の讐は倶に天を戴かず、兄弟の讐は兵に反らず、交遊の讐は国を同じうせず」に由来する。「父の仇とは同じ天の下に生きず、必ず見つけ出して殺せ、兄弟の仇は出会ったら武器をとりに帰らず、その場で殺せ、友の仇とは同じ国に住むな」という教えである。「不倶戴天」は元々、深い恨みに基づくが、相手を探い出しても殺せ、相手を探すようなことはせずたまたま出会えば殺せ、相手が逃げたら追うなというように、「怨念の深さ」は相手によって変えなければならなかったのである。現代は、第二、第三が消え、もっとも厳しい「不倶戴天」が国を動かす時代にはいったようだ。

(心のデボーション5681)

心のデボーション5682

「夜われ床にありて我心の愛する者をたづねしが尋ねたれども得ず」 雅歌3:1  明治元訳聖書

「わたしは夜、床の上で、わが魂の愛する者をたずねた。わたしは彼をたずねたが、見つからなかった。わたしは彼を呼んだが、答がなかった。」 口語訳聖書

 「シンデレラ」

シンデレラが幸せになれたのは継母のいいつけにそむいたからである。舞踏会では約束の時刻を忘れかけ、それでもガラスの靴を一つだけ、王子が自分を捜す手がかりとして残したりする。シンデレラは意外としたたかな娘なのかもしれない。運命に逆らうことをしない「いい子」が幸せとはいい切れない。しかし、何が何でも王子と結婚したいシンデレラが幸せなのだろうか? あなたはシンデレラが好きですか? 

(心のデボーション5682)

心のデボーション5683

「艶麗はいつはりなり 美色は呼吸のごとし 惟ヱホバを畏るる女は譽られん」 箴言31:30  明治元訳聖書

「あでやかさは偽りであり、美しさはつかのまである、しかし主を恐れる女はほめたたえられる。」 口語訳聖書

 「狐と豹」

イソップの「狐と豹」のお話では、動物が集まって自分の美しさを自慢する。豹が身体の色の種々様々を自慢すると、狐が「自分は身体ではなく精神が種々様々だとその美しさを自慢する。(「イソップ寓話集」 37山本光雄訳 岩波書店1942/2) イソップは「身体の美しさよりも心の飾りの方が優れている」と言い添えるが、イソップの狐のずるがしこさを知れば「美しい」とは思えない。そもそも、「美しさ」は、他人が決めるもので(それも個々それぞれに)決まった基準はなく、まして自分が自慢できるようなものではない。

(心のデボーション5683)

心のデボーション5684

「我この一切の事を見また日の下におこなはるる諸の事に心を用ひたり時としては此人彼人を治めてこれに害を蒙らしむることあり」 伝道8:9  明治元訳聖書

「わたしはこのすべての事を見た。また日の下に行われるもろもろのわざに心を用いた。時としてはこの人が、かの人を治めて、これに害をこうむらせることがある。」 口語訳聖書

 「支配のわざわい」

放火魔は火をつけることよりも、燃え上がる炎に人々が立ち騒ぐことに快感を感じるという。自分が人々を振り回しているという「支配」の感覚を味わいたくて、この危険なゲームから下りることができなくなる。それだけ、周囲から支配を受け、身動きのとれなくなった人なのかもしれない。人が人を支配するところから多くのわざわいと不幸な悲劇がはじまる。「愛しているのだから」というのは支配の理由にならない。

(心のデボーション5684)

心のデボーション5685

「そのころ弟子のかず増加はり、ギリシヤ語のユダヤ人、その寡婦らが日々の施濟に漏されたれば、ヘブル語のユダヤ人に對して呟く事あり。」 使徒6:1  大正文語訳聖書

「そのころ、弟子の数がふえてくるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して、自分たちのやもめらが、日々の配給で、おろそかにされがちだと、苦情を申し立てた。」 口語訳聖書

 「ぶつぶつ」

初代教会の共同体で「ギリシヤ語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して」「自分たちのやもめらが、日々の配給で、おろそかにされがちだと、苦情を申し立て」られた。(使徒6:1) 日本語で「呟く」は「小さな声でぶつぶつと独り言を言う」である。ギリシャ語は「γογγυσμός」で、この語は「ささやく」から来ていて、相手の囁くつぶやきである。「小さな声でぶつぶついう独り言」は、やがて、相手の耳に囁くようになる。

(心のデボーション5685)

心のデボーション5686

「答へて言ふ「なんぢの兄弟歸りたり、その恙なきを迎へたれば、汝の父肥えたる犢を屠れるなり」 ルカ15:27  大正文語訳聖書

「僕は答えた、『あなたのご兄弟がお帰りになりました。無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです』。」 口語訳聖書

 「恙なく」

放蕩息子を「無事に迎えた」として盛大な宴が設けられた。大正文語訳聖書は「その恙なきを迎へたれば」と訳す。「恙なき」という言葉は「ふるさと」の歌詞に「如何にいます 父母 恙なしや 友がき」とあり親しい。これは「ツツガムシ」による「恙虫病」の関連から悪質な災いの意味にとる場合があるが、そうではなく、「恙」は元来「病気や災いがないこと」を意味する古語であり、「故郷」に歌われるのも「両親や友達は元気にしているか」と歌うものである。「無事に迎えるἀπολαμβάνω」は「取り戻す」の意味し、父と子が失われた絆を「取り戻した」ことを祝う宴であった。

(心のデボーション5686)

心のデボーション5687

「我等みな地に倒れたるに、ヘブルの語にて「サウロ、サウロ、何ぞ我を迫害するか、刺ある策を蹴るは難し」といふ聲を我きけり。」 使徒26:14  大正文語訳聖書

「わたしたちはみな地に倒れましたが、その時ヘブル語でわたしにこう呼びかける声を聞きました、『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげのあるむちをければ、傷を負うだけである』。」 口語訳聖書

 「棘のついた棒」

昔、ユダヤでは牛を追うのに「棘のついた棒κέντρον」を使った。牛はそれを嫌って棒を蹴る。しかし、そんなことをすれば牛はもっと激しい痛みを受けなければならない。教会を迫害していた頃のパウロにとって、イエスは「棘のついた棒」であった。従うことを嫌がる私たちに「棘のついた棒」がさし出されても、それを蹴ったりしないことだ。「棘のついた棒」は牛を襲う野獣を追い払うためでもあったのである。

(心のデボーション5687)

心のデボーション5788

「惡に勝たるることなく、善をもて惡に勝て。」 ロマ12:21  大正文語訳聖書

「悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。」 口語訳聖書

 「善をもって悪を征服せよ」

「善をもって悪に勝ちなさい。ἀλλὰ νίκα ἐν τῶ ἀγαθῶ τὸ κακόν」。(ロマ12:21) 「打ち勝つνικάω」は「征服する」で、「善をもって悪を征服せよ」。「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる」。(箴言16:32)

(心のデボーション5688)

心のデボーション5789

「なんぢの財寶のある所には、なんぢの心もあるべし」 マタイ6:21 大正文語訳聖書

「あなたの宝のある所には、心もあるからである。」 口語訳聖書

 「心」

「心 καρδία」は「精神生活の中心、理解力、感情、気持ち、精神、思考、真情」である。「虫も錆も盗人も」損なうことのできない富」とは「私」であり、「私」のあるところには「心」もある。「富 qhsauro,j」には「貯蔵室、倉庫」の意味もある。「私」とは蓄え豊かな「貯蔵室、倉庫」である。そこからとりだすものは何でも値尊き「宝」である。

(心のデボーション5689)

心のデボーション5690

「なんぢの財寶のある所には、なんぢの心もあるべし」 マタイ6:21 大正文語訳聖書

「あなたの宝のある所には、心もあるからである。」 口語訳聖書

 「私」

「心」にとまるものがすべて「富」とはいえない。というのは「私」というものが「消えていく富」というものもあるからだ。それらは決して「宝」ではない。真の「富」と言えるのは「私」であろう。それは腐食することなく、盗まれることなく、蓄えるに値する。「私」のあるところに「心」がある。

(心のデボーション5690)

コメント